忘却のセクターと、三人の体温(同期)
新宿第4ダンジョン、『深層・最終待機領域』。
世界の心臓部を目前にしたその場所は、もはや風景すら存在しなかった。
あるのは、未完成のオブジェクトが浮遊し、絶えず「世界の悲鳴」のようなノイズが吹き荒れる、絶対的な虚無。
「……ッ、ぐ、ぅ……!」
古海縁理は、膝をつき、激しく咳き込んだ。
右手袋の奥で、神経を焼くような熱が走る。
「王子様!? ダメですわ、これ以上の広域ハッキングは! 王子様の脳内メモリが、世界のノイズ(負荷)に直接侵食されています!」
「エンリ! 無理をしないで! 私の魔力で障壁を張るから、貴方は演算を止めて!」
秤珠里とリリスが、左右からエンリの身体を支える。
ソースコアに近づくほど、世界の「物理エンジンの崩壊」は凄まじくなっていた。エンリは、二人にその負荷を一切通さないよう、自分一人で全てのノイズをハッキングし、無効化し続けていたのだ。
「……黙ってろ。……僕がやらなければ、お前たちの存在が消える……。それだけは……絶対に、許さない……」
エンリの瞳からは、過負荷による出血が伝っていた。
彼は、自分を追放した世界なんてどうなってもいいと思っていた。だが、今の彼にとって、この二人の「体温」だけは、何があっても守り抜かなければならない『世界の真実』になっていた。
「……馬鹿な人。貴方が消えたら、守られた私たちに何の意味があるっていうの?」
リリスが、震える手でエンリの頬を包み込む。
彼女は自身の『真祖の核』を強制的に励起させ、自らの魂を削って魔力を練り上げた。
「ジュリ、力を貸して。私の魔力を、貴方の論理回路で増幅するの。エンリの負荷を、全部私たちが肩代わりしましょう」
「……分かっていますわ。理屈派の私には、そんな非合理な自己犠牲は理解できませんが……。でも、王子様を一人で苦しませるくらいなら、私の回路が焼き切れる方がマシですわ!」
二人はエンリの手の上に、自分たちの手を重ねた。
物理と、魔法。
相反する二つの力が、エンリの右手袋を通して一つに溶け合い、押し寄せる世界のノイズを押し返していく。
「お前たち……何を……やめろ……ッ」
「いいえ、やめませんわ! 王子様の孤独な戦いは、ここで終了です! これからは三人の共同演算(愛)で、この世界をデバッグするのですわ!」
「……そうよ。貴方はもう、一人で戦う『バグ』じゃない。私たちの、真ん中にいる人なんだから」
二人の温もりが、魔力と論理を通してエンリの脳内に流れ込んでくる。
それは、凍てついていた彼の心拍数を、優しく、力強く最適化していく感覚だった。
やがて、吹き荒れていたノイズが止み、三人の周囲だけが、柔らかい光の膜に包まれた。
「……ふぅ。……やれやれ。……計算外だ」
エンリは、肩の力が抜けたように、二人の身体に寄りかかった。
いつもなら即座に引き剥がすはずの密着。だが、今はその「重さ」が、何よりも愛おしかった。
「……僕は、お前たちをただのツールだと思っていた。……あるいは、利用し合うだけの駒だと」
エンリは目を閉じ、重なる二人の手の感触を確かめるように、力を込めた。
「……だが、違ったな。……僕には、もう、お前たちがいない世界を計算することができない。……お前たちのいない未来なんて、僕にとってはただの『致命的なエラー』だ」
「「……ッ!」」
不器用で、論理的で、けれどこれ以上ないほど純粋な愛の告白。
二人のヒロインの瞳に、熱いものが込み上げる。
「王子様……っ。……はい、私もですわ。王子様のいない世界なんて、質量のない虚無と同じですわ……!」
「……エンリ。……もう、離してあげないから。貴方がどこへ行こうと、私の本能が貴方を離さないわ」
虚無の深層で、三人の鼓動が完璧に同期する。
それは、もはや誰にも、世界のシステムですら引き裂くことのできない、絶対的な絆の完成だった。
「……さて。……少し、休みすぎたな」
エンリは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、迷いも、孤独の陰りも消えていた。
「行くぞ。……世界の根源をハッキングして、僕たちのための『新しい世界』を、今から書き換えに行く」
「「はい、王子様!!」」
三人の手は、繋がれたまま。
絆を深め、魂の同期を終えた彼らは、いよいよ最終決戦の地、ソースコアの扉へと手をかける。
だが、極限まで高まったこの「情愛(熱量)」は、扉を開く前に、さらなる爆発を求めていた。
それは、言葉だけでは足りない、もっと深く、もっと熱い、魂の溶け合い。
次なる扉を開く鍵は、三人の『誓いの接吻』へと委ねられようとしていた。




