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帰還のアンカーと、世界を揺らすバグの影

新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——崩壊した最下層の奥。


血と硝煙の匂いが立ち込める中、古海縁理フルミ・エンリは、執事レンフィールドが開いた『深層への扉』の前に立っていた。

扉の奥からは、これまでの階層とは全く異なる、凍てつくような冷気と濃密な魔力が流れ出してくる。


「……一応、デバッグ用のショートカット(アンカー)を置いておくか。あの監視ルームの惨状を見れば、この施設の物理的崩落も時間の問題だろうからな」


エンリは右手袋を外し、素手の指先で何もない空間をそっと撫でた。


「『虚空のヴォイド・ゲート』——固定アンカー


空間に目に見えない小さな波紋が広がり、すぐに消える。

これで、ダンジョンのシステム上に彼専用の『裏口』が作成された。パノプティコンの面倒な階層をすべてスキップし、いつでも地上からダイレクトにこの「深層の入り口」へアクセスできるようになったのだ。


「見事な空間把握能力です、バグの王子様。……我らが主(リリス様)も、首を長くして貴方のお越しをお待ちしておりますよ」

レンフィールドが恭しく一礼する。


「用が済んだら行く。だが、今はオーバーワークだ」


エンリはため息をつき、自身のボロボロになったシャツと、隣で目を輝かせている秤珠里ハカリ・ジュリを見た。

3Gの超重力と毒ガス、そして爆発の衝撃波を潜り抜けた二人の身体は、埃と汗と硝煙に塗れ、とてもこのまま未知の深層ラストダンジョンを探索できる状態ではなかった。


「……帰るぞ、ジュリ。まずはリソースの回復(お風呂と睡眠)だ」

「はいっ、王子様! どこまでも、地の底から愛の巣(自宅)まで、お供いたしますわ!」


エンリが左手袋で空中に円を描くと、そこには見慣れた自室(マンションの一室)の風景へと繋がるポータルが開いた。

二人がその中へ足を踏み入れ、ポータルが閉じた直後——パノプティコンの最下層は、自らの重みに耐えかねて完全に崩落し、永遠の瓦礫の下へと消えたのだった。


* * *


——現実世界、エンリの自室。


「……はぁ。やっと静かな場所に戻ってこれた」


見慣れたワンルームのマンションに戻ってきたエンリは、ソファにどっかと腰を下ろし、深く息を吐き出した。

ダンジョンの狂気的な空気から解放され、ようやく心拍数が本来の平常値に戻っていくのを感じる。


「お疲れ様です、王子様。すぐに冷たいお飲み物と、お着替えの準備を……」


ジュリが有能な秘書として動き出そうとした、その時だった。


ピピピッ! ピピピピピピピピッ!!!

ブブブブブッ!!


エンリのポケットに入っていたスマートフォンと、ジュリの白衣のポケットにあった予備の端末が、狂ったようなバイブレーションと通知音を同時に鳴らし始めたのだ。


「……なんだ? スパム攻撃か?」

エンリが顔をしかめながらスマホの画面を開く。


そこには、ニュースアプリの号外通知と、SNSのトレンドワードが滝のように流れていた。


『速報:新宿第4ダンジョンの中層エリアで、大規模な空間崩落ダンジョン・クエイクが発生!』

『謎の研究組織【パノプティコン】の施設が完全消滅か。ギルド連盟が緊急調査団を派遣』

『SNSで大炎上中! 崩落直前に施設内で観測された「黒いゲート」を使う謎の少年と、巨乳の秘書……彼らは何者!?』

『動画あり:ミノタウロスを指一本で自滅させる神業! 新たなSランク探索者の誕生か!?』


「……チッ。あの監視ルームの連中、自分たちがボコボコにされる映像を、外部のバックアップサーバーに垂れ流しにしたままだったのか」


エンリは自身の顔が(不鮮明ではあるが)ネット上のあちこちで拡散されているのを見て、舌打ちをした。

静かにデバッグを進めるつもりだったのに、これでは完全に有名人ターゲットだ。


「……素晴らしいですわ、王子様!」


しかし、隣で同じニュースを見ていたジュリの反応は真逆だった。

彼女はスマホの画面を食い入るように見つめ、頬を紅潮させて興奮している。


「ついに、世界が王子様の偉大さに気づき始めました! あの圧倒的な演算能力と冷徹なハッキングの美しさが、世の愚民どもにも知れ渡ったのです! ああ、なんという誇らしさ……っ!」


