誓いの接吻(ディープ・デバッグ)と、開かれる根源
新宿第4ダンジョン、『深層・最終待機領域』。
世界の心臓部へと続く、重厚で禍々しい黒金の扉の前。
先ほどまで吹き荒れていた世界のノイズは止み、三人の繋いだ手を通して流れる、温かく、そして強大すぎる力が、周囲の虚無を柔らかな光で満たしていた。
「……バイタル、正常。魔力波形、安定。……演算回路、同期率1000%オーバー」
古海縁理は、繋がれた二人の手の感触を確かめながら、自身の脳内に流れるパラメーターを淡々と読み上げた。
だが、その声は微かに震え、眼鏡の奥の瞳は、これまでにないほど熱く、そして戸惑ったように揺れている。
第39話での「魂の同期(愛の告白)」を経て、彼の中の『孤独なハッカー』という定義は、完全に書き換えられていた。
「……準備は、完了だ。この扉を開けば、もう後戻りはできない」
エンリは前を見据えたまま、繋いだ手にさらに力を込めた。
だが。
「——お待ちください、王子様」
右側にいた秤珠里が、エンリの手をぐっと引き寄せ、その場に立ち止まった。
「……ジュリ? まだ何かエラーでも——」
エンリが振り返った瞬間。
ジュリは繋いでいた右手を離すと、そのままエンリの両肩を掴み、彼を黒金の扉へと押し付けた。完全な退路を断つ、バスルーム以来の『壁ドン』。
「……っ、ジュリ?」
「……最終確認ですわ、王子様」
ジュリの顔が、至近距離まで近づく。
彼女の瞳は、いつもの秘書としての冷静さではなく、一人の女としての、抑えきれない情熱と独占欲で潤んでいた。
「これから先、ソースコアをハッキングすれば、世界は再構築されます。……その『新しい世界』において、私の王子様へのアクセス権限(正妻ポジション)が、永遠に、完璧に、ビタイチ狂いなく保証されているという……『物理的な証明(既成事実)』が、秘書として、どうしても今ここで必要なのですわ!」
「証明……? だから、それはさっき言葉で——」
「言い訳は無用ですわァァァッ!!」
ジュリはエンリの言葉を遮り、そのままの勢いで、彼の唇へと自らの唇を重ねた。
「ん……っ!?」
人工呼吸(酸素供給)ではない。
それは、自らの愛の熱量と質量をすべて注ぎ込むような、深く、熱く、そして甘い『誓いの接吻』だった。
ジュリの柔らかい唇が、エンリの唇を割って、その奥へと侵入してくる。
彼女の口内から溢れる熱い体温、甘い香りが、エンリの脳内へとダイレクトに流れ込み、彼の冷徹な演算回路をゴリゴリと溶かしていく。
ドクンッ! ドクンッ!! ドクンッ!!!
エンリの心拍数が、物理的な限界(180bpm)を軽々と突破する。
脳内のドーパミン受容体がオーバーフローを起こし、視界の数式がすべてピンク色に反転していく。
「……ああ、なんという至福! 王子様のドーパミンが、私の体温と愛の質量によって、合法的に、かつ爆発的に分泌されているのを感知しますわ! これこそが、最強のバイタル同期システム! 王子様、もっと、もっと私の愛を受け止めてくださいませ……ッ!」
ジュリはキスを続けながら、自身の豊かな双丘をエンリの胸板に押し付け、その質量で彼を完全に制圧しようとする。
「……んぐぅ、っ、ふはぁ……ッ!」
数分後、ようやく唇を離したジュリは、顔を真っ赤にして茹で上がっているエンリを見つめ、恍惚とした笑みを浮かべた。
「ふふっ♡ これで、新しい世界における私の正妻ポジションは、物理的に確定されましたわね!」
「……っ。ど、どいつもこいつも、ロジックが……ッ」
エンリは息を切らし、白目を剥きかけながら、崩れ落ちそうになる身体をどうにか保った。
だが、受難はこれで終わらない。
「——やれやれ。随分と、品のない『ご奉仕』ね、乳牛さん」
左側から、氷のように冷たく、そして夜の闇よりも甘い声が響いた。
振り返れば、そこには真祖リリスが、扇子で口元を隠しながら、真紅の瞳を妖しく輝かせて立っていた。
「リ、リリス……?」
「物理的な接触だの、ドーパミンだの……。そんな浅ましい理屈で、彼の魂を繋ぎ止めたつもり?」
リリスは扇子を閉じると、ヒールを鳴らしてエンリへと歩み寄ってきた。
「真の繋がりっていうのはね……。こういうことよ、エンリ」
リリスはエンリの顎を細い指先でそっと掬い上げると、ジュリのように強引に押し付けるのではなく、ふわりと軽やかに、しかし抗いがたい強引さで、彼の唇へと唇を重ねた。
