第1節「「気持ちの正体」 ―御島 亮
いつの間にか、引くに引けなくなっていた。
分かっていたのに。
大事なものを失いたくないと願うのは、もう手遅れなのだろうか。
* * *
家族のために早起きしていたら、いつの間にか、スヌーズがなくても起きられるようになった。
5時30分にかけていたアラームを3秒で止め、さっさと立ち上がり、スポーツウェアに着替える。
下に降りると、珍しく早起きした凛が話しかけてくる。
「おはよぉ。……うへぇ、日曜日なのになんでこんなに早起きしないといけないのぉ?」
亮くん毎朝それで眠くないのぉ?と聞いてくる。まずは一番気になったことを聞き返してやった。
「なんかお前最近口調チャラいけど、アニメかなんかの影響?」
凛はもうちょっと、普通の話し方をするはずだ。確かに明るいが、チャラいというのとはまた別だ。
「……とも、クラスメートのがうつったかな……?」
凛が遠い目をしてそう言う。「ともだち」と言いかけて言い換えたように聞こえたが、突っ込んでもどうせこいつは何も言わないだろう。
「なんだ、周りにそんなチャラい奴しかいないのか?」
「んと、まあそんな感じ?」
なぜ疑問形。
まあいい。今はこっちが先だ。
「……とりあえず行ってくるから、いつも通り朝飯よろしく」
「んー、りょーかーい」
まだ眠そうな声の凛を残し、俺は家を出た。もちろん鍵は二重で閉めたし、何度も確認した。
最近どんどん暑くなってきていて、朝どれだけ早く出てきても、結局汗だくになってしまうくらいには、温度が高い。
暑い中、あまり長く外にはいたくない。とりあえず軽く屈伸運動をすると、すぐに走り出す。
朝、こうしてランニングをするのが、高校に入ってからの俺の日課だった。
俺はあまり運動をすることが好きではないんだが、そんなに壊滅的にできないわけでもない。走れないわけでもない。
なぜこんなことを始めたのか。――もちろん、凛のためだ。
――俺は、少しでも強くならないといけない。
でなければ、守りたいものも守れない。
凛を守る。そう決めた以上、手を抜くなんてことは許されない。
そう考えて、俺は二つの意味での「強さ」を追い求めることにした。
まずは、物理的な強さ。それがなくては、いざという時に何もできない。そのための筋トレ、ランニングは毎日欠かさずやっている。
それから、知略、知能、頭脳といった意味の「強さ」。ただ脳筋にぶん殴るだけでは何にもならない。俺が捕まるだけだ。
そのために、とにかく勉強して、頭を鍛える。思考力を養う。こんだけで頭がよくなるとも思えないし、やるだけ無駄なことかもしれないが、俺にできることはこれくらいなのだから、精一杯やるしかない。
一日最低4時間と決めて、時間を捻出して毎日勉強している。これは副産物だが、そのおかげでこの前の期末テストも中間テストも学年2位だった。中学校の時はど真ん中だったから、まあそれなりだと思う。
……1位はどうしても無理だ。森がいるから。
普段はのほほんとしているが、アレの頭の良さは異次元だ。心底アレが敵であってほしくないと思っている。もしそうだったら到底敵わないから。まあそんなこと言っていてもどうしようもないし、がむしゃらに鍛えるしかないんだが。
――母さんを刺されたあの日から、俺は自分のすべてを家族に捧ぐと決めた。決めた以上、行動しなければならない。
父さんの魔の手から、二人を守りきらなければならない。
……俺の分の幸せは、二人に捧ぐ。
そのためだけに、俺は今日も、生きている。
朝の風というのはいつの季節もなかなかに気持ちのいいものだなと気づいたのは、ランニングを始めてからだ。
それは、常に気を張っている俺に、ほんの少しの安らぎをくれる。そんな爽やかさを持つこの行為は、いつからか俺にとって、日課以上の意味を持つようになった。
「楽しい」――なんて。
俺はそんな感情を抱いてはいけないはずなのに。常に気を張っていなければいけないはずなのに。
……たまに、思うことがある。
もしかしたら、そんなに過剰に他人と距離をとるのは、間違ったことなんじゃないか、って。
だが、いつもすぐにそんな考えは振り払うようにしている。
考えるな。俺はいつもそう、自分に言い聞かせる。
二人を守ると決めたなら、手を抜くのはだめだ。
過剰なくらいでいい。俺はこのままでいい。
俺は、このままで――。
「――あ、亮。おはよ」
いつものように聞こえてくる声に思考を邪魔され、思いっきり顔をしかめる。声の聞こえてくる方向をちらりと一瞥する。
そこにいるのは案の定、西宮だった。どうもこいつも毎朝のランニングを欠かしていないらしく、実は毎朝、こうしてばったり会っては、俺に挨拶をしてくる。
正直、本当に訳が分からない。
ここまで無視され続けて、どうしてやめようと思わないのか。普通の人ならメンタルが持たないはずだ。
ふと、俺はそこで違和感を感じた。
……なんだ?
