空間歪曲の予兆と、逃げ場のない入浴包囲網
新宿第4ダンジョン、中層第17エリアの安全地帯。
血生臭い戦闘の余韻を完全に遮断する強力な結界の中で、秤珠里はタブレット端末を片手に、淀みない動作で野営の準備を進めていた。
「周囲の空間座標の安定を確認。結界の出力、最大値で固定しました。……お疲れ様です、王子様。本日の探索工程はすべて、予定通りかつ完璧に完了いたしましたわ」
「……ああ。君のサポートのおかげだ。無駄なリソースを一切消費せずに済んだ」
古海縁理は、黒い手袋についた僅かな魔物の返り血を拭いながら、短く労いの言葉をかけた。
今日の探索でも、エンリの『物理ハック』とジュリの『完璧な索敵・物資管理』の連携は凄まじいものだった。魔物の群れは地の利ごと粉砕され、強力な個体は運動エネルギーを逆利用されて自滅した。
だが、エンリの視線は、ジュリの有能さとは別の「ある一点」に釘付けになっていた。
結界のど真ん中に、これ見よがしに鎮座している最新鋭の魔石駆動式シャワーテント。
しかも昨日よりも明らかにサイズが大きく、中からは微かにジャグジーのような水音すら聞こえてくる。
「……ジュリ。あのテントは、なんだ」
「はい。中層の冷気と本日の戦闘による疲労を完全に除去するため、裏ルートで手配した『特注のポータブル・バスルーム』ですわ」
ジュリは自慢げに胸を張り、豊満な双丘を揺らした。
「内部には高濃度の回復薬をブレンドした適温のお湯が張られており、微細な水流が筋肉の強張りをほぐします。もちろん、二人同時に入っても十分な広さを確保しておりますのよ」
(……広さを確保、だと!?)
エンリの脳内で、昨晩の『背中密着&極上マッサージ』の記憶がフラッシュバックし、危険信号がガンガン鳴り響いた。
「……待て。疲労回復のロジックは理解できるが、二人『同時』に入る必要はないはずだ。順番に交代で入れば……」
「却下です、王子様」
エンリの反論を、ジュリは食い気味に、そして極めて冷徹な秘書の顔で切り捨てた。
「この特注バスルームは莫大な魔石エネルギーを消費します。お湯の保温機能を二回に分けて稼働させるのは、魔石の著しい浪費に繋がります。加えて、このエリアは未だ空間座標が不安定です。万が一結界が破られた際、別々に行動していては王子様のサポートに『0.5秒の遅れ』が生じます」
ジュリは一歩エンリに詰め寄り、その美しくも圧の強い瞳で彼を見つめ上げた。
「私の使命は、王子様の生存確率を常に100%に保つこと。そのためには、如何なる時も1メートル以内の距離を維持し、有事の際には私の身を挺してでも王子様を守る必要があります。……つまり、一緒にお風呂に入り、肌身離さず密着することこそが、現在の『唯一の最適解』なのです」
「…………っ」
完璧すぎる屁理屈。いや、彼女の頭脳によって完璧に組み上げられた「逃げ場のない論理の檻」だ。
エンリは内心で激しく冷や汗をかきながらも、必死に能面のようなポーカーフェイスを維持した。
(くそっ……! 完全に僕の思考の癖を読まれている! 合理性を盾にされたら、僕からは絶対に反論できないと分かっていて包囲網を敷いてきているんだ! この女……サポート能力だけでなく、トラップの構築能力までバグっているのか!)
