バンシーの秘密
高貴な貴族にして魔法使い。
スクリーミング ロード リッチ公爵の弟子となったモート少年。
その修行の日々は…広い御屋敷で、得体の知れぬ師と、たった二人だけで生活するところから始まった。
その暮らしぶりはいたって普通。
奴隷の身分ではないが、生活や仕事は他所の使用人と何ら変わらない。
そんな毎日が彼を待っていた。
特別に常軌を逸したものではなかった。
屋敷の中で常軌を逸していたのは、彼の師である、スクリーミング ロード リッチ侯爵その人であった。
魔法使いの弟子の朝は鶏と同じくらい早い。
モートはベッドから起き出し、暖炉に残った灰を掻き出し、新たに火を起こす。
それから湯を大量に沸かし、屋敷の階段の真鍮の手摺を、ぴかぴかになるまで磨く。本来ならば、師匠が起き出す前に朝食の支度もするところだが。
「磨きが甘いぞ、モート」
ヴィクトリア朝パジャマ姿の師匠が、持っていたステッキで頭をこつんと叩く。
モートの師匠は朝に弱い。
頭に被ったナイトキャップからは、鋤いていない、寝癖の髪がのぞいている。
自慢の髭も下を向いたままだ。
今もとても不機嫌そうに、モートの仕事ぶりを見ている。
こんなに朝早く起きて、使用人の仕事ぶりを監視する主も他にあるまい。
師匠は、弟子が怠けずちゃんと仕事をしてるか?陰険に監視しているのかと言うとそうではない。
その証拠に。
「どれ、貸しなさい!」
そう言って、モートから布巾を奪うと、自ら屈み込んで真鍮を磨き始めた。
「真鍮の手摺はこうやって…上から下に布巾で包むように…やってみなさい!」
「窓のガラスは四隅をしっかり拭いて、最後に真中をさっと拭き取るのだ」
「茹で卵は塩を入れてきっちり3分で…」
「やってみなさい」
師匠は仕事を言いつける前に、必ず自分がまずやって手本を見せた。
広い御屋敷にぽつんと二人。
師匠はモートに言った。
「使用人を雇えば住む話だ。一人なら魔法を使えばこと足りる。ではお前は、何のために此処に私と居るのか…修行の意味がないではないか」
モートは、立派な身なりの貴族である師匠が、自分に仕事の手本を見せる様子を見て、大変申し訳なく思った。
だから二度と同じことを師匠にさせないようにと。毎日仕事に励んだ。
魔法使いの弟子となったモートであったが。
師匠が自ら進んで魔法を使う場面には、なかなか出会すことはなかった。
「師匠はもしかしたら、魔法使いなどではないのかもしれない」
そんな疑念も頭にわいた。
それでも毎日は忙しく過ぎた。
師匠は、いつも自分と同じテーブルの席で食事を取るように言った。
食事も、主と召し使いといった分け隔てはなく。師匠と同じ物を食べたいだけ食べていいと言われた。
故郷の国の暮らしや、待っていた筈の奴隷としての生活とは、天と地ほどの差があるとモートは思った。
御屋敷は広く手入れは大変だけど、御世話するのは師匠一人だけだ。
手抜かりなくやればやるほど。
若いモートは仕事にも慣れ。
体も楽になった。
けれどモートが仕事をしている時、師匠はモートに言った。
「モートよ、私は熟練した一流の召し使いを雇いたいわけではないぞ」
モートはすぐ仕事慣れて。
そうなろうとしていた。
役にたてばそれでいい。
与えられた仕事をきちんとこなせば、重宝されて大切にしてもらえる。
此処に居場所が出来る。
それは意味ある行為だ。
普通の人間なら考える。当たり前のことを当たり前に。モートも考えた。
けれどそれを、師匠にたしなめられた。
与えられた仕事をひたむきに…
たとえ師匠の目が届かなくても。
一生懸命やるのは当たり前の事だ。
しかしモートは魔法使いの弟子だった。
「どうすればいい?どうすれば、俺は師匠に認めてもらえる魔法使いになれるのだろう?」
毎日そんなことばかり考えた。
しかし師匠に与えられた仕事は、修行とは程遠い、家事や雑用ばかりだった。
ある朝、いつものように階段の真鍮を磨いていると、二階から師匠が降りて来た。
