有能な歯車と、体温維持のロジック
新宿第4ダンジョン、中層エリア手前の安全地帯。
ブラッド・マンティスの死骸から少し離れた岩肌の陰で、古海縁理は黒い手袋の微小な破れを点検していた。
そのすぐ隣では、狂信的な愛に目覚めたばかりの元サブリーダー・秤珠里が、持ち込んだタブレット端末を凄まじい速度で叩いている。
「……翔たちのクラン名義で管理していた流動資産、および予備物資の所有権を、すべてダミー会社を経由して私の個人口座へと移管完了しました。あちらに残っているのは、あの気味の悪い皮袋と数日分の食料だけです」
さらりと恐ろしいことを言い放つジュリに、エンリは手袋から視線を外さずに答えた。
「手回しが早いな。横領で訴えられないのか?」
「ご心配なく、王子様。規約の穴を突いた合法的な資金移動です。彼らのような『算数』しかできない単細胞には、一生かかっても追跡不可能に細工してありますわ」
ジュリはふふっと妖艶に微笑み、タブレットを閉じた。
彼女はただエンリに惚れただけの小娘ではない。後方支援と資金繰りで、あの無能なリーダーをこれまで支え続けてきた本物の「有能」である。エンリという完璧な『神』を見つけた今、彼女の枷は完全に外れていた。
「さて、王子様。今後の検証実験——もとい、ダンジョン攻略に向けての資金と物資のラインは確保いたしました。あとは私が、貴方の思い描く『理』を具現化するための手足として働くだけです」
「……頼もしいことだ」
エンリが淡々と頷いた、その時だった。
中層特有の異常な気象バグが発現し、セーフエリアの気温が急激に低下し始めた。吐く息が白く染まり、岩肌には霜が降りていく。
「……急激な気温の低下。どうやら中層の冷却現象の周期に入ったようですね」
ジュリはわざとらしく身震いをして両腕を擦ると、エンリの隣にぴったりと身を寄せた。
「王子様、このままでは急激な体温低下により、生存確率が著しく低下します。ダンジョン内での野営において、薄い防寒着や個別の寝袋は熱効率が悪すぎます」
「……どういうことだ?」
「密着して体温を共有することが、最もカロリー消費を抑える合理的な手段です。布という障害物を極力排除し、直接肌を重ね合わせる『スキンシップ』こそが、現在の最適解。……さあ、私の胸に顔を埋めてください♡」
ジュリは頬を染め、ワイシャツのボタンを一つ外し、豊かな谷間を強調しながらエンリへと身を乗り出した。
色気という不純物を、「生存確率」という絶対的な大義名分で包み込んだ、完璧なロジック。
正面からの色仕掛けが「摩擦熱」と切り捨てられた彼女が編み出した、必殺の『理詰めスキンシップ』である。
(計画通り……っ! これで王子様も反論できないはず。合法的に、王子様の温もりと素肌を堪能させていただきますわ……っ!)
ジュリが内心でガッツポーズを決めている一方で。
エンリの脳内は、再び限界突破の警報が鳴り響いていた。
(な、な、なんなんだこの女はぁぁぁっ!?)
氷の理系男子の心臓は、先ほどのマンティス戦以上の早鐘を打っている。
(肌を重ねる!? 胸に顔を埋める!? なぜそんな極端な結論に至るんだ!? いや、落ち着け古海縁理! これは罠だ。僕の思考の隙を突き、主導権を握ろうとする彼女のトラップ! ここで照れて後ずされば、僕の負けだ……っ! 絶対にポーカーフェイスを崩すな!)