この違和感を確かめたくて、西宮のほうをよく見やった。
違和感の正体には、すぐに気づいた。
――こいつ、確かに細身だけど、ここまで痩せてたか……?
見れば表情にも元気がなく、顔色が悪いように見える。ランニングウェアの袖から除く細身の腕は、中学校の時に比べてさらに細くなっている気がする。加えてこの真夏に、しかも運動中に着る服として何故かジャージの長ズボンを採用していて、その脚も小刻みに震えているのが見て取れる。今にも倒れてしまいそうなくらいに。
――いや、関係ないな。
俺は首を振り、西宮から目線を逸らす。これ以上みていると、まだ考え続けてしまいそうだ。
もう俺は他人に過剰に関わらないと決めたはずだ。ここで他人に関わりすぎるのは、得策じゃない。
そう考え、いつも通り俺はわざとらしくため息をつき、ランを再開した。
いつもなら、西宮はここで諦めて、自分のコースに戻るはずだ。
だが、今日は少し変だった。
まず、去り際に、いつもはあきらめの混じった表情をしているはずなのに、今日はどこか傷ついたような表情を浮かべていたのがちらっと見えた。
そして、
「……ねぇ、亮ってば」
なんと追いかけてきた。
正直なところ、少し、いや、だいぶ困る。だが、ここで足を止めているようでは、俺の決意は何だったのかという話になる。
とはいえ永遠に追いかけられるのは嫌なので、一言言ってやろうかと思い、振り返る。
こちらに向かって走ってくる西宮を見て、口を開き、
「あ……っ!」
西宮がバランスを崩したのを見て、口を閉じた。
ある意味、当然のことだと思う。あんな脚で、今までどうやって身体を支えていたのかが不思議なくらいだったから。
あ……、倒れる。
助けないと……。
でも、俺が守りたいものは……凛と御嶋桜、俺の母さん……。
なら、下手にここで手を出すと……俺の考えがすべて崩れる……。
第一、これが倒れるふりで、ナイフでも隠し持っていて、俺が駆け寄った瞬間に刺そうとしている、なんて可能性も捨てきれない……。
……でも、だからって、お前は、……俺は、目の前の人間を見捨てるのか?
俺の目指した人間って、そんななのか?
それって……あの畜生と、同じ類に堕ちるってことじゃないのか……?
あ……倒れる……。
結局、その場から一ミリも動けなかった。
「……っ!」
やけに緩慢に流れていた時間が再び動き出し、西宮はそのまま派手に転んだ。
めき、と、嫌な音がする。折れているかもしれない。あんなに細い体躯だ。折れていても不思議はない。
「あぅ……つっ!」
実際、西宮は右足を押さえたまま、苦しそうに顔を歪めて呻いている。もし変色していたら確定で折れているだろう。
俺が……見捨てたから……。
結局何もできないまま、俺はその場から転がるように逃げ出した。
西宮の、痛みに歪んだ表情は、救いを求めるような表情は、立ち去った瞬間の絶望に染まった表情は、考えないことにして。
* * *
「ただいま」
ドアを開けると、トーストらしきいい匂いが鼻をついた。
「おかえり。……ってかちょっと、今日遅くない?」
スープ冷めちゃうんですが。と睨まれ、ごめん。と頭を下げる。
「まあいいけどさ、温めなおすし。それより早くシャワー浴びてきなよ、汗臭い」
「……ああ」
考え事をしていてつい生返事になってしまい、はっとする。やばい、怒られるか?