師匠は、階段の踊場にしゃがみ込んだモートの前で足を止めて、ステッキで真鍮を二度ほど叩いた。
モートは、てっきり磨きが甘いと怒られると思い真鍮を見た。
汚れや曇りなどない。
真鍮は輝いて見えた。
「モート、一体これはなんだ?」
「階段の手摺の真鍮です」
「真鍮はどうだね」
「真鍮は固くてぴかぴかしてます」
「なぜ固くてぴかぴかなのだ」
「真鍮だから…です」
「なるほど…お前は真鍮をそうだと思うし、世界中の人間が真鍮や手摺はそういうものだと思っている。おそらく真鍮も、そうだと自分で思うのだろうな」
「はい…真鍮もですか?」
「だから真鍮は、そこから逃げ出したりは出来ないのだ!真鍮かくあるべし!そんな思いが集まって、山も海も、女王陛下の宮殿も、この世界もそこにあるのだから」
そう言って、師匠はもう一度階段の真鍮を軽く叩いた。特別何も起こらなかった。
師匠は悪戯っぽく笑う。
小さな子供がするように、並んだ階段の真鍮にステッキを滑らせた。
まるで木琴を鳴らすマレットのように。
ステッキの先が触れた真鍮は、モートの目の前でたわみ、ハーブのような音色を奏でた。
そして師匠が気分よく一節歌った途端。
世界がぐにゃりと歪んで見えた。
モートは意識を失い。
その場に昏倒した。
目を覚ました時モートは、自分の部屋のベットの中にいた。
部屋には師匠もいた。
「師匠…俺は一体どうしたんですか?」
モートが目覚めると。
師匠は弟子に向かって。
詫びの言葉を口にした。
「すまないモート、お前がいるのを忘れて、つい歌など口ずさんでしまった」
聞けば師匠の声は、普段会話をするのには問題ない。
しかし師匠が歌ったり叫んだりするその声は、本来人にはよくないものらしい。
それは、師匠が英国で有名なバンシーという精霊の血が流れているからだと聞かされた。
スクリムー師匠の御先祖の一人であるバンシーとは、アイルランドやスコットランド地方にその伝説が伝えられている。
本来そのすべてが女の妖精であり、混血の師匠のような特例を除いて。
男のバンシーなどは確認されていない。
バンシーは伝説によると、家人の死を予告する精霊と言われている。
バンシーの泣き声が聞いた家では、近いうちに死者が出るとされる。
しかし、死が近い人間すべての家に現れるというわけではない。
純粋ケルトやゲール系家族のもとにしか、姿を現さないないともいわれる。
複数のバンシーが泣く場合。
その死者が勇敢な人物か聖人である証とされる。
アイルランドやスコットランドの旧家には、その家固有のお抱えバンシーがいて。
たとえ故郷を遠く離れ暮らしていても。故郷にいる家族の死を伝える。
伝えられるバンシーは長い黒髪で、緑色の服に灰色のマントを羽織り。
美しい女性の姿であるとされている。
バンシーの泣き声が聞こえる時。
その姿は一切人には見えないという。
そして、その泣き声はありとあらゆる生物の叫び声を合わせたような。
恐ろしく凄まじいものであるとされていた。
泣き叫ぶバンシーの目。それは燃えるルビーような赤色をしている。
これから死を迎える者のために流すのは、血の涙であるとも言われている。
妖精と出会い、契りを交わした人間には昔から加護があるとされ。
それはバンシーとて例外ではない。
スクリーミング ロード リッチ公爵の御先祖にあたる方が、どのようにしてバンシーと出会い、やがて子を成したのか。
今となっては想像すらつかない。
「私は生まれついての高等遊民である」
もともと家に固有のバンシーがいるほどの、それこそ貴族の名家であったか。
それとも、バンシーと出会い契りを結んだことで、精霊の加護を得たものか。
「我が弟子よ、ここでひとつの疑問が浮かばぬか?」
師匠の言葉にモートは思考をめぐらせて考えた。そして師匠に訊ねた。
「師匠…師匠の泣き叫ぶ声は、とても危険なものだと聞きました」
「さよう、悪魔も逃げ出す叫び…世間ではそう言われておるぞ」
