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重力異常(バグ)の回廊と、完璧な朝食ロジック

新宿第4ダンジョン、中層エリア。

ジュリが手配した結界付きのテント内で、エンリは漂ってくる芳醇な香りに目を覚ました。


「おはようございます、王子様。本日の探索に向けたエネルギーチャージの準備が整っております」


エプロン姿のジュリが、小さな簡易テーブルに完璧な朝食を並べていた。

焼きたてのパン、ベーコンと卵、そして野菜たっぷりのスープ。さらには食後のドリップコーヒーまで。ここは本当に魔物が蠢くダンジョンの中層なのかと錯覚するほどのクオリティだ。


「……ダンジョン内で火と匂いを使うのは、本来なら魔物を引き寄せるリスクがある行為だが」

「ご安心を。このテントの結界は外部への匂いや熱源の漏洩を99.9%遮断します。それに、王子様の脳をフル回転させるためには、アミノ酸と糖質の最適なバランスが不可欠ですから」


ジュリはふふっと微笑み、エンリにコーヒーを手渡した。

エンリは無表情のままスープを一口飲む。


(……美味い。完璧な火加減だ。この女、後方支援のスキルが完全にバグっている。翔のパーティーにいた頃は、あいつらの舌に合わせて安物のレトルトしか出していなかったはずだ。……有能すぎる)


内心でスタンディングオベーションを送りながらも、エンリは「……悪くない効率だ」とだけ短く返し、静かに食事を進めた。


「お口に合ったようで何よりですわ。……これで今日の探索を素早く終わらせて、今夜もまた、ゆっくりと『合理的な洗浄(お風呂)』の時間を取れますね♡」

「……」


エンリはコーヒーで無理やり喉を潤し、聞こえないフリをした。

昨晩の『マッサージ』の余韻が蘇りそうになるのを、頭の中で素数の中を数え上げて必死にシャットアウトする。


(絶対にポーカーフェイスを崩すな。僕が動揺すれば、彼女の要求はさらにエスカレートするに決まっている……っ!)