急いで顔を上げると、凛はぽかんとした表情を浮かべていた。
「……どうした、凛?」
恐る恐る問うてみると、
「いや、……いつのの亮くんなら『うっせぇな、言われなくてもさっさと行くっての』とか言いそうじゃない?」
なんか今日やけに素直だなって思って、と言われて、
「……そうかもな」
また適当に返事をしたら、
「適当に返事しないでよ!」
さっさと行けー!と教科書やらノートやらが飛んできたので、躱しながら急いで風呂場に向かった。
我が家のシャワーはボタン式で、1回押したら30秒は出てくるから、俺はだいたい2回押している。1分もあれば十分汗は洗い流せる。
シャワーを浴びながら頭に浮かべるのは、いつだって凛や母さんのことだ。
だが、今日は違った。
……もし、俺があのとき動けていたら。それなら、西宮は怪我せずに済んだはずだ。
――でも、それは今の俺を壊すことになる。今の俺を壊すということは、二人を守るという使命を放棄するというのと同義だ。それを防ぐには、やはり何もしないのが正解だった。それは、理性では理解できる。
だが、……家族を守るために、目の前で今まさに怪我しようとしている人間を、傷つけていいものなのだろうか。
分からなかった。分からないと頭を抱えるたびに、あの救いを求めるような表情が、絶望に染まった表情が、脳裏に蘇ってくる。
これだから、西宮とは極力関わりたくなかったんだ。今更後悔しても遅いが、こればっかりはどうしても、だ。というか後悔というよりも、昔のことをどうしても思い出してしまう、という方が近い。
今更なんだという感じだが、こればかりは仕方ない。
まだ何も知らなかった中学生の頃、俺が西宮のことを好きだったという事実は、今更変えようもないのだから。
だからこそなのか、なんだか西宮が相手だといろいろ調子が狂う。うまく突き放しきれないと言うかなんというか。やりにくいことこの上ない。
……正直、思うところはある。ずっと好きだった思いに蓋をして、家族を守るために突き放そうとしているのだから、俺にとっても向こうにとっても、納得しろという方が厳しいだろう。
だが、一度決めておいて、俺の私情で一人だけ特別、なんてできるわけがない。いや、あってはならない。
それは、今の俺を、そして家族を壊す。俺の私情で、他人を振り回すなんてできない。
シャワーが止まる。体についた水滴を軽く振り払うと、俺は風呂場から出た。
「あのさ、亮くん」
「?」
凛が焼いてくれたパンを齧っていると、凛のほうから話しかけてきた。
ちなみに凛が焼くパンはほぼ絶対に焦げない。料理はてんでダメなくせに、何故かパンを焼くのだけは異常に上手いのだ。
そのパンを一度飲み込んでから、問い直した。
「何?」
「……その、ちょっとお願いがあって」
「お願い?」
「うん」
変な気分だった。凛は基本的には無欲で、あまりお願いをしない子だったから。
これはなにかあるに違いないと思い、
「どうした、改まって?」
と聞いてやると、凛はためらいがちに、口を開いた。
「え、っと、……ちょっとお買い物、ついてきてほしいな、って」
「……ん?」
「文房具とか、足りなくなってきてるし。あと食品も買い足しときたいから、ちょっとモール行きたくて」
……思っていたより、普通のお願いだった。
「いいけど、別にそんな改まって言わなくても」
そう返しておく。そうと決まれば準備だと思い、さっさと立ち上がって歩き出した。
「さっさと支度して行くぞ」
「……うん!」
過剰なほど嬉しそうな顔を作り、部屋に向かって駆け出した凛を見て、また変な気分になった。
――そんな嬉しいか?双子の兄とちょっと文房具と食品買いに行くだけだぞ。
ふと、最初に「お願いがある」といった時の、思い詰めたような凛の表情を思い出す。
……もしかして。
ひどくもやもやした気分になり、そういえばまだパン食べ途中だったな、と思った。
大型ショッピングモール「モール」は、俺達の家から徒歩5分圏内にある。いつも思うが、ショッピングモールの名前が「モール」とは、手抜きにもほどがあるのではないだろうか。
『本日も、モール渋谷をご利用いただき、誠にありがとうございます......』
いつもの館内放送がかかるモール内を、凛と並んで歩く。
相も変わらず人でごった返している道を苦戦しながら、凛の指示のままに文房具店に向かって進む。
「ねぇ〜歩くの疲れた〜!エレベーター使お〜よ〜」
やけに間延びした声で凛がそう言ってきたが、
「ダメだ」
一言で切り捨てる。エレベーターなんて狭い場所、誰かと乗り合わせでもしたらどうなるかわからない。
「え〜」
不満そうに唇を尖らせる凛に、俺は心のなかでそっと囁いた。
――必要なことなんだよ。お前を守るために。
それは口には出さずに、凛に尋ねる。
「そういえば例の店どこにあんの?」
「ん?あーえっとね、三階のどっか!」
そこまでしか知らねえのかよ……。
「じゃあなんで今4階にいるんだよ?」
俺達が入ってきたのは当然1階からだ。今4階ということは、通り過ぎているということになるが。
「え?あ!」
気づかなかった!と口元を覆う凛。マジかこいつ。
「降りるぞ」
「はーい」
すごすごと歩く凛に並び、エスカレーターに乗る。
降下していく途中で、クラスメートらしき何人かとすれ違った。俺はさっと違う方向を向き、目を合わせないようにする。もちろん凛はエスカレーターのすれ違わない方にいるから、そっちを見ていれば凛も見守れるし、目を合わせなくていい。
そこで、また西宮の顔が頭に浮かんできた。
……あの怪我、大丈夫なんだろうか。あのあと、ちゃんと家に帰れたのだろうか。
考えれば考えるほど、自責の念に駆られる。
――いや、考えても仕方ない。今は考えるな。
「着いた!ここここ!」
急に凛が声を上げたことで、ようやく目的の店にたどり着いていたことに気づく。
「あ、ああ、じゃあ入るか」
「?う、うん?」
俺の反応が急に歯切れ悪くなったからか、凛は少し戸惑ったように頷いた。
凛が買いたかったものは、シャー芯と消しゴム、下敷き、糊、赤ペンだった。
「よし、じゃあ次々!」
元気よく言って、凛は一階のスーパーに向かって駆け出す。
「あ、おい!」
あまりに急に駆け出したので驚いて、俺も慌てて追いかける。
……その時、
「あ」
間抜けな声を上げ、凛は足をもつれさせた。
……あ。
たぶん、いきなり駆け出したからだと思う。そりゃそうだ。変な姿勢から急に走り出したら、バランスを崩すに決まってる。
……倒れる。
朝の西宮の姿が、凛に重なる。
まして、今回は家族だ。あいつほど骨は弱くないとは思うが、荷物で凛の両手が塞がっている今、危ないことに変わりはない。
今回は反射的に、体が動いた。
「……っ!?」
……しかし、少し遅かった。
俺より先に動いたやつがいたのだ。
そいつは偶々そばを通りかかった3、40代位の男で、バランスを崩した凛に素早く近づいた。
一瞬の出来事のはずなのに、俺の視界には、今朝のように、その光景がやけに緩慢に映った。
そいつはポケットに手を突っ込んで歩いていて、凛がバランスを崩した直後にポケットから手を出しながら近づいて――。
「……!!」
凛が危ない!
「り、」
ん!と続けようとした言葉は、すぐに消えた。
――男は、ポケットから手を出して、凛の身体を支えただけだった。
「君、大丈夫?」
「あっ……、はい!ありがとうございます!」
そんな会話も交わしている。
――助けて、くれたのか……?
……赤の他人が?
「なんで……?」
思わず、声をかけてしまっていた。
「……ん?」
男は、少し怪訝そうな表情を浮かべた。
「なんで、……とは?」
その声で我に返る。
今、何故俺は、他人に声をかけた?……これでは、決意も何もあったものではない。
第一、これは俺達の油断を誘うためで、それからいきなり攻撃してくる可能性もある。ここは適当なこと言って誤魔化して、さっさと退散するのが吉だろう。
「あ、いや、なんでも……」
なんでもないです、と言おうとしたが、その声は男に手で制されたことで消えた。
男は手を上げたまま、穏やかな声で言った。
「まあいいんだ。目の前で誰かが困っているのに、放っておけないだろう?当然のことをしたまでだよ」
困っている、とは違うのかもしれないけどね、と、微笑を浮かべる。
……当然の、こと?