「師匠が赤ちゃんなら大変なことです」
赤んぼうの泣き叫ぶパワーは凄まじい。
故郷の家では、幼い弟や妹たちのめんどうを散々見させられた。モートは知っている。
「赤んぼうが一度泣くと、本当に手がつけられなくなります。もしも師匠が、赤ちゃんであった日のことを考えると…恐ろしくて身震いがします」
「その通りだモート!」
モートの話を、黙って頷いて聞いていた師匠は、彼の膝の上に兎の耳当てを置いた。
「乳母も祖母も父親も、私を育てるのに、この魔法の耳当てを使ったと聞く。我一族に代々伝わる、魔法の道具だ」
なんでもこの耳当てをすれば、師匠の声は遮断出来る。
それどころか、あらゆる魔法をも防ぐことが出来る。
強力な結界を帯びた防具でもある。
そう師匠はモートに説明した。
「今日からそれをお前にやろう」
「これを、俺にですか?」
師匠の言葉が本当なら、この耳当ては敵対する相手に渡れば…
それこそ、師匠にとっては致命的な敗北を呼ぶ結果となる。
「それがあれば、これから私がどんなに魔法を見せようと、無事でいられる」
「それでは師匠!」
モートの目から自然に涙が溢れた。
「ふむ…とりあえず見習い期間は卒業としよう!なにしろ私のあの歌を聞いて、即死しなかった者はお前が初めてだ!」
「え」
「魔法への耐性は、この屋敷で充分に養われたようだ!普通なら、もって3日」
「師匠」
スクリーム師匠は上機嫌で、フロック コートのポケットから、1枚のカードを取り出した。
「明日から更なる修行だ!モート!」
てっきり免許皆伝の書とか、魔法のアイテムが貰えると思った。
しかし、現実も魔法の世界も、それほど甘くはないようだ。
「あの…師匠これは?」
師匠に手渡された1枚のカード。
そこにはシルクハットに燕尾服、洒落たモノクルに、自慢の髭をたてた師匠の肖像画が描かれていた。
おめかしして横顔で頬笑む師匠が、カードの中からこちらを見ている。
「いらね~」
モートは内心そう思った。
けれど師匠の手前、きちんと礼を言って、シャツのポケットにそれをしまいかけた。
「慎重に扱うのだぞモート!それには強力な、我が魔力が込められている。もし扱いを間違えると…お前は死ぬぞ」
師匠に言われて、カードを持つモートの手に緊張が走る。
「物事万事、見た目に騙されてはならない。この愛くるしい見た目に油断大敵!」
そう言って師匠は、モートの手からカードを抜き取る。
「やはりこれは私が保管して…修行の際にだけ、お前に渡すとしよう」
そう言って師匠は、カードをフロックコートのポケットにしまった。
「今日はよく休め。夕食は私が用意しよう…明日からの修行に励めよ、モート。己の心を石にたとえて、磨けよ。モート」
背中を向けて、部屋のドアに向かう師匠に、モートは言葉にならない感謝の気持ちが湧いてくるのを感じた。
「師匠…俺はきっと師匠の御恩に報いられるような、立派な魔法使いになってみせます!」
その言葉が聞こえたわけではないが、師匠は扉の前で、くるりと踵を返した。
「そうだ!そうそうそうだ!モート…私は一つお前に話し忘れたことがあるぞ!」
人さし指を立てて、つかつかとモートのベットに歩み寄る。
「は…なんでしょうか師匠!」
今日も、師匠がバンシーや魔法について、有意義な話を聞かせてくれた。
モートは師匠の言葉を、一言一句聞き逃すまいと耳を傾ける
「我が御先祖である精霊バンシーの話だが…精霊と契りを交わした者は、その加護が得られるのだと…」
「はい!先ほど確かに、師匠から伺いました…」
どうして話をしながら、師匠は上着を脱いでいるのだろう。
「それは、私の先祖にあたるバンシーも、例外ではないと聞いた」
部屋がけして熱いわけではないのに、どうしてネクタイまで外して。
シャツのボタンにまで手をかけて。
気がつくと師匠は、上半身に何も身につけていなかった。
「モート、私にもそのバンシーの力は宿っている筈だ…弟子のお前にも精霊バンシーの加護を与えようではないか!」
