崩壊する泡沫(キャビテーション)と、合理的な洗浄
新宿第4ダンジョン、中層第15エリア。
剥き出しの岩肌が広がる巨大なドーム状の空洞に、耳を劈くような咆哮が響き渡った。
「ギガァァァァッ!!」
地響きを立てて立ち上がったのは、巨大な人型の魔物『アイアン・ゴーレム』。
全身がタングステン鋼に匹敵する硬度の鉱石で覆われた、推定質量3トンの化け物だ。浅層の魔物とは次元が違う。通常の探索者が束になっても、重火器の斉射すら傷一つつけられない「中層の壁」である。
「王子様、ターゲット確認いたしました。……こちらの準備は、すべて完璧に整っております」
安全な岩陰から、タブレット端末を片手にした秘書——秤珠里が静かに報告する。
「ご指定通り、上層の安全エリアに容量10トンの工業用貯水タンクを設置。水圧ポンプの稼働も確認済みです。いつでもいけます」
「ご苦労。……さて、始めようか」
古海縁理は、ゴーレムの圧倒的な威圧感の前でも一切の表情を崩さず、右手にはめた黒い手袋の指先を銃の形にして構えた。
(現在の僕の『虚空の門』で展開できるポータルは1対のみ。今はまだ、左右の手袋をそれぞれ『入口』と『出口』の物理的な起点にする必要がある。だが、それで十分だ)
エンリはあらかじめ、左手の手袋を脱ぎ、ジュリが手配した上層の10トン貯水タンクの「底」に固定してきていた。
彼は残った右手袋の指先をゴーレムに向け、そのすぐ前に『出口』のポータルを展開する。
——ただし、その出口の直径を、極限の「1ミリ」にまで絞り込んで。
「ギガァァァァッ!!」
外敵を認識したゴーレムが、エンリを圧殺しようと巨大な腕を振り下ろす。その腕がエンリの頭上に迫った、まさにその瞬間。
「『崩壊する泡沫』」
パチン、とエンリが右手の親指を弾いた。
それと同時に、上層のタンクの底に設置された左手袋(入口)が開き、10トンもの莫大な水が落下を開始する。
凄まじい質量の水圧が、右手の1ミリの空間(出口)という極小の逃げ場を求めて暴走した。
指先のポータルから射出されたのは、光の筋と見紛うほどの超高圧・超音速のウォータージェットだった。
ただの「水」ではない。
超高速の液体の流れの中で圧力が急低下し、無数の微小な気泡が発生する。それがゴーレムの装甲に激突して弾ける瞬間、極小の空間に凄まじい衝撃波を生み出すのだ。
ズガァァァァンッ!!
「ギ、ガ……!?」
水が岩を削るなどという生易しいレベルではない。
絶対の硬度を誇っていたゴーレムの右腕が、衝撃波によって細胞レベルで「粉砕」され、一瞬で泥のように消し飛んだ。
「な……っ!」
ジュリが息を呑む間もなく、エンリは無表情のまま指先を横に薙いだ。
高圧の水刃がゴーレムの分厚い胴体を横一文字に両断し、轟音と共に3トンの巨体が崩れ落ちる。ただの鉄屑と化したそれは、二度と立ち上がることはなかった。
「……信じられません」
ジュリはタブレットを握りしめ、驚愕に目を見開いた。
「マジックバッグのような空間遺物は、『入口と出口が同一』だからこそ成立している代物です。それを左右の手袋で別々の場所に設定し、あろうことかサイズまで自在に書き換えて水圧兵器にするなんて……。王子様、貴方の頭脳はまさに神業です……っ!」
「……現時点では、片方の手袋を事前に設置しておかないと撃てないのがネックだけどね」
エンリは静かにポータルを閉じ、自身の内側だけで思考を巡らせる。
(今はまだ手袋という物理的なデバイスを媒介にしているが、このダンジョンの『物理エンジン』のコードを読み解いていけば……いずれは自分から離れた場所、例えば敵の背後の死角に直接ポータルを展開できるようになるはずだ。これは、そのための通過点に過ぎない)
確信。自らの成長に対する絶対的な信頼を胸に、エンリは何事もなかったかのように歩き出した。
「素晴らしい……。やはり貴方は、私のすべてを捧げるに値する御方だわ……っ!」
さらに重さを増した狂信的な愛を胸に、ジュリは足早にエンリのもとへ歩み寄る。
「王子様。ゴーレムを粉砕した際の破片で、随分と泥を被ってしまいましたね」
「……ああ。少し計算が甘かったか」
ジュリの言う通り、エンリの服や顔には、粉砕された岩の粉と泥がべったりと付着していた。
「安全なエリアにテントと、魔石駆動のポータブル温水シャワーを手配しております。即座に洗浄を」
「問題ない。乾けば落ちる。このまま進む」
「いえ、いけません。汚れによる関節部の可動域の阻害は、明確な合理的な損失です。それに……」
ジュリは真面目腐った顔で、最高の一手を投下した。
「次の群れが来るまで猶予はありません。別々に入浴すると水とガス、何より計30分のタイムロスが発生します。一緒に入り、互いの背中を流すことで洗浄効率を最大化するのが、最も『合理的』です。さあ、脱いでください」
「…………」
エンリの動きが、ピタリと止まった。
(なっ……一緒に入るだと!?)
氷の理系男子の心臓が、早鐘のように跳ね上がる。
(いや待て、落ち着け。これは僕の隙を突き、精神的優位に立とうとする彼女の高度な心理トラップだ。ただでさえここは危険な中層。ここで狼狽えれば、今後の検証計画に支障が出る……っ! 絶対に動揺を悟られてはいけない!)
必死に照れを殺し、エンリは能面のようなポーカーフェイスを張り付けた。
「……確かに、無駄なタイムロスは避けるべきだな。分かった」
「(計画通り……っ! 王子様の裸、いただきますっ♡)」
完全にすれ違った二人が、なんとも言えない空気のままテントへ向かおうとしたその時。
ジュリのタブレットに、けたたましい【警告】が鳴り響いた。
『追跡対象:カケルパーティー。浅層エリアにて、規格外のドロップ品をマジックバッグに収納中——内部空間の歪み、限界値の95%を突破』
画面越しに映る、限界まで膨れ上がり、黒いノイズを放ち始めた不気味な皮袋の映像。
「……ふふっ。どうやら馬鹿な人たちの寿命は、想定より早く尽きそうですね」
有能な秘書は冷酷に微笑み、エンリはただ無関心にそれを一瞥した。
世界のバグと、無能な元仲間の破滅。
最強のバディによる蹂躙が、いよいよ本格化しようとしていた。