「喜んでる場合か。これ以上目立てば、ギルドや政府の連中が嗅ぎ回ってくる。面倒なノイズ(変数)が増えるだけだ」


エンリが頭を抱えていると、ジュリはふと、何かに気づいたようにピタリと動きを止めた。


「……待ってください。王子様の魅力が世界に知れ渡ったということは。……つまり、王子様に群がろうとする『雌豚バグ』たちが、指数関数的に増加するということでは……?」


ジュリの瞳の奥に、スゥッと冷たい、ドス黒い殺意の炎が灯る。


「許せません。王子様のリソース(時間、視線、体液)はすべて私の管理下にあるというのに。どこぞの馬の骨とも知れない女どもが、王子様にすり寄ってくるなど……物理的に排除デリートしなければ……」


「おい、物騒な思考にリソースを割くな。そもそも誰もすり寄ってこない」

エンリが呆れたようにツッコミを入れる。


だが、ジュリのドス黒いオーラは、次の瞬間にパッと明るく、どこか妖艶な色を帯びたものへと急変した。


「……いえ。焦る必要はありませんわね。だって、私には『絶対的な優位性』があるのですから」


ジュリが、ゆっくりとエンリの座るソファへと歩み寄ってくる。

その足取りは、いつもの有能な秘書のものではない。獲物を確実に追い詰める、肉食獣のそれだった。


「……なんだ、急に」

「ふふっ。王子様、先ほどの絶対密室での出来事……まさか、忘れたとは言わせませんわよ?」


ドンッ、と。

ジュリの両手が、エンリの頭の両サイド——ソファの背もたれを強く叩いた。完全な退路を断つ、いわゆる『壁ドン』ならぬ『ソファ・ドン』の体勢だ。


「……猛毒と超重力の死の淵で。王子様は私を助けるために、ご自身の肺から、私の肺へと……直接、愛の息吹(酸素)を注ぎ込んでくださいましたよね」


ジュリの顔が、エンリの鼻先数十センチの距離まで近づく。

彼女の口から零れる熱い吐息と、硝煙混じりの甘い香りが、エンリの脳を直接揺さぶってくる。


「……あれは、お前という補助ツールを失わないための、合理的な生存戦略(人工呼吸)だ。それ以上の意味はない」

エンリは死ぬ気でポーカーフェイスを維持し、視線を逸らそうとする。


「いいえ。唇と唇という粘膜を接触させ、互いの唾液と体内の気体を交換し合った。……これは生物学的に見ても、極めて高度な『性的な営み』であり、揺るぎない『既成事実』ですわ」


ジュリの豊満な胸が、エンリの胸板に押し付けられ、むにゅりと形を変える。


「あの極限状態でのキスを経て、私たちの関係性はすでに次のフェーズへと移行しました。もはや、無駄な距離感や羞恥心など、非効率の極みです。……ねえ、王子様?」


「……っ。な、何を言っている」


「ですから、合理的な提案です。これから私たちは身体の汚れを落とすためにバスルームへ向かいますが……もはや『別々に入浴する』という選択肢は、水道代とガスの無駄、そして何より『時間のロス』ですわ」


ジュリの瞳が、完全にエンリを捕らえて離さない。


「既成事実のある私たちなのですから、ここは一緒に入浴し、互いの肌を擦り合わせることで、最も効率的かつ合理的に汚れを落とすべきですわ! さあ、王子様! 私の愛の質量で、そのお身体を隅々までデバッグして差し上げます!!」


「ま、待て! お前のその理屈は物理的に破綻して——」


「問答無用ですわァァァッ!!」


バグの王子様の冷徹な論理は、既成事実キスという最強のバフを得た秘書の「愛の物理法則」の前に、あえなく粉砕された。

地上での平穏な休息は、パノプティコンの絶対密室よりもはるかに危険で、甘く熱い「お風呂(限界デバッグ)タイム」へと強制的に移行しようとしていた。

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