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真紅の夜と、気高き真祖の洗礼

「……いくぞ、ジュリ。リソースの回復は十分だ」


古海縁理フルミ・エンリは、真新しいシャツに袖を通し、左手袋で自室の空間に円を描いた。

昨日、崩壊するパノプティコンの最下層に設置しておいた『深層へのアンカー』を起動する。


「はいっ、王子様! 私の『合理的洗浄(お風呂)』と『添い寝による完璧な体温管理』のおかげで、王子様のバイタルは現在120%の絶好調ですわね!」


隣に立つ秤珠里ハカリ・ジュリは、ビシッとした真新しい秘書服に身を包み、その豊満な胸を誇らしげに張っている。昨晩の限界デバッグ(いちゃいちゃ)を経て、彼女のエンリに対する「既成事実のドヤ顔」はもはやカンスト状態だった。


ポータルを潜り抜けた先。

そこは、洞窟のような『ダンジョン』という概念を根本から覆す景色だった。


「……ほう」


エンリが珍しく感嘆の息を漏らす。

見上げる空には、人工的でありながらも妖しく輝く『真紅の月』。

眼下に広がるのは、中世ヨーロッパのゴシック建築を思わせる荘厳な城と、美しく整備された石畳の広がる『巨大な地下帝国』だった。


パノプティコンの連中が「観測」しようとしていた箱庭のさらに奥底には、彼らなど足元にも及ばない、独自の高度な文明圏が広がっていたのだ。


グルルルルルル……ッ!!


その時、静寂を切り裂くような凶悪な咆哮が轟いた。

二人の転移の気配を嗅ぎつけたのか、広場の石畳を砕きながら現れたのは、体長10メートルを超える深層の番犬——Sランク指定の魔獣『ケルベロス』だった。

三つの首が、エンリたちを侵入者とみなし、灼熱の業火を吐き出そうと息を吸い込む。


「……チッ。出迎えの手際が悪いな」


エンリが右手袋を構え、火炎の運動エネルギーをハッキングするための数式を脳内で走らせようとした、その瞬間。


『——控えなさい、駄犬。私の愛しいお客様(特異点)に、汚い息を吐きかける気?』


夜気を震わせるような、甘く、そして絶対的な『支配』を孕んだ美しい声が響いた。


空から、ふわりと。

一切の物理法則(重力)を無視したような優雅な軌道で、一人の少女が舞い降りてきた。


漆黒のドレスに身を包んだ、スレンダーで小悪魔的なプロポーション。

透き通るような白磁の肌と、夜の闇よりも深い黒髪。そして、見る者の魂を直接鷲掴みにするような、人並み外れた神秘的な美貌。


深層の支配者であり、吸血鬼の真祖——リリス。


彼女が、真紅の瞳でケルベロスをスッと一瞥した。

ただ、それだけだった。エンリのような複雑な物理演算も、魔力の詠唱すらもない。


——ズチュゥゥゥゥンッ!!!


「ギャンッ!?」


Sランクの魔獣の巨体が、見えない『概念的な圧力』によって、一瞬にして石畳にペシャンコに平伏させられた。

物理的な重力ではない。純粋で、圧倒的すぎる『魔力』と『格の違い(本能)』が、魔獣の存在そのものを強制的に屈服させたのだ。


(……なんだ、今の力は。運動エネルギーのベクトル操作じゃない。純粋な意味での『魔法(システムへの直接干渉)』……。これが、この階層のルート権限を持つ者の力か)


エンリが目を細めてその理不尽な光景を分析していると、リリスの背後の影が、次々と実体化し始めた。


バサァッ、バサァッ!


「「「我らが真祖(リリス様)に、永遠の忠誠を」」」


広場を埋め尽くすほどの数——数百名にも及ぶ、洗練された騎士服を纏った上位吸血鬼エリートたちが、一糸乱れぬ完璧な動作でリリスに向かって片膝をつき、深く頭を垂れた。

その中には、先日パノプティコンでエンリたちを案内した執事、レンフィールドの姿もある。


一人ひとりが、地上に出れば国を落とせるほどの魔力を持った化け物たち。

それが、たった一人の少女の背後に、軍隊を超える完璧な組織力で統率されている。

研究者気取りで狭い部屋に引きこもっていたパノプティコンなど、彼女たちから見れば、庭先で砂遊びをしている子供に過ぎなかった。


「ようこそ、私の箱庭へ。古海縁理……いえ、愛しいバグの王子様」


リリスは臣下たちを一瞥することもなく、優雅な足取りでエンリへと歩み寄ってきた。

そして、物理的な密着など一切しないまま、絶妙な距離感でエンリの顔を覗き込み、妖艶な微笑みを浮かべる。


「ずっと、貴方のような規格外イレギュラーを待っていたの。この退屈で壊れた世界で、唯一私と同じ景色を見ている人……。ねえ、理屈なんて抜きにして、貴方のその特別な血、私に味見させてくださらない?」


リリスの甘い吐息と、本能に直接訴えかけてくる圧倒的な『美』の波動が、エンリの心拍数を内側から静かに、だが確実に狂わせようとする。


「——お断りですわ!! どこの馬の骨とも知れない吸血女に、私の王子様の尊い体液リソースを一滴たりとも渡すもんですか!!」


ドンッ!!

リリスの魅了の波動を物理的に叩き割るように、ジュリがエンリの腕に力強く抱きつき、その豊満な胸をこれでもかと押し当てて牽制した。


「王子様の血圧も心拍数も、すべて私の完璧な『密着管理スキンシップ』のもとにあります! 貴女のような未確認の魔力波形ウイルスは、私が物理の力で徹底的に弾き返して差し上げますわ!」

「……おい、ジュリ。胸が当たってるどころか、めり込んでるぞ」


エンリが呆れ顔でツッコミを入れるが、ジュリは「これが一番の防御ですわ!」とドヤ顔を崩さない。


その様子を見たリリスは、ジュリの圧倒的な『質量おっぱい』を一瞥すると、ふふっ、と鼻で笑い、優雅に扇子を広げて口元を隠した。


「……やれやれ。随分と野蛮で、品のない番犬を飼っているのね、王子様」

「なっ!? 品がないとは何ですの!!」


「言葉通りの意味よ。女の魅力として、己の肉体という重苦しい『質量の塊(肉)』を無駄に押し付けるなんて……まるで発情した猿のよう。なんて下品で、理知に欠ける振る舞いかしら」


リリスはスレンダーな自身の身体を上品に翻し、真紅の瞳でジュリを見下ろした。


「真の繋がり(愛)に、そんな見苦しい物理的接触は不要よ。魂の共鳴と、本能が求める血の渇望……それこそが、最も気高くエレガントな愛情表現というもの。貴女のような頭でっかちの乳牛には、一生理解できないでしょうけれど」


「……言いましたわね、このペチャパイのオカルト女……ッ! 質量と摩擦係数という『絶対的な物理法則』を理解できない前時代的なバグの分際で……ッ!!」


「あら、図星を突かれて怒ったのかしら? 物理だの理屈だの、色気のない単語を並べないと男の気を引けないなんて、哀れな秘書ね」


バチバチバチッ!!

空中で、ジュリの「物理・論理のドス黒いオーラ」と、リリスの「魔法・本能の真紅のオーラ」が激しく衝突し、火花を散らす。


「……はぁ」


Sランク魔獣の襲撃よりも、はるかに厄介で頭の痛い事態。

氷の理系ハッカーであるエンリは、対極の属性を持つ二人の女による『未知のパラメーター(正妻戦争)』の勃発に、このダンジョンに入って初めて、本気の疲労の溜め息を吐き出すのだった。

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