ガベージコレクションと、タイトル回収
新宿第4ダンジョン、浅層・隠し宝物庫エリア。
そこは今、この世のすべての絶望を煮詰めたような『地獄』と化していた。
「あ、あぁ……ッ、嫌だ、死にたくねぇッ!!」
翔の絶叫が、ひしゃげた空間に空しく響く。
比久と割人は既に、限界容量を突破した皮袋から発生した『漆黒の特異点』に飲み込まれ、肉のミンチすら残さずに虚無へと消え去っていた。
そして今、翔の身体もまた、逃れられない絶対の引力によって特異点へと引きずり込まれようとしている。
両足からメキメキと骨が砕ける音が鳴り響き、足先の感覚が完全に消失する。細胞の一つ一つが無理やり引き剥がされ、極小の点へと向かって圧縮されていく凄まじい激痛。
「エ、エンリィィッ!! た、助け……ッ!!」
かつて見下し、理不尽に追放した『お荷物』の名前を喚き散らす。
だが、その願いが叶うことはない。
強烈な重力場は、ついに翔の頭部をも捉えた。
「ガ、アァァァァ——ッ!!」
グシャァッ!!
水風船が弾けるような悍ましい音と共に、翔の肉体は周囲の白銀のインゴットもろとも、特異点の中心に向かって一瞬で極小サイズに圧縮され——次の瞬間、完全に吸い込まれた。
すべてを飲み込んだ漆黒のブラックホール。
このまま拡大を続ければ、ダンジョンはおろか外の世界すらも飲み込んでしまう、最悪の終焉。
……かに思われた、その時だった。
『対象ディレクトリ内の不要データ(ゴミ)、完全消去を確認』
無機質なシステム音声が鳴り響いたかと思うと。
周囲の空間を喰らい尽くそうとしていた特異点は、これ以上広がることはなく——昔のブラウン管テレビの電源を切った時のように、プツンッ、と音もなく消滅した。
後には、ひび割れた石畳と、不自然なほどの静寂だけが残された。
翔たちという探索者が存在した痕跡は、血の一滴すら残さずに、文字通り「世界から無かったこと」にされたのだった。
* * *
——同時刻。中層第17エリアの安全地帯。
「……王子様! 大変です!」
湯気で白く霞む特注のポータブル・バスルーム。
高濃度のポーションが溶け込んだ湯船の中で、エンリにぴったりと身体を密着させていた秤珠里が、防水タブレットを見て声を上げた。
「浅層の空間座標にて、ブラックホール——本物の特異点の発生を観測しました! 空間の陥没が始まっています! このままではダンジョンの物理エンジン自体がクラッシュし、世界が崩壊してしまいますわ!」
有能な彼女であっても、規格外の天体現象の発生には冷静さを保てない。
急いで湯船から上がろうとするジュリ。しかし、彼女の腰に回されたエンリの腕が、それを静かに制止した。
「……慌てるな、ジュリ。動けば湯が波立ち、せっかくの熱交換効率が下がる」
「えっ? ですが、特異点が……!」
「あれは本物の特異点じゃない。ただの『ガベージコレクション(ゴミ箱を空にする処理)』だ」
エンリは濡れた前髪をかき上げながら、極めて面倒くさそうに溜息をついた。
「あの皮袋は、不要なデータ(質量)をシステムから完全消去するためのデバッガーツールだと言っただろう。あいつらがバカみたいに物を詰め込みすぎて容量をオーバーフローさせた結果、システムの自己防衛プログラムが作動しただけだ」
「自己防衛、プログラム……?」
「ああ。エラーを起こした領域を一時的に隔離し、周囲の『原因となった不要なオブジェクト(カケルたち)』を巻き込んで強制削除プロセスに入ったのさ。特異点のようなエフェクトが出ているだけで、処理が終わればディレクトリごと勝手に閉じる」
エンリが淡々と告げた、その直後だった。
ジュリの持つタブレットの画面から、けたたましく鳴っていた【空間崩壊アラート】が、スッと消失したのだ。
「……嘘。本当に、特異点の反応が……完全に消滅しました」
ジュリは呆然と画面を見つめた後、ゆっくりとエンリへと視線を移した。
ダンジョン、いや、世界が崩壊するかもしれないという絶対の危機。それをこの男は、暖かいお湯に浸かりながら、瞬き一つせずに「システムの仕様」として片付けてしまったのだ。
まるで、神が作った箱庭を外側から眺めているかのように。
「……あ、ああ……っ」
ジュリの瞳の奥で、カチリ、と何かが完全に振り切れた音がした。
「すごい……! 凄すぎます、王子様! 世界の危機すらも、貴方のその完璧な頭脳の前ではただの『ゴミ処理』に過ぎないのですね!」
「……ただの物理エンジンの仕様だと言っている。さあ、安全が確認できたなら、とっとと洗浄を……」
「ええ、ええ! もちろんですわ!」
ジュリはタブレットを放り投げると、先ほど以上の熱量と体重を乗せて、エンリの身体に覆い被さった。
「有象無象のゴミが消去されて、本当に清々しい気分です! これで何の憂いもなく、王子様との『摩擦係数の検証』に集中できますわね! さあ、次は私の前を、その神業のような手つきで合理的に洗ってくださいませ……っ♡」
「なっ、待て! なぜお前の正面を僕が洗う必要がある! 自分で洗えるだろう!」
「非合理的なことを仰らないでください! 手が届く範囲こそ、他者に洗ってもらうことでエネルギー消費を抑え、かつリラクゼーション効果によるストレス値の低下が見込めるのです! ほら、遠慮せずに……♡」
「押し付けるな! 柔らかすぎる! 表面張力がおかしいだろうがッ!!」
世界を滅ぼしかけた愚か者たちが、誰にも知られずただの「ゴミ」として処理されたその裏側で。
氷の理系男子は、重すぎる愛を持つ有能秘書の『理詰めセクハラ』を前に、限界突破の心拍数と戦いながら、決死のポーカーフェイスを貫いていた。
(……くそっ! ダンジョンのバグより、この女の思考回路の方がよっぽど厄介だ!!)
——俺を追放した元パーティーがブラックホールに飲まれている間、俺は重すぎる愛の秘書とお風呂で合理的な洗浄をしていました。
この日、古海縁理はダンジョンの理をまた一つ解き明かした。
しかし同時に、女性の肌の柔らかさと、有能すぎる秘書の「逃げ場のない誘惑」という、物理法則では決して測れない未知のバグに、完全にハッキングされかけていたのである。