「真祖の契約——接続」
「……ッ、はぁ……ッ!?」
リリスのキスは、ジュリのそれとは全く異質だった。
唇が触れた瞬間、エンリの口内へ、リリスの濃密で冷たい『魔力(血)』が流れ込んでくる。
それは、吸血鬼の真祖特有の、魂を直接ハッキングするような、甘美で絶望的な快楽。
ジュリのキスが物理的なドーパミンの爆発なら、リリスのキスは、本能(OS)そのものを書き換えるような、精神的な陶酔。
エンリの理性が、リリスの甘い魔力によって、内側からジワジワと溶かされ、彼女への服従と依存を求めて狂い出す。
「……ああ。なんて愛おしい。貴方のその特別な血の味が、私の魂(核)へと、甘く、深く染み込んでいくわ……」
リリスはキスを深めながら、エンリの首筋に自身の鋭い牙をそっと立て、吸血欲求と愛欲が融合した、極上の『熱交換』を要求する。
「……っ、ぁ、あガ……ッ!(魂が……ハッキングされる……ッ!)」
エンリは、ジュリの物理攻撃とリリスの精神攻撃のダブルパンチを受け、自身の自我(OS)が完全に崩壊していく感覚に、声にならない悲鳴を上げる。
「あら、泥棒猫! 今度は貴女が抜け駆けですわね! 王子様の魂の領域は、私の合理的な愛の演算で常に保護されているんですから!!」
「ふふっ。言葉通りの意味よ、乳牛さん。触れずとも、相手を狂わせる気高い本能(魔法)の恐ろしさ……。貴女の安い物理現象など、私の『魂のハッキング』の前にはひれ伏すがいいわ!」
バチバチバチッ!!
エンリの頭上で、ジュリの「ドス黒い物理のオーラ」と、リリスの「真紅の魔法のオーラ」が再び激突する。
(……誰か……。この理不尽なエラー(愛)を、修正してくれ……ッ)
世界の根源をハッキングする前に、二人のヒロインによって、自身の理性と理屈を完全にハッキングされ、処理落ち(フリーズ)寸前のバグの王子様。
だが、極限まで高まったこの「情愛(熱量)」は、二人を受け入れる、さらなる爆発を求めていた。
「……お前ら……いい加減にしろ」
エンリは、フリーズ寸前の脳内メモリをどうにか励起させ、真っ赤になった顔を上げた。
「……言葉だけじゃ足りないって言うなら、……いくらでも、上書きしてやる」
「「え……?」」
エンリは、左右から自分に抱きついている二人のヒロインを、同時に強く抱き寄せた。
「僕の隣は、騒がしすぎて処理落ちしそうだが……。でも、お前たちがいない世界なんて、僕にとってはただの致命的なエラー(ゴミ)だ」
エンリは、ジュリとリリス、二人の瞳をじっと見つめ、そして——。
「『誓いの接吻』——再契約(同期)」
エンリは、二人を同時に抱き寄せたまま、交互に、そして深く、熱く、唇を重ねた。
物理と魔法。
相反する二つの力が、エンリの唇を通して一つに溶け合い、彼のCPUを、そして三人の魂を、完璧に同期させていく。
(……ああ。これが……世界の真実か……ッ)
三位一体となった、最強の『誓いのキス』。
それは、世界のシステムすらもハッキングする、絶対的な絆の証明。
その熱量が頂点に達した瞬間。
——ガガガガガガガガガガガォォォォォォォォォォンッ!!!!!
三人の背後にあった黒金の扉が、世界の悲鳴のような轟音と共に、音を立てて崩れ去った。
扉が物理的に、そして魔術的に、三人の誓いの熱量によって『ハッキング』され、開かれたのだ。
扉の奥から溢れ出すのは、この世界の全てを記述する、眩いばかりの『ソースコード』の光。
「……さて。……準備は完了だ」
エンリは、キスで茹であがった顔のまま、扉の奥に広がるソースコアを睨みつけた。
その瞳には、もはや迷いも、孤独の陰りも消えていた。
「行くぞ。……僕たちのための『新しい世界』を、今から書き換えに行く」
「「はい、王子様!!」」
最強の有能秘書と、最凶の吸血鬼。
二人の美女との「誓いの接吻」によって、能力を無限大にブーストさせたバグの王子様は、いよいよ世界の根源へと足を踏み入れる。
……扉を潜った直後、ジュリとリリスが「今の私のキスの方が深かったですわ!」「いいえ、私の魂の融合の方が上よ!」と再びいちゃいちゃバトルを始め、エンリが「……お前ら、ソースコアを前にして何をしてるんだ……ッ」と処理落ちの溜め息を吐き出すのは、また別のお話。




