相対的慣性保存(ローオブイナーシア)と、観察者の誤算
「……実に非効率だ」
新宿第4ダンジョン、浅層エリア。
薄暗い洞窟のような空間を一人歩きながら、古海縁理は誰にともなくそう呟いた。
魔法というファンタジーな概念が存在しないこの世界において、ダンジョン探索は常に「物量」との戦いになる。強力な火器には重い弾薬が不可欠であり、負傷に備えて大量の医療キットやポーションを持ち歩かなければならない。さらに、倒した魔物から得られるドロップ品や希少な鉱石を持ち帰るためには、それ相応の収納スペースが必要となる。
だからこそ、エンリのような荷物持ち(ポーター)は、ただの裏方ではなくクランの生存率を左右する要だった。
エンリは自身の頭の中に構築された、三次元の空間マッピングを無意識に更新していく。
床の傾斜、空気の湿度、岩肌から微かに漏れ出す魔力の残滓。
彼にとって、ダンジョンとは未知の恐怖が潜む魔境などではない。無数の数字と数式によって構成された、巨大で、そしてひどく『バグだらけ』の物理エンジンに過ぎなかった。
(翔たちのパーティーは、あのマジックバッグを手に入れたことで物資管理の制限から解放されたと思い込んでいる。だが、それは致命的な誤りだ)
エンリは歩みを止めず、無表情のまま思考を回す。
(あの皮袋——『質量圧縮型の廃棄機構』は、入り口のサイズ以上のものを内部の空間を歪めて無理やり押し込む仕様になっている。入れれば入れるほど内部の時空は捻じ曲がり、いずれは限界値を超えて空間が内側に崩壊する。ブラックホール化だ。……せいぜい数日の命といったところか)
無能な元仲間の末路など、もはや彼の興味の対象外だった。
エンリの真の目的は、この狂った物理法則の箱庭を完全にハッキングし、管理者の権限を掌握することにある。
不意に、エンリは足を止めた。
前方の通路から、鼓膜を震わせるような低い地響きが近づいてくる。
浅層の壁——重装甲車すら容易くスクラップに変える突進力を持つ魔物、『ホーンボア』だ。推定重量は1トンを軽く超え、その額には鋼鉄をも貫く巨大な一本角が生えている。
「ブルルァァァッ!!」
エンリの姿を視認したホーンボアが、血走った眼を剥いて突進を開始する。
狭い通路では回避は不可能。通常の探索者であれば、対戦車ライフルでも持ち出さない限りミンチにされる絶望的な状況だ。
しかし、エンリは焦るどころか、ポケットから黒い片手袋を取り出し、静かに右手に装着した。
(速度、時速約80キロ。質量、1.2トン。床の摩擦係数……。うん、十分な運動エネルギーだ)
エンリの左手には手袋がない。それはすでに、数十メートル手前を通り過ぎた際、強固な岩盤の天井にアンカーとして『設置』してきていた。
現在の彼のアーティファクト『虚空の門』で展開できるポータルは、同時に一対(二つ)のみ。そして、左右の手袋がそれぞれの起点となるという制約がある。
「『相対的慣性保存』」
ボアの巨角が、エンリの腹部を串刺しにする寸前。
エンリが前に突き出した右手の空間が、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。直径2メートルの『入口』のポータルが、音もなく展開される。
「ブモォ!?」
ホーンボアはブレーキをかける間もなく、自らの突進の勢いそのままに、漆黒の空間の穴へと吸い込まれていく。
そして直後。
エンリの遥か後方、頭上10メートルの岩盤に張り付けられた左手袋——『出口』のポータルから、1.2トンの巨体が勢いよく射出された。
空間を転移しても、物体が持っていた運動エネルギーの向きと大きさは保存される。
エンリが行ったのは、超高速で直進するエネルギーのベクトルを、「水平」から「真下」へと書き換えただけだ。
ドォォォォンッ!!
ホーンボアは、自身の凄まじい突進の速度に、10メートルからの自由落下による重力加速度が上乗せされ、硬い岩の床に激突。自らの重さと勢いによって首の骨を完全にへし折り、ピクピクと痙攣したのち、絶命した。
「……無駄なエネルギーを使わずに済んだ。弾丸も魔法もいらない。やはり、物理エンジンのハックは効率がいい」
エンリは静かに右手袋のポータルを閉じ、何事もなかったかのように歩き出した。
* * *
その一部始終を、少し離れた物陰から観測していた者がいた。
秤珠里である。
「……空間の強制転移。いえ、正確には運動エネルギーのベクトルをそのまま維持して座標だけを書き換えた……?」
ジュリは物陰に身を隠したまま、震える指で端末の画面をなぞった。
魔法もなしに、たった一対のゲートでそんなことが可能なのか。いや、目の前で実際にそれが起きたのだ。
彼女の端末には、今しがたエンリがホーンボアを瞬殺した一連のデータが記録されていた。消費された弾薬はゼロ。労力もほぼゼロ。敵の力をそのまま利用し、物理法則の「向き」を変えただけ。
(凄い。凄い、凄い……っ! 彼の本当の価値、翔たちの浅はかな計算なんて遥かに超えているわ!)
ジュリの胸の奥で、常に冷静なはずの計算高い理性が吹き飛び、全く別の、熱くドロドロとした感情が跳ねた。
彼がクランで荷物持ちをしていた時の、あの異常なまでの物資管理能力。あれは単なる事務作業などではなかった。彼はあの時からずっと、このダンジョンという箱庭で、世界の理を完全に掌握するための「実験」を繰り返していたのだ。
(もっと見たい……。彼がこのふざけたダンジョンの理を、どうやって破壊していくのか。誰よりも近くで見届けたい……っ!)
その強烈な知的好奇心と、得体の知れない熱情が、有能なはずの彼女の判断力をわずかに狂わせていた。
無我夢中でエンリの背中を追い、ダンジョンの奥へ奥へと進むうちに、周囲の空気が一変したことに気づかなかったのだ。
ふと、肌にまとわりつく湿気が異常に高くなっていることに気づき、ジュリは足を止めた。
壁を覆う発光苔は不気味な赤黒さに変わり、空間自体の気圧が不規則に変動しているのがわかる。
「……っ、しまった。ここはもう『中層』……!?」
浅層と中層では、魔物の脅威度が桁違いに跳ね上がる。軽装のサポート職が単独で足を踏み入れていい場所では絶対にない。
気づいた時には、背後から鼓膜を貫くような、耳障りな金属音が響いていた。
天井の暗がりから、音もなく降り立った巨大な影。
それは、紅い外殻と、人間の胴体を容易く両断する二振りの大鎌を持つ凶悪な捕食者——ブラッド・マンティスだった。
「ギチチチチッ……!!」
逃げ場はない。護身用の小さなスタンガンやナイフなど、あの装甲の前では紙切れも同然だ。
振り上げられた紅い鎌が、ジュリの視界を完全に埋め尽くす。
「……あ」
圧倒的な死の予感。
緻密に人生を計算し、常に安全圏から強者を操ってきたはずの自分が、たった一人の男の才能に目を奪われた結果、こんな惨めな場所で命を落とす。
自嘲気味な絶望に染まったジュリの瞳に、無慈悲に振り下ろされる紅い刃が迫っていた。