「待って下さい師匠!お気持ちはありがたいですが…師匠と僕は男同士…それは出来ません…いくら師匠でも…無理やめて!」
モートは顔を背けて。
両手で師匠を拒んだ。
暫くしても何も起きなかった。
おそるおそる目を開けると、師匠がぽかんとした表情で、モートを見ていた。
「モート、お前の言葉の意味がわからん。私にもわかるように説明してくれ」
「し、師匠は今しがた俺に精霊の加護を得るためにには、師匠と契りを…交わりまぐわえと…」
想像しただけで恐ろしい。
モートはベットの上で小鳥のように震えた。
「馬鹿を申せ!」
ステッキで頭をこつんと叩かれた。
「お前は私をなんだと思っている」
「では僕は、師匠の慰み物とならなくてよいのですね?」
「当たり前だ!供物ならもっとましな物を我は所望する。妄想は魔法の源泉となるが…もう少し健康的な発想をしなさい」
「すみませんでした」
もしも…自分が引き取られたのが、師匠でなければ…奴隷の身分の自分には、想像したような、おぞましい未来が待っていたかもしれない。
そう考えると、やはり自分はこの師匠に感謝の心を忘れてはならない。
モートは心の中でそう思った。
「私も、自らの血に流れるバンシーの特性を生かす魔法使いになろうと、日々研究を続けているのだよ」
そう言って師匠の右手が空を切ると、
手の中に立派な壮丁の書物が現れた。
「読んでみなさい」
ずっしりと重い。革表紙の本がモートの膝の上に置かれた。
触れてもいないのに本が開いて。
ページが勝手に捲られて行く。
今日再び見る師匠の魔法。
なんというかっこよさだ。
これで服さえ着ていれば。
モートは、捲られた本のベージが止まっても。項垂れたままだった。
「師匠…俺は…文字が読めません」
恥ずかしそうにモートは言った。
この国の言葉のアルファベットや、少しの単語なら理解出来る。
母国の言葉は勿論流暢に話せる。
でもどちらの読み書きも。
モートには出来なかった。
「モート、お前はこの屋敷に来て何ヵ月になる?」
師匠の問いは叱責に聞こえた。
「仕事の合間にも、読み書きを学んでおくべきだった…自分は努力が足りていない」
そう思うと恥ずかしくて。
とても師匠の顔など見ることが出来なかった。
「私は異国から来たお前のために、わざわざお前の母国の言葉で話してやるような、親切な師匠ではなかったはずだ」
モートは顔を上げて師匠の顔をみた。
「ここで私と暮らすというのは、そういうのことなのだよ」
師匠はやはり裸だった。
モートは本のページに目を移した。
【エルフィン ナイトの章】
目次にはそう書かれていた。
エルフィン ナイト…妖精の騎士。
いや妖精の守護者…加護と読むべきか。
文字が読めるどころか、意味や智識まで…頭の中に次々と湧き出して来るようだ!
「師匠…!俺文字が!本が読めます!」
師匠は黙って頷いて、続きを読むように促した。
文字が読める。
その内容が理解出来る。
ただそれだけのことが。
愉しかった。
それがモートの心を熱く興奮させた。
モートは夢中で目を輝かせ。
その本の中に書かれている文面を読んだ。
妖精と出会い契りを交わした人間。
彼らには昔から加護があるとされる。
それはバンシーも例外ではない。
妖精が、自身と交わった相手に加護を与える例として…バンシーの乳房を吸った人間は望みを叶えられると語られている。
「そこに書かれていることは真実だ」
耳元で師匠の声が聞こえた。
叫ばずとも。
師匠の声は恐ろしい。
「遠慮するなモート」
「師匠」
「母のように」
師匠…近いです。
魔法使いモートの修行の日々は続く。
今日も部屋に隠り。
机の上にうず高く積まれた真白なカード。そこに描かれた横顔。
彼の師である。
スクリーミング ロード リッチ公爵のポートレイトを模写している。
「書けば書くほどよい」
そんな師匠の言葉を信じて。
モートは師匠の顔を描き続けた。