「さあ、王子様。お湯が冷める前に、合理的な洗浄と熱交換を始めましょう? 今日は私が、前からたっぷりと洗って差し上げますわ……♡」
妖艶に微笑み、エンリのシャツのボタンに手を伸ばしてくるジュリ。
絶体絶命のピンチ(?)に、エンリがどう切り返すか脳をフル回転させていた、まさにその時だった。
ズンッ……。
ダンジョンの空間そのものが、微かに、しかし確かな不快感を伴って揺れた。
地震ではない。空気が一瞬だけ「圧縮」され、すぐに元に戻るような、奇妙な空間の波紋。
「……空間震か?」
エンリはジュリの手を制止し、鋭い視線を空中の何もない空間へ向けた。
「いえ、ダンジョン自体のバグ発生周期とは合いません。これは……人為的な空間の歪みです。しかも、遥か上層の方から波及してきています」
ジュリも即座に秘書の顔に戻り、タブレットの計器を確認する。
エンリは静かに目を閉じ、ダンジョンの物理エンジンの「流れ」に意識を澄ませた。
空間の波紋の中心。そこにあるのは、許容量の限界を突破し、周囲の空間すらも無理やり内側に巻き込もうとしている極小の特異点。
「……なるほど。どうやら『自滅袋』の崩壊が、最終フェーズに入ったらしい」
エンリの呟きに、ジュリは冷ややかな笑みを浮かべた。
「翔たちのマジックバッグですね。……ええ、私の観測データでも、空間歪曲率がすでに限界値の99.9%に達しています」
「ご丁寧に、周囲の重力場まで巻き込んで崩壊しようとしている。あの特異点の近くにいれば、光すらも歪む『重力レンズ効果』が肉眼でも見えるはずだが……あいつらは、それすらも気づかずに欲をかいているというわけか」
エンリは呆れたように小さく息を吐いた。
「まあいい。僕のフィールド(中層)に影響がないなら、放っておけ」
「ええ、もちろん。有象無象の最期など、私たちの『至福の時間』を邪魔する理由にはなりませんわ」
ジュリは再び甘い声を出し、エンリの腕に豊かな胸を押し当てた。
破滅の足音は、もはや目前まで迫っていた。
* * *
——同時刻。ダンジョン浅層、隠し宝物庫エリア。
「ギャハハハハハッ!! 見ろよこれ!! 一面白銀のインゴットだぜ!!」
翔は、狂気じみた笑い声を上げながら、山のように積まれた白銀の塊を、手元の古びた皮袋へと次々に放り込んでいた。
「翔さん、すげぇ! これ全部持ち帰ったら、俺たち遊んで暮らせるっすよ!」
「当たり前だ! あの無能な『お荷物』を追い出した途端にこの大穴だぜ! やっぱりあいつは疫病神だったんだよ!」
取り巻きの比久と割人も、よだれを垂らしながらインゴットを皮袋にねじ込んでいく。
浅層の隠しエリアで偶然発見した、莫大な財宝。これさえあれば、自分たちは最強の探索者になれる。そんな浅はかな欲望が、彼らの目を完全に曇らせていた。
——ギチ……ギチギチ……メキィッ……!!
皮袋は、すでに「袋」の形状を保っていなかった。
表面には無数の黒い亀裂が走り、そこから漏れ出す漆黒の靄が、周囲の光をぐにゃりと曲げている。袋の口は、まるで異次元へと繋がるブラックホールのように、ただただ底知れぬ暗闇を広げていた。
「おい、割人。もっと押し込め! まだ入るはずだ!」
「で、でも翔さん……なんかこの袋、めっちゃ重くなってきてるんすけど……それに、周りの景色が歪んで見えねぇっすか……?」
割人が怯えたように手を止める。
実際、皮袋の周囲の空間は異常な重力異常を引き起こしていた。
足元の石畳がメリメリと音を立てて砕け、皮袋に向かって吸い寄せられている。空中の埃や小さな石ころが、不可視の渦に巻き込まれるように皮袋の口へと消えていく。
「あぁ!? 気のせいだろ! このマジックバッグは無限に物が入る最強のアイテムなんだよ! 俺の言う通りにしろ!」
翔は怒鳴り散らし、割人を蹴り飛ばすと、自ら巨大な白銀のインゴットを抱え上げ、皮袋の口へと無理やりねじ込んだ。
ズブゥン……ッ!!
その瞬間。
限界の『100%』を突破した皮袋から、これまでとは全く異なる、鼓膜を突き破るような「空間の断末魔」が響き渡った。
「……あ?」
翔が呆けた声を漏らした直後。
皮袋の表面の黒い亀裂が限界まで膨張し——次の瞬間、空間そのものが「内側」に向かって激しく陥没した。
絶対的な質量の暴走。
『ブラックホール』の誕生であった。




