魔眼の誘惑と、上書きされるドーパミン
新宿第4ダンジョン最深部——吸血鬼の真祖リリスが支配する『夜の城』。
「……なるほど。この階層は、ダンジョンの物理エンジンそのものが完全に書き換えられている(オーバーライドされている)わけか」
古海縁理は、案内された豪奢なVIPルームの革張りソファに深く腰掛けながら、室内を飛び交う自律型のティーカップを冷静に観察していた。
重力や熱力学といった基本法則が無視され、純粋な『魔力』という別システムのパラメーターがこの空間のすべてを制御している。
「ご名答よ、愛しい特異点の王子様」
エンリの向かいのソファで、リリスが優雅に脚を組み、真紅のワイングラス(中身は極上の血液だ)を揺らした。
「パノプティコンの愚か者たちは、ダンジョンを『未知の自然現象』だと勘違いして観測していたわ。でも、貴方と私には分かっているはず。この世界が……高次元の誰かが作った、出来の悪い『シミュレーション(箱庭)』に過ぎないってことが」
リリスの真紅の瞳が、妖しく、そして知的に細められる。
彼女はただのモンスターではない。エンリと同じく『世界の仕様』に気づいている、深層のシステム管理者の一人だったのだ。
「貴方のその、理不尽な物理法則の書き換え(ハッキング)の美しさ……。何百年も退屈していた私の魂を、これでもかと震わせてくれたわ。ねえ、私と手を組みなさいな。貴方と私の権限を掛け合わせれば、このふざけた世界の根源にだって手が届くはずよ」
リリスはソファから立ち上がると、足音ひとつ立てずにエンリの目の前へと歩み寄った。
「……ッ!」
エンリの隣に控えていた秤珠里が即座に警戒態勢に入り、エンリの盾になろうと豊満な身体を乗り出す。
だが、リリスはジュリに触れることすらなく、ふわりと軽やかなステップでその死角をすり抜け、エンリの『背後』へと回った。
「ッ!? このオカルト女、いつの間に……!」
「言ったはずよ、乳牛さん。無駄な質量に頼るから、動きが鈍重になるの」
リリスは背後からエンリの首元に顔を近づけ、その細く冷たい指先で、エンリの顎をそっと撫でた。
ベタベタとした物理的な密着はない。ただ、彼女から発せられる甘く濃密な魔力の香りと、首筋に触れる吐息だけが、エンリの脳を直接揺さぶってくる。
「……手を組むための『契約』は、とても簡単よ」
リリスの真紅の瞳——『真祖の魔眼』が、怪しく発光する。
「貴方のその特別な血を、ほんの一口。私の喉に注ぎ込んで頂戴。……そうすれば、貴方は永遠の至福の中で、私の最愛の眷属になれるわ」
ドクンッ!!
その瞬間、エンリの心拍数が跳ね上がった。
物理的な接触はないのに、脳内の快楽物質が強制的に分泌され、抗いようのない『服従と陶酔』のシグナルが全身の神経を駆け巡る。
これが、物理的な防壁を完全に無視する、魔法による直接的な精神ハッキング(魅了)だ。
(……チッ。脳の受容体への直接アクセスか。恐ろしく洗練されたウイルス(魔力)だな……!)
エンリはギリリと奥歯を噛み締め、自身の左手袋を強く握りこんだ。
体内の血流と神経伝達のベクトルを即座に計算し、自身の脳内物質の分泌を『物理的』に抑制・相殺する数式を猛スピードで組み上げていく。
「……無駄よ、王子様。私の魅了は本能に直接刻み込まれるもの。どれだけ理屈で抵抗しようと、貴方の身体はすでに私を求めて——」
「——させませんわァァァッ!!!」
ドンッ!!!
リリスの優雅な囁きをかき消すように、凄まじい勢いでジュリがエンリの正面から飛びかかってきた。
彼女はエンリの両肩を掴むと、そのままの勢いでエンリをソファの背もたれに押し倒し、自らの圧倒的な質量を持つ双丘を、エンリの顔面と胸板にこれでもかと押し付けたのだ。
「むぐっ!?」
「何をする気……っ!?」
あまりにも下品なジュリの行動に、リリスが思わず目を丸くして後ずさる。
「よくお聞きなさい、三流のウイルス女! 私の王子様の脳内物質を、得体の知れないオカルト電波で勝手に弄るなど、秘書として断じて許可できませんわ!!」
ジュリはエンリに完全に馬乗りになりながら、リリスをキッと睨みつけた。
「王子様に快楽物質が必要というのなら、私が! この私が物理的に分泌させてみせますわ! 密着による体温の上昇、圧倒的な柔らかさによる触覚への刺激、そして愛の鼓動(心拍)の同期! これら完璧な物理現象の連鎖によって生み出される合法的なドーパミンで、貴女の安い魔力など完全に上書き(オーバーライド)して差し上げます!!」
「んぐ……っ、ジュリ、お前、重っ……息が……ッ!」
エンリは魔眼の誘惑による陶酔から強制的に引き戻されたものの、今度はジュリの『愛の質量』による窒息と、密着による別の意味での心拍数爆上がり(ラブコメ的デスマーチ)に直面していた。
「……信じられない」
リリスは、ソファでジュリの胸に埋もれてもがくエンリの姿を見て、羽扇子で顔を覆いながら心底軽蔑したようなため息をついた。
「美しい魂の交歓を、力任せの肉弾戦(物理)で妨害するなんて。……やっぱり貴女、知性の欠片もない野蛮な乳牛ね。そんな重苦しい肉塊を押し付けられて、王子様が喜ぶとでも?」
「フン! 負け犬の遠吠えですわね! 触れ合いもせずに愛を語るなど、机上の空論! 摩擦熱も発生しない関係性など、バグ以下のゴミデータですわ!」
「あら、言うわね。……いいわ、なら教えてあげる。触れずとも、相手を狂わせる極上の本能(魔法)の恐ろしさをね」
バチバチバチッ!!
エンリの頭上で、ジュリの『ドス黒い物理のオーラ』と、リリスの『真紅の魔法のオーラ』が再び激突する。
(……誰か、この理不尽なエラーを修正してくれ……)
物理で押し潰してくる有能秘書と、魔法で直接脳を揺さぶってくる吸血鬼の真祖。
ダンジョンのシステムを完全に支配するバグの王子様も、ベクトルが真逆な二人のヒロインによる『愛のDDoS攻撃』の前には、ただひたすらに限界まで処理落ちする(愛される)しかないのだった。




