終端速度(ターミナルベロシティ)と、重すぎる愛の誕生
「……ここまで、のようね」
新宿第4ダンジョン、中層エリア。
迫り来るブラッド・マンティスの凶刃を前に、秤珠里は静かに目を閉じた。
緻密に人生の安全圏を設計し、誰よりも賢く立ち回ってきたはずの自分が、たった一人の男の背中に目を奪われた結果、こんな場所で無惨に命を落とす。
(馬鹿みたい……。でも、あの人の『理』を書き換える姿を、もっと見ていたかったわ……)
自嘲気味な笑みが浮かんだ、その時だった。
パチンッ。
湿った空気を切り裂く、乾いた指の音が響いた。
「『終端速度』——一点集中射出」
冷淡で、ぶっきらぼうな声。
直後、数メートル離れた位置に立つエンリが銃の形にして突き出した右手袋の先に、陽炎のように空間がぐにゃりと歪んだ。
展開された直径わずか30センチほどの『出口』のポータル。そこから撃ち出されたのは、魔法の炎でも光線でもない。
ただの、一本の重厚なタングステン鋼の剣だった。
——しかし、その剣が纏う「速度」が異常だった。
ズガァァァァンッ!!!
爆鳴と共に、ジュリの目の前の空間が激しく弾け飛んだ。
何が起きたのか、常人の目には見えなかっただろう。ブラッド・マンティスの鋼鉄より硬い紅い外殻は、鎌を振り下ろすよりも速く、真横から凄まじい衝撃で胴体を撃ち抜かれ、後方の岩壁まで吹き飛ばされて深々と縫い留められていた。
「……っ、あ……」
舞い上がる土煙と緑色の体液。その向こうから、一歩、また一歩と近づいてくる人影があった。
いつもの巨大なリュックを背負わず、両手に黒い手袋だけをはめた古海縁理が、そこには立っていた。
「……計算外だな。こんな危険な階層に、丸腰のサポート職がいるなんて」
エンリは感情の読めない瞳でジュリを見下ろしながら、右手袋のポータルを閉じた。
彼がやったことは極めてシンプルだ。
少し前から、自身のすぐ横の空中に『入口』と『出口』のポータルを縦に並べて配置し、その中にタングステン鋼の剣を落としていた。
剣は上の出口から下の入口へと永遠に落ち続け、重力加速度によって無限に加速していく。空気抵抗によってこれ以上加速しない限界の速度——すなわち『終端速度』に達した瞬間、エンリは『出口』の座標を自身が構えた右手袋の前へと書き換え、マンティスに向けて弾丸のように撃ち放ったのだ。
今の彼には、まだ自身から離れた空間にポータルを直接展開できないという制約がある。だが、極限まで加速され、莫大な運動エネルギーを蓄えたそれは、いかなる対戦車ライフルをも凌駕する「神の槍」へと変貌する。
「……あ、ああ……」
その圧倒的な破壊の余韻と、理を嘲笑うかのような完璧な暴力。
ジュリはへたり込んだまま、頬を極限まで紅潮させ、熱に浮かされたような恍惚の笑みを浮かべた。
死の恐怖など、とうにどこかへ消え去っていた。自分を襲った絶望も、それを一瞬で粉砕した目の前の男の姿も、彼女のこれまでの「計算」をすべて上書きしていく。
(この人だ。この人こそが、私のすべてを捧げるべき……絶対の『神』……!)
「見つけ……ました。私の、本当の……」
ジュリは震える足で立ち上がると、ふらふらとエンリに歩み寄り、その胸元にすがりついた。
熱い吐息を漏らしながら、彼女は心からの敬意と、歪で重すぎる執着を込めてその言葉を口にする。
「私の……王子様……っ!」
「は?」
「貴方のその素晴らしい頭脳! 空間の支配! もう翔たちのような有象無象の馬鹿に合わせる必要はありません! 私が、貴方のすべてをサポートします!」
ジュリは上気した顔でエンリを見つめ上げ、さらに身体を密着させてきた。
胸の豊かな膨らみがエンリの腕に押し付けられ、甘い香水と汗の匂いが鼻腔をくすぐる。
「資金も、物資の手配も、すべて私にお任せください。その代わり……私を、貴方の好きにしてください♡ 今ここで、私を抱いていただいても構いません……っ!」
完全に狂信モードに入った女狐の、渾身の色仕掛け。
普通の男であれば、理性を吹き飛ばして押し倒しているであろう艶絶な誘惑。
しかし、エンリの反応は氷のように冷たかった。
「……離れろ。無駄な摩擦熱が生じる」
「へ?」
エンリはジュリの肩を冷たく突き放し、面倒くさそうに溜息をついた。
「君の発情に付き合っている暇はない。体温が上昇すれば発汗による水分の喪失と、思考のノイズに繋がる。僕のフィールドで無駄な『摩擦』を起こすな」
まるで道端の石ころをどけるような、一切の欲を含まない冷徹な拒絶。
ジュリは呆然と瞬きをし——直後、その瞳にさらにドス黒い炎を宿した。
(……っ! 私の女としての魅力が、ただの『摩擦熱』!? ああ……なんて合理的なの! 俗物的な欲に一切流されないその冷徹さ、ますます惹かれてしまうわ……っ!)
ジュリが内心でさらなる愛をこじらせている一方で。
エンリの脳内は、外見のクールさとは裏腹に、かつてないほどの警報が鳴り響いていた。
(な、な、なんなんだこの女はぁぁぁっ!?)
氷の理系男子の心臓は、先ほどから限界突破の早鐘を打っていた。
(急に『王子様』!? しかも『好きにしていい』だと!? 柔らかかった! 今、腕にめちゃくちゃ柔らかいものが当たっていたぞ!?)
エンリは年相応の健康的な男子である。女性のあからさまな色仕掛けに免疫などない。
だが、持ち前の異常な警戒心と理屈っぽい思考回路が、彼をギリギリで押しとどめていた。
(落ち着け、古海縁理! これは罠だ! 元クランのサブリーダーである彼女が、突然こんな態度に出るはずがない。僕の思考を鈍らせ、優位に立つための高度なハニートラップに違いない! ここで動揺を見せれば、僕の負けだ……っ! 絶対にポーカーフェイスを崩すな!)
必死に照れとパニックを殺し、エンリは能面のような表情をキープし続ける。
「……だが、君の『物資の手配能力』だけは評価している」
震えそうになる声を完璧にコントロールし、エンリは静かに告げた。
「僕の実験——物理ハックには、大量の変数が必要だ。君がその調達を完璧にこなすというのなら、専属秘書として置いてやってもいい」
その言葉を聞いた瞬間、ジュリの表情がスッと「有能な秘書」のそれに切り替わった。
正面からの色仕掛けが通じないなら、アプローチを変えるだけ。彼女の頭脳が、新たな「最適解」を弾き出したのだ。
「……承知いたしました、王子様。この秤珠里、貴方のための完璧な歯車となりましょう」
ジュリは深々と一礼する。
(色気で落ちないなら、絶対に手放せないほどの『有能さ』で私の価値を証明する。そして……いずれは『合理的な理由』を盾にして、合法的に王子様を美味しくいただいてみせますわ……♡)
世界の理をハッキングする神業使いと、裏の目的に燃える重すぎる愛の秘書。
ダンジョンを蹂躙する最強にして最凶のバディが、ここに誕生した。