じゃあ、俺は……。
「兄がすみません!ありがとうございましたっ!」
突然、凛に手を引かれる。そのまま猛烈な勢いで、俺は凛に引っ張られた。
「は?……お、おい!」
「じっとして。……もう、あの人、困ってたでしょ?」
そっと囁かれて、そうなのか、と、今更気づく。
去り際にさっきの男の方を見やると、男は微笑みを浮かべたまま、こちらに手を振っていた。
――考えないことにした。
* * *
二人の子供達が去ったのを確認してから、ゆっくりと後ろを振り向く。
口元が緩むのを抑えられず、声を出さないようにしながら笑う。
ここまで、完璧にわたしの思う通りに事が運んでいる。
最後の鍵になるのは、あの二人。
最後まで、わたしの用意した最高の舞台の上で、踊ってもらうとしよう。
「――すぐに、迎えに行くからね」
ぽつり、と呟いた声は、モール内の喧騒に混じって消えた。
* * *
「買いすぎちゃったかも……?」
「……かもな」
モールからの帰り道。俺と凛は、並んで買い物袋を下げて歩いていた。
人間の腕は2本しかないはずなのだけれど、俺達の手には何故か3つずつの袋が並んでいた。
非常に重い。
「なあ、こんなに買う必要あったのか?」
「だって安かったし……」
こいつ将来、詐欺かなんかに引っかかりまくってそうだな。
「お前まじ気をつけろよ?」
「ん?何が?」
頓狂な声を上げる凛。
「いや、なんでもない」
そう言って適当に誤魔化しておく。
そして、また周りを軽く見回す。凛と外を歩く時は、周りに何かが近寄らないように、常に周囲を見回すようにしている。
周りに人がいないのを確認したとき、ふと気づいた。
――朝、西宮と会った場所だ。
西宮の姿はない。あの後頑張って帰ったのだろう。痛む足を引きずりながら必死に家に帰る姿を想像し、少しだけ嫌な気持ちになった。
……あれ?
なんだか、路面の色に、違和感がある。思わず立ち止まった。
これは……。
「……亮くん?」
凛も立ち止まり、戸惑ったような声で俺の名前を呼ぶ。
俺は、ようやく違和感の正体に気づいた。それは、俺を恐怖させるのには十分すぎるものだった。
……血、だった。
しかもその位置は、俺の記憶が間違っていなければ、今朝ちょうど、西宮が倒れた位置だ。
更に、そこからその血の色が伸びている。ずっと向こうの方まで伸びている。それはまるで、何かに引きずられて動かされたかのように、ところどころかすんでいる。
しかも、西宮の家とは真逆の方向に。
「事故でもあったのかな……?」
観察眼のない凛は、引きずられたような跡には気づかずに首を捻る。
「……かもな」
自分でもわかるくらいかすれた声で、俺はそう答える。
「亮、くん?」
流石の凛も俺の様子がおかしいことに気づいたようで、戸惑いがちに声をかけてきた。
「いや、……なんでもない。ほら、さっさと帰るぞ」
そう言って、俺はそれに背を向けた。
「あ、……う、ん?」
不思議そうな表情のまま、凛は後をついてきた。
考えそうになる気持ちに蓋をして、俺はまた「逃げた」。
自分の罪からも、人を助けることのできる可能性からも目を背け、「家族を守る」という大義名分を掲げて、逃げた。
他人と向き合うことから、逃げた。
* * *
それは、凛とモールに行った次の日、いつものように、極限まで集中して教師の話を聞いているときに起きた出来事だった。
「……というわけで、克典さんはこのとき非常にがっかりしていたことが読み取れますね。それはここの”がっくりと肩を落として”という表現からわかるわけですが……ん?」
国語の授業中なのに、クラス担任の英語教師、田村先生が突然、部屋に入ってきたことが始まりだった。
俺にとっては、とてもとても、大きな出来事。ずっとずっと、待ち望んでいたことでもあった。
「すみません先生、少しよろしいでしょうか」
「はいはい、どうしました?」
二人の先生が何やら話し始める。授業は当然中断、教室は何事だ何事だと、騒ぐ生徒たちの喧騒に包まれた。
「なんと!いやいやそういうことでしたら、もちろん構いませんとも、ええ」
国語の木島先生はそう言うと、大きく頷いた。教室は途端に静まり返った。
これから何が起こるのかと、全生徒が注目する中、木島先生は――。
「御島くん、ちょっとこっちへ」
俺の名前を呼んだ。
「……はい」
成績のためにも、先生に抗うのは得策じゃない。警戒しつつ、俺は腰を上げた。
「田村先生のところへ」
「はい」と返事をして、田村先生といっしょに廊下に出る。
「……どうしたんですか」
なにか要件があるなら、さっさと済ませてしまいたい。あまり他人と二人でいたくない。そう思って、すぐに話を促す。
田村先生はそこで、驚くべきことを口にした。
「君のお母さんが目を覚まされたそうだ。これから学校を早退して病院に行くこともできるが、御島はどうしたい?」
「え……」
しばし呆然としてしまう。
母さんが、目を覚ました……?
