事象の地平線と、ゼロ距離の熱力学
新宿第4ダンジョン、浅層・隠し宝物庫エリア。
「……あ?」
翔の口から漏れた間抜けな声は、誰の鼓膜にも届かなかった。
なぜなら、限界容量を突破した皮袋から生まれた『絶対的な漆黒』が、周囲の光だけでなく、音の振動すらも強引に吸い込み始めていたからだ。
ズズズズズズッ……!!
皮袋があった空間を中心に、直径2メートルほどの漆黒の球体——『特異点』が出現した。
それは、魔法でもモンスターのスキルでもない。過剰な質量を無理やり一点に圧縮し続けた結果生じた、純粋な物理現象としての『ブラックホール』であった。
「な、なんだこれ!? ぎゃあっ!?」
最も近くにいた取り巻きの比久が、悲鳴を上げた。
凄まじい重力の渦が、比久の右腕を捉えたのだ。
逃げようと後ろにのけぞる比久だったが、重力は容赦なく彼を特異点へと引きずり込む。
「翔さん! 助け……痛っ、腕が、俺の腕がぁぁぁっ!?」
バリバリ、メチャクチャッ!
比久の右腕が、まるで飴細工のように異常な長さまで引き伸ばされ(スパゲッティ化現象)、限界を超えた骨と肉が螺旋状に千切れ飛んだ。
噴き出した鮮血すらも地面に落ちることなく、そのまま特異点へと吸い込まれ、あっという間に虚無へと消え去る。
「ヒ、ヒクゥゥゥッ!?」
残された割人が腰を抜かし、失禁しながら後ずさった。
翔もまた、手に入れたばかりの白銀のインゴットを取り落とし、恐怖で顔を引き攣らせて這い蹲る。
彼らの足元の石畳が、周囲の宝の山が、そしてダンジョンの強固な岩壁すらもが、メキメキと音を立てて剥がれ、特異点へと飲み込まれていく。
彼らはようやく理解した。
自分たちが無尽蔵の宝袋だと思い込んでいたこのアイテムが、文字通りの『廃棄装置(ゴミ箱)』であったことに。
* * *
——同時刻。中層第17エリアの安全地帯。
「はぁ……っ、ふぅ……っ」
広々とした特注のポータブル・バスルームの中。
古海縁理は、高濃度のポーションがブレンドされた適温のお湯に肩まで浸かり、静かに、しかし荒い息を吐いていた。
(……なぜ、こんなことになっているんだ)
エンリの視線の先。
湯気で霞む空間の中、向かい合わせで湯船に浸かっているのは、もちろん専属秘書の秤珠里である。
彼女の「有事の際、0.5秒の遅れが生じる」という完璧な大義名分を論破できなかったエンリは、ついに『混浴』という最終防衛線を突破されてしまっていた。
「……王子様。お湯の温度、およびポーションの浸透圧は適切でしょうか?」
「あ、ああ。問題ない。疲労物質が分解されていくのがわかる」
「それは重畳ですわ。……では、宣言通り『前』から洗って差し上げますね♡」
ジュリは立ち上がり、ちゃぷん、と音を立ててエンリのすぐ目の前まで移動してきた。
お湯の浮力によって、彼女の豊満な双丘が水面でたゆたい、極限まで透けた白い肌がエンリの視界を容赦なくレイプする。
「なっ……! 湯船の中で洗う必要はないだろう!? 洗い場に出ろ!」
「おや、非合理的なことを仰いますね」
ジュリは妖艶に微笑み、エンリの両肩に白く細い腕を回した。
そして、あろうことか、そのままエンリの胸板に自身の柔らかな身体をぴったりと密着させたのだ。
「っ……!?」
「洗い場に出れば、気化熱によって王子様の体温が奪われてしまいます。お湯の中で、私の身体という『スポンジ』を使って優しく洗浄する……これこそが、熱力学と摩擦係数の観点から導き出された、究極のスキンシップ——いえ、合理的な洗浄ですわ」
(スポンジだと!? ふざけるな、こんな弾力と熱量を持ったスポンジが存在してたまるかぁぁぁっ!!)
氷の理系男子の心臓は、もはや限界突破の早鐘を打っていた。
お湯越しに伝わってくる、強烈な女の体温。肌と肌が擦れ合う、生々しい感触。甘い吐息が、エンリの耳元をくすぐる。
(落ち着け! これはただの物理的な接触だ! タンパク質と水分の衝突に過ぎない! 僕は世界のバグをハッキングする男だ。こんな……こんな有能すぎる秘書のハニートラップ(物理)に屈してなるものか……っ!)
エンリは死ぬ気で丹田に力を込め、水面下で拳を握りしめて、鋼のポーカーフェイスを維持し続けた。
* * *
——浅層、隠し宝物庫エリア。
「助け……翔さん、見捨てないでくれぇっ!!」
割人の悲痛な叫びが響く。
特異点の強烈な引力に下半身を捉えられた割人は、逃げようと必死に床を這う翔の足首にすがりついた。
「離せッ! 俺から離れろォォォッ!!」
翔は恐怖とパニックで完全に理性を失い、すがりつく割人の顔面を何度も、何度も容赦なく蹴りつけた。
ゴキッ、と割人の鼻骨が砕け、手が離れる。
「あ、あぁぁぁ……っ!!」
支えを失った割人は、凄まじい速度で特異点へと吸い込まれていく。
そして特異点に触れる直前。彼の身体は、見えない巨大な万力でプレスされたかのように「グシャァッ!」と一瞬でゴルフボールほどのサイズに圧縮され、そのまま虚無へと消えた。
「ヒィィッ……!? ア、アァァァッ!?」
次は、自分だ。
特異点の重力は指数関数的に増大しており、すでに翔の身体は床にへばりつき、指一本動かすことすらできなくなっていた。
ミシミシと、自身の全身の骨が悲鳴を上げ始める。内臓が重力に引っ張られ、口から血の泡がボコボコと溢れ出した。
その絶望の底で、翔の脳裏に、かつて自分たちがクビを宣告した『お荷物』の冷ややかな眼差しがフラッシュバックした。
『あの皮袋……質量圧縮型の廃棄機構だな。限界値を超えれば、空間ごと内側に崩壊する』
エンリは、最初からすべてを見抜いていたのだ。
自分たちが手に入れたのは無限の富などではなく、絶対的な破滅の爆弾だったということを。
自分たちが無傷で探索できていたのは、あの「お荷物」が完璧に物理法則をハッキングし、安全を計算し尽くしてくれていたからだということを。
「エ……ン、リ……ッ!」
血反吐を吐きながら、翔は喉を引き裂くような声で叫んだ。
「助け、て……俺が悪かっ、た……! お前がいないと、俺たちは……なにも、できないんだぁぁぁぁッ!!」
懺悔と命乞いの絶叫。
だが、その声がエンリに届くことは、永遠にない。
なぜならエンリは今、重すぎる愛の秘書に全身を洗われながら、別の意味で「絶対絶命の限界」と戦っているのだから。
翔の身体が、抗えない重力によって宙へと浮き上がり、絶対的な漆黒の特異点へと吸い寄せられていく。
無能な者たちの惨めな終焉が、すぐそこまで迫っていた。