「さて、出発しよう。今日の目標は第16エリアの走破だ」

「はい、王子様。準備は完了しております」


一切の無駄なく撤収作業を終えた二人は、再び中層の奥深くへと足を踏み入れた。


* * *


第16エリア。

そこは、これまでの岩肌が剥き出しの洞窟とは異なり、不自然なほど滑らかな石畳が続く巨大な回廊だった。


「……王子様。マップデータと空間座標に、異常なズレが生じています。計器が正常に作動しません」

タブレットを見つめるジュリの声に緊張が走る。


「計器の故障じゃない。このエリア一帯の『物理法則』がバグっているんだ」

エンリは冷静に周囲を見渡した。

「見てみろ。壁や天井の苔の生え方、水滴の落ちる方向……すべてがデタラメだ。ここは重力のベクトルが局地的にねじ曲がっている『重力異常バグ』の回廊だよ」


その言葉を証明するかのように、回廊の奥から無数の獣の咆哮が響いた。

現れたのは、漆黒の毛並みを持つ狼型の魔物『シャドウ・ウルフ』の群れ。中層特有の俊敏さと連携を誇る厄介な敵だ。

だが、異様なのはその「走り方」だった。


「グルルルゥッ!」


彼らは床ではなく、垂直な『壁』や、真っ逆さまの『天井』を平然と駆け抜け、四方八方からエンリたちを取り囲むように迫ってきたのだ。


「なっ……天井から!? あんな立体的な機動をされたら、銃器での狙いなどつけられません!」

ジュリが後退りする。

重力がデタラメな空間での戦闘。射線は定まらず、敵の動きは予測不能。通常の探索者であればパニックに陥り、一瞬で喉笛を食い破られる初見殺しのトラップエリアだ。


だが、エンリは小さく息を吐き、ポケットから「ただのパチンコ玉(鋼球)」が入った袋を取り出した。


「重力がバグっているなら、こちらで上書き(ハック)すればいいだけの話だ」


エンリは自身のすぐ頭上に『入口』と『出口』のポータルを縦に並べて展開し、そのループする空間の中に、袋の中身——約100個の鋼球を流し込んだ。


「グルルァッ!」


天井を走っていたウルフの群れが、一斉にエンリの頭上目掛けて跳躍する。

鋭い牙がエンリの首元に届く寸前。


「『終端速度の散弾ターミナル・ファランクス』」


パチン、とエンリが指を鳴らす。

瞬間、エンリは『出口』のポータルの形状を、丸型から「横長の長方形(スリット状)」へと変形させ、それを群れの正面へと再展開した。


ループ空間の中で極限まで自由落下し、終端速度に達していた100個の鋼球。

それが一斉に、横長のポータルから扇状に射出された。


ズガガガガガガガガガンッ!!!


それはまさに、音速を超える鉄の暴風。

重力異常を利用した予測不能な軌道など、何の意味もなかった。面制圧による圧倒的な弾幕が、空中に躍り出たシャドウ・ウルフの群れを文字通り「ハチの巣」に変えたのだ。


「キャインッ……!」


悲鳴すら一瞬。数十匹のウルフの群れは、一匹残らず肉塊へと変わり果て、バグった重力に従って壁や天井にボトボトと張り付くように倒れ伏した。


「……弾丸リソースの消費はパチンコ玉100個。制圧力としては申し分ないな」

エンリはポータルを閉じ、何事もなかったかのように呟く。


「……ああ……っ」

その後ろで、ジュリはまたしても恍惚の表情を浮かべていた。


「ただの鋼球を、広域殲滅兵器に書き換えるなんて……! 重力のバグすらも自らの演算に組み込んでしまう貴方の頭脳……ああ、本当に、どこまで私を夢中にさせれば気が済むのですか、王子様……っ♡」


ジュリは火照る頬を押さえ、身悶えしながらエンリの背中を見つめる。

(いけない、理性が吹き飛びそうですわ。……ふふっ、この興奮、今夜のお風呂でたっぷりと王子様にぶつけさせていただきましょう)


背後から放たれる、重すぎる愛とねっとりとした視線。

エンリは背筋に悪寒を感じながらも、(気のせいだ。これは中層の冷気だ)と自分に言い聞かせることしかできなかった。


* * *


——同時刻。ダンジョン浅層、某所。


「おい、比久ヒク。さっさとそのオークの棍棒も入れろ!」

「で、でも翔さん……なんかこのバッグ、さっきから『メキメキ』って変な音がしてるっすよ……? それに、なんか周りの空気が……ぐにゃって歪んでるみたいで……」


翔の取り巻きである比久が、不気味に脈打つ皮袋を前に怯えた声を上げた。

マジックバッグの表面には、まるで空間そのものにヒビが入ったかのような、黒い亀裂が走り始めている。


「あぁ? ビビってんじゃねぇよ! マジックバッグが壊れるわけねぇだろ!」

翔は苛立ち紛れに比久の頭を小突いた。

「エンリの野郎は『限界がある』とか抜かしてたが、あれは俺たちが大儲けするのを僻んでただけだ! 現に、まだまだ入るじゃねぇか!」


翔は、強引にオークの棍棒を皮袋の口にねじ込んだ。

ズブズブと、棍棒が異常な密度で圧縮されながら飲み込まれていく。


「見ろ! 余裕だぜ! これで俺たちは億万長者だ! エンリみたいな底辺のお荷物とは、住む世界が違うんだよ!」


狂ったように笑う翔。

だが、彼らは気づいていなかった。

皮袋の口から、光すらも吸い込むような「絶対的な漆黒」が漏れ出していることに。


限界値キャパシティの99.8%を突破。——空間崩壊まで、残りわずか』


世界のバグ(物理ハック)で無双する神業使いと、自らの欲で自滅への引き金を引く愚か者たち。

二つの運命のコントラストは、いよいよ取り返しのつかない破滅の瞬間へと近づいていた。

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