必死に照れとパニックを殺し、エンリは能面のような表情をキープしたまま、冷たく言い放った。
「……君の提案は却下だ」
「えっ?」
「基礎体温の維持なら、僕が着ているこの新型の保温インナーで十分に機能している。それに、素肌を密着させれば、君の言う通りカロリー消費は抑えられるかもしれないが……過度な密着は、緊急時の行動を著しく遅延させる。突然の魔物の襲撃に対し、0.1秒の遅れが致命傷になるこの場所で、その選択は『非合理的』だ」
理詰めの誘惑に対し、さらに高度な理屈(屁理屈)で殴り返す。
エンリはジュリの肩をそっと押し返し、一切の欲を含まない視線で彼女を見つめた。
「僕のフィールドで、無駄な『遅延』を起こすな」
「……っ!」
まるで高性能な機械のような、一切の隙がない冷徹な反論。
ジュリは呆然と瞬きをし——直後、その瞳にさらにドス黒い炎を宿した。
(……っ! 私の完璧なロジックが、ただの『ラグ』!? ああ……なんて賢いの! 私の浅はかな計算などすべてお見通しで、その上で圧倒的な理で捻じ伏せてくるなんて……ますます惹かれてしまうわ……っ!)
ジュリが内心でさらに重い愛をこじらせて身悶えしていることなど露知らず、エンリはなんとか危機を脱したことに安堵の息を吐いていた。
「……さて。くだらない検証は終わりだ。君が本当に僕の『歯車』として機能するか、テストさせてもらう」
エンリは表情を引き締め、ジュリに向き直った。
「次の階層、第15エリアには中層の壁である『アイアン・ゴーレム』が出現する。あれを『物理ハック』で突破するために、必要な変数がある」
エンリは空間にホログラムのマップを展開し、ゴーレムの出現ポイントの真上にある、絶壁の安全地帯を指差した。
「明日の朝までに、あの絶壁の上に『工業用貯水タンク』を設置し、その中に『10トンの水』を用意してくれ」
「10トン、ですか」
「そうだ。魔法のないこの世界で、あんな装甲の塊を破壊するには、莫大な質量の『兵器』が必要になる。……できるか?」
それは、ただのポーターには不可能な要求だ。
水10トンといえば、大型トラック数台分の重量。それを魔物が蠢くダンジョンの中層まで、たった一晩で運び上げろというのだ。常識的に考えれば正気の沙汰ではない。
だが、ジュリの表情に一切の迷いはなかった。
「……私を誰だと思っているのですか、王子様」
ジュリは妖艶に微笑み、再びタブレットを開いた。
「資金は潤沢にあります。裏ルートの運送ギルドと、重機を使えるドワーフ族の傭兵部隊を即時買収。転送用のゲート使用権も金で裏から手配します。……明日の朝6時ジャスト。ご指定の座標に、水圧ポンプ付きの10トンタンクを完璧な状態でご用意いたしましょう」
「……見事だ」
有言実行。一切の無駄がない、完璧な手配。
エンリは内心で彼女の異常なまでの手腕に舌を巻きながら、小さく頷いた。
「これより、貴方のすべてをサポートする専属秘書として、全身全霊でお仕えいたしますわ、王子様」
深々と一礼するジュリ。
こうして、世界のバグを破壊する神業使いと、裏社会の経済を掌握する有能秘書の、最強にして最凶の準備が整った。
* * *
——同時刻。ダンジョン浅層、某所。
「おい、もっと押し込め! まだまだ入るぞ!」
翔は、魔物から剥ぎ取った巨大な毛皮や骨を、手元の古びた皮袋——マジックバッグに無理やりねじ込んでいた。
「翔さん、すげぇっす! いくら入れても重さが変わんねぇ!」
「ギャハハ! エンリの野郎がいねぇと、こんなにサクサク進むんだな! あいつに払ってた報酬も浮くし、このバッグに詰めれるだけ詰め込んで帰れば、俺たちは大金持ちだぜ!」
取り巻きたちと下劣な笑いを上げながら、翔はさらに分厚い鉱石を皮袋に押し込む。
しかし、彼らには見えていなかった。
無尽蔵に物を飲み込むその皮袋の表面に、かすかな「黒いノイズ」が走り始めていることを。
限界値を超えようとする空間が、内側へと歪み、限界の悲鳴を上げていることを。
無能な者たちの破滅のカウントダウンは、彼ら自身の手によって、静かに、そして確実に早められていた。




