三位一体のデバッグ(無双)と、書き換えられる最強
新宿第4ダンジョン、『深層の極地』。
そこは、城門を潜った瞬間に世界の『前提』が崩れ去る場所だった。
上下左右の概念はなく、空には真紅の月ではなく、無数の数式がノイズとなって点滅している。地面は存在せず、凍てついた魔力の結晶が足場のように浮かぶ、物理法則が完全にフリーズした虚無の空間。
「……なるほど。ここはシミュレーションの『未定義領域』か。物理エンジンが機能していないから、存在が形を保つことすらギリギリだな」
古海縁理は、黒い外套を物理ハックで『防護壁』へと書き換え、浮かぶ結晶の上を淡々と歩いていた。
「ええ。ここはかつて、私のクランでも限られた精鋭しか立ち入ることを許されなかった『禁忌の領域』。……ここを安定して歩ける時点で、貴方の演算能力はすでに神の領域ね、エンリ」
エンリの隣を、リリスが一切の重力を無視した優雅な動作で浮遊していた。
クランを捨て、真祖の重圧から解放された彼女の真紅の瞳は、以前よりもいっそう妖艶に、そして楽しげに輝いている。
そして、エンリのもう一方の隣には……。
「王子様! この領域の魔力濃度は地上の1万倍! 常に私の『愛の結界(物理的な抱擁)』で王子様の生体情報を保護しておかなければ、細胞レベルでエラーを起こしてしまいますわ!!」
秤珠里が、エンリの右腕にこれでもかと豊満な胸を押し付け、自身の体温と脂質でエンリを物理的にコーティング(セクハラ)していた。
「……お前がくっついているせいで、別のエラー(心拍数上昇)が起きている。離れろ」
「却下ですわ! これこそが最も合理的かつ効率的なサポートインフラ整備ですわァッ!!」
——ゴゴゴゴゴゴゴゴゴォッ……ッ!!!
3人がいつものように騒がしく進んでいた、その時。
未定義領域のノイズが一点に集束し、空間そのものが苦悶の声を上げるような轟音が響いた。
ノイズの渦から現れたのは、山のような巨体を持つ、不定形の異形。
漆黒の肉体からは無数の触手が生え、その表面には何千もの『泣き叫ぶ顔』が浮き浮き沈みしている。深層の生態系の頂点に君臨する存在——『深淵の捕食者』。
「……っ、嘘でしょう!? なぜアイツがこんな浅い層(未定義領域の入り口)に……ッ!」
リリスが初めて、その美しい顔を驚愕と戦慄に歪めた。
「エンリ、下がって! こいつはダメよ、次元が違う! 私がクランの長だった頃、精鋭1000人を率いて挑んで、私以外の999人が1分で全滅した……、この世界そのものが生み出した『死の概念』よ!!」
アビス・プレデターは、実体を持たない『負のエネルギーの塊』であり、物理攻撃はすべて透過し、魔法攻撃はすべて喰らって自身の糧とする。本来、攻略不可能なバグそのもの。
リリスの魔力ですら、こいつの前ではただのご馳走に過ぎない。
「……いいデータ(的)だ。リリス、ジュリ。……やるぞ」
だが、エンリは動じることなく、むしろ獲物を見つけたハッカーのように、不敵に口角を上げた。
「「……え?」」
「ジュリ。こいつの『記述コード(存在定義)』をスキャンしろ。必ずどこかに、物理的に干渉できる『記述ミス(脆弱性)』があるはずだ」
「は、はいっ! 王子様の御心のままに! ……『全領域・深層スキャン(デバッグ・アイ)』、起動!!」
ジュリが即座に秘書モードへと切り替わり、眼鏡の奥の瞳に膨大なデータを走らせる。
「王子様! 敵の存在定義は『負の魔力による空間の因果律操作』! 物理的には実体が存在しません! ……ですが、座標【X:554, Y:-321, Z:998】! 敵の『核』となるデータの記述が、周囲の空間座標とコンマゼロ秒だけズレていますわ!!」
「……そこか。記述の同期ミス(ラグ)だな。了解した」
エンリが右手袋を掲げ、ジュリが指定した座標に向けて指先を向けた。
「『物理定義・再記述』——空間座標の強制同期」
パキィィィィンッ!!!
