崩落する観測者と、真理のハッカー
新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——崩壊した監視ルーム。
「……がはっ、ぁ……! ぐ、ぅぅ……ッ!」
血と硝煙の匂いが立ち込める瓦礫の山の中で、統括責任者のミルグラムは、自らの下半身を押し潰している超硬度クォーツの破片を退けようと、血まみれの手でもがいていた。
かつて最新鋭の電子機器が並んでいたコンソール群は、すべて原型を留めない鉄屑と化している。
壁面を覆っていた巨大なメインモニターは爆発して火花を散らし、部屋のあちこちで小規模な火災が発生していた。
「ゼウ、ス……! パブロフ……! どこにいる、返事をしろ……ッ!」
ミルグラムが掠れた声で叫ぶが、返ってくるのは重傷を負って瓦礫に埋もれた部局長たちの弱々しい呻き声だけだった。
パノプティコンが誇る天才研究者たちは、自分たちが「絶対に安全な場所」から見下ろしていたはずの暴力のカウンターを顔面に浴びて、無様に這いつくばっている。
「あり得ない……。こんなことは、物理的にあり得ない……ッ!!」
ミルグラムは、脂汗に塗れた顔を歪めながら、部屋の中央にポッカリと開いた『空間の歪み(ポータルの残滓)』を睨みつけた。
「あの絶対密室を内側から破壊するなど……たとえ深層の規格外モンスターであろうと不可能だ! それを……たかが人間の、ただのイレギュラーな空間スキルごときで……どうやってこの監視ルームにまで……ッ!」
カツン、カツン……。
ミルグラムの絶叫を遮るように、静かな足音が煙の向こうから響いてきた。
監視ルームのひしゃげた自動扉が、何者かの手によって物理的に蹴り破られる。
「……簡単なことだ。君たちは、僕を閉じ込める『フラスコ』を、あまりにも頑丈に作りすぎた」
立ち込める硝煙を割って姿を現したのは、古海縁理だった。
彼のシャツは所々破れ、細かい傷を負ってはいるものの、その足取りは極めて冷静で揺るぎない。
そして彼の両腕には、気を失ったままの有能な秘書——秤珠里が、大切に抱き抱えられていた。
「き、貴様ァァァッ!!」
ミルグラムが血走った目でエンリを睨みつける。
「僕がやったのは、あの部屋の気圧をコンマゼロ秒でゼロに落としただけだ。……外側からの3Gの超重力と、内側からの真空。その凄まじい圧力差に、君たちの自慢の装甲ガラスは耐えきれずに自壊した」
エンリは瓦礫を踏み越え、ミルグラムを見下ろす位置に立った。
「そして、壁が砕け散った瞬間に発生する『爆発的な衝撃波とガラスの散弾』を、そのままポータルで君たちの足元へと繋いでやった。……なに、僕が手を下したわけじゃない。君たちをミンチにしたのは、君たち自身が用意した『箱庭の強度』そのものだ」
「ふざけるなァッ!!」
ミルグラムが激昂し、口から血の塊を吐き出した。
「私はッ! 我々パノプティコンは、ダンジョンの真理を解き明かすために選ばれた観測者だ! 極限のストレス下で人間が発現する『未知のバグ(奇跡)』を収集し、このふざけた世界の理を解明するための、崇高な研究機関だ!!」
ミルグラムは狂ったように腕を振り回し、エンリを指差した。
「それを貴様は……! 神聖なる実験を、ただの物理法則の悪用でことごとく冒涜した! 貴様は奇跡を起こしたわけではない、ただ盤面を荒らしただけの害悪だ!!」
「……奇跡、ね」
エンリはひどく冷酷な目で、眼鏡をクイと押し上げた。
「君たちが求めていたのは、そんなオカルトