真祖の退位と、対等な既成事実(キス)
新宿第4ダンジョン最深部——吸血鬼の城、その巨大な城門の前。
そこから先は、光すらも歪み、物理法則が完全に崩壊したとされる『深層の極地』へと続いている。
「……アンカーの設置、および予備のリソース(弾薬・食料)の圧縮格納は完了した。いつでもいける」
古海縁理は、黒い外套を翻し、虚空に向けて指先を走らせていた。
彼の隣には、エンリの予備装備を完璧に整理し終えた秤珠里が、戦場へ向かうとは思えないほど艶やかな微笑みを浮かべて立っている。
「準備万端ですわ、王子様。これから先、どのようなバグ(敵)が現れようとも、私の愛の質量で王子様の安全を100%保障いたしますわ!」
「……ああ。頼りにしている」
エンリが頷き、城門の先にある闇へと足を踏み出そうとした、その時だった。
「——待って。最後の大事な『手続き(アップデート)』がまだ残っているわ」
背後から響いたのは、凛とした、しかしどこか弾んだリリスの声だった。
振り返れば、そこには彼女に仕える数千の吸血鬼騎士たちが、静寂の中で整列し、彼女を見送っていた。
「……リリス? まだ何か忘れ物か?」
「ええ。とても大事なものよ」
リリスは優雅な足取りでエンリの目の前まで歩み寄ると、その真紅の瞳でじっと彼を見つめた。
そして次の瞬間——。
「ん……っ」
「っ!?」
リリスは迷いなくエンリの首に手を回し、その薄い唇を、エンリの唇へと力強く重ねた。
ジュリの時の人工呼吸(循環呼吸)とは違う。それは、自らの魔力と本能をすべて注ぎ込むような、深く、熱く、そして甘美な吸血鬼の『契約』だった。
「……なッ、何をして……ッ!!」
数秒後、唇を離したリリスは、顔を真っ赤にしてフリーズしているエンリを満足げに見つめ、そのまま背後のクランメンバーたちに向き直った。
「聞きなさい、私の愛しき同胞たち! 私は今この瞬間を以て、クラン【真紅の夜】の長の座を退き、その全権を執事レンフィールドに委譲することを宣言するわ!」
「「「……っ!?」」」
どよめきが吸血鬼たちの間に広がる。
だが、リリスの言葉は止まらない。
「私は決めたの。古海縁理……この愛しいバグの王子様をクランに加入させられないのなら、私が、彼の『パーティーメンバー(所有物)』になればいいだけのことだって!」
「リ、リリス!? お前、何を言って……城はどうするんだ!」
驚愕するエンリに、リリスはいたずらっぽく、そして小悪魔的な笑みを浮かべて寄り添った。
「城なんてまた作ればいいわ。でも、貴方という『特異点』は世界に一人しかいないもの。……それに、秘書の彼女だけが貴方と『既成事実』を共有しているなんて、不公平でしょう?」
リリスは扇子を広げ、ジュリを挑発するように目を細めた。
「彼女には人工呼吸っていう理屈(言い訳)があったけれど、今の私のは100%、私の本能による『愛の署名』よ。これで私も、彼女と同格の既成事実を手に入れた……そうよね、エンリ?」
「……っ。ど、どいつもこいつも、ロジックが破綻しすぎている……」
エンリは真っ赤になった顔を隠すように眼鏡をクイと押し上げたが、内心の処理速度はすでに限界に達していた。
「——泥棒猫ぉぉぉぉぉッ!!」
そこへ、雷のような咆哮と共にジュリが割り込んできた。
彼女の顔は、嫉妬と対抗心で凄まじいことになっている。
「私の王子様の唇は、緊急事態における『合理的な酸素供給路』としてのみ開放されていたはずですわ! それを、地位を投げ打ってまで私欲のために上書き(オーバーライド)するなんて……! 秘書として、断じて容認できませんわ!!」
「あら、地位を捨ててまで彼を追う私の方が、覚悟の重さ(リソース)では勝っているんじゃないかしら?」
「覚悟の問題ではありませんわ! 質量です! 王子様への接触時間(稼働率)では、私の方が圧倒的に優位ですのよ!!」
バチバチバチッ!!
空中で再び、ジュリの「物理・論理の黒い炎」と、リリスの「魔法・本能の紅い炎」が激突する。
だが、リリスの表情には、以前のような険悪さはなかった。どこか、同じ男を愛する「ライバル(相棒)」としての、不敵な親愛が混ざっている。
「……いいわ。どっちがより彼を『デバッグ(愛)』できるか、深層の奥でじっくり切磋琢磨しましょうじゃない」
「望むところですわ! 私の合理的なスキンシップに、貴女のオカルトがどこまでついてこれるか、見ものですわね!」
「……はぁ。勝手にしろ」
エンリは、最強の有能秘書に加え、地位を捨ててまでついてくる吸血鬼の真祖という、最大級の『予測不能な変数』を抱え込み、再び歩き出した。
「行くぞ。……僕の隣は、騒がしすぎて処理落ちしそうだがな」
「「はいっ、王子様!!」」
バグの王子様と、重すぎる愛を競い合う二人の美少女。
三位一体となった最強のパーティーは、世界の根源が眠る、誰も到達したことのない深淵へと足を踏み入れていくのだった。