アビス・プレデターの不定形の肉体の一部が、音を立てて『実体化』した。
エンリが、周囲の空間座標の記述をハッキングし、敵の核をその座標に『物理的に固定(同期)』させたのだ。
「ギャァァァァァァァァッ!?」
アビス・プレデターが、生まれて初めて味わう『物理的な存在』という感覚に、苦悶の悲鳴を上げる。
「リリス! 実体化した核に、お前の最強の魔力を叩き込め! 今のこいつは、魔法を喰らう機能がフリーズしている!」
「……え、ええ! 分かったわ!」
リリスは一瞬の迷いの後、自身の真祖の血をすべて魔力へと変換し、空中に巨大な真紅の魔法陣を展開した。
「砕け散りなさい、深淵のゴミ屑! 【真祖の血槍】!!」
リリスの魔力をすべて注ぎ込んだ、長さ100メートルを超える真紅の血の槍が生成される。
だが、エンリはそれだけでは満足しなかった。
「ジュリ、槍の軌道を最適化しろ。僕は槍の質量をハックする」
「了解ですわ、王子様! 敵の核の座標ズレを予測し、槍の軌道を100万通りの演算から最適化完了!」
「『物理定義・再記述』——質量無限大」
エンリがリリスの放った血の槍に触れると、槍の周囲の空間が、その圧倒的な質量によってブラックホールのように歪み始めた。
真祖の最強の魔力。
100万通りの軌道演算。
そして、物理的な質量無限大。
三位一体となった、神をも殺す最強のデバッグ(攻撃)が、実体化したアビス・プレデターの核へと貫かれた。
——ズズズズズズズズズズズズズゥォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
爆発音はなかった。
存在したのは、世界の物理演算が崩壊するような、不気味な『静寂』と『消滅』。
アビス・プレデターの巨体は、質量無限大の槍によって、原子レベルどころかデータレベルで粉砕され、そのまま未定義領域の虚無へと吸い込まれて消滅した。
傷一つ負わず。魔力を一滴も無駄にせず。
吸血鬼クランを全滅させた深層の最強モンスターが、たった数秒の『連携デバッグ』によって、文字通り完全消去されたのだ。
「……信じられない」
リリスは、自身の最強の魔法が、エンリとジュリのサポートによってこれほどの『理不尽な暴力』へと進化したことに、呆然と立ち尽くしていた。
「……かつての私が、何百年もかけて勝てなかった相手が……。貴方たちとなら、こんなに……こんなに呆気なく……ッ!」
リリスの瞳から、ポロポロと嬉し涙がこぼれ落ちる。
それは、恐怖からの解放ではなく、エンリという『自分をさらに高みへと導いてくれる存在』への、深い感動と愛情の涙だった。
「……エンリ……ッ!!」
リリスはたまらずエンリの正面から飛びつき、そのスレンダーな身体を強く抱きしめた。
物理的な密着など下品だと見下していた彼女が、本能のままに、エンリの体温を求めて肌を擦り付ける。
「ああ、なんて素晴らしい男……! 貴方のその冷徹な演算能力と、私の魔力……私たちが組めば、この壊れた世界なんて、文字通り何でも好き勝手に書き換えられるわ!! さあ、今すぐ私の『奥深く』まで繋いで、もっと甘いバグを起こしましょう……!!」
「なっ……! 抜け駆けは許しませんわよ、泥棒猫!! 王子様の演算能力を一番理解しているのは、この私ですわァァァッ!!」
背中からはジュリの圧倒的な『物理』。
正面からはリリスの歓喜の『魔法(抱擁)』。
「……お前ら、いい加減にしろ。最強モンスターのデバッグより、お前らの処理をする方が、よっぽどCPUに負荷がかかってるんだよ……ッ」
深層の最強モンスターを瞬殺したバグの王子様も、両手に花(という名の過剰なシステム負荷)のデスマーチからは、明日も逃げられない仕様になっているのだった。