「すぐに行きます」
気づけば、即座に返事をしていた。
「そうか」
田村先生は、まるでその答えを予期していたかのようにそう言い、続けてこう言った。
「妹さんの方はすでに校門前で待っている。すぐに荷物をまとめて行ってあげなさい」
「はい!」
思わず大きい声を出して返事をした。先生が少し目を見開いたが、何か口にする前に、さっさと身を翻して荷物の用意をしに行った。
「悪い、待たせた」
「……もっと早く準備できなかったわけ?」
「……充分早いだろ」
思わず突っ込んでしまう。一分もかからずに準備を終え、ジャスト一分くらいで教室を飛び出して走ってきた兄に対して言うセリフがそれかよ。
「まあいいけど。ほら、さっさと行くよ」
「……ああ」
そうして、ふたりとも無言のまま駆け出した。
何も喋らないのは、お互いに気が急いているからだ。
言葉はなくても、きっと考えていることは同じはずだ。
……早く、元気な母さんに会いたい。
その一心で、ただ走った。
「……っはぁ、はぁ……」
全力で走り続け、ようやく母さんが入院している病院にたどり着く。息を切らしながら受付を済ませ、病室の前まで歩いていく。
因みに、母さんは有名なアーティストだから、状態の良し悪しに関係なく、個人病棟に入れてもらうことができた。だから、今日は誰にも邪魔されることなく、久しぶりに家族水入らずの時間を楽しむことができる。……はず。
病室の前に着いた。
「……開けるぞ」
「……うん」
凛も緊張しているのか、少し声が震えている。俺は昂る気持ちを抑え、静かに扉をノックした。
――コン、コン、コン、コン。
扉を叩いた音が、静かだった病院の空気を微かに揺らした。
「どうぞ〜」
ややあって、そんな声が聞こえてくる。それは少しくぐもってはいるが、間違いなく、母さんの声だ。
久しぶりに聞く、母さんの声。
逸る気持ちをどうにか抑えつけ、扉を勢いよく開けて飛び出していこうとする凛も押さえ、できるだけ静かに、扉を開いた。
「あっ、来た来た」
長い黒髪を靡かせ、ベッドから体を起こしたその女性は、息子の俺がいつ見ても学生か何かと見紛うほどに幼い顔立ちをしている。それでいて顔の全パーツが洗練されて整っていて、贔屓目なしに見ても思わず息を呑んでしまうような美しさを兼ね備えている彼女は、俺達の姿を見るなり嬉しそうにこっちに向かって手を振っている。
俺達の自慢の母親、御島桜だ。
「……おか〜さ〜ん!!」
こらえきれなかった凛が、すぐに母さんに飛びつく。
「あ、おい!」
母さんは腹部を怪我している。そんな風に飛びついたら……!
しかし、俺の予想に反して、母さんは自分よりも身長の高い凛を、軽々と抱きとめてみせた。痛そうな顔の一つも見せない。
「ごめんね、凛。寂しい思いさせちゃったよね」
――ああ。
俺達の、母さんだ。
「亮もこっちおいで?」
ほら、と、母さんが凛を左腕でしっかり支えながら、右の空いているところを広げる。
不意に、鼻の奥がツン、とした。
なにか熱いものが、頬を伝う。それが瞳から溢れていくのと同時に、抑え続けていた感情が、堰を切ったように一気に溢れ出る。
「母さん……っ!!」
俺はゆっくりと母さんの方に歩み寄り、空いた方の腕に顔を埋めた。
飛びつかなかったのは、母さんに気を遣ったんじゃない。……ただ、感情が昂りすぎて、制御しきれなかっただけだ。
この感情の、正体は、きっと……。
年甲斐もなく、何分間も泣き続ける二人を、支え続ける母親。穏やかな表情で、我が子を眺めるその瞳からは、しかし確かに涙が溢れていた。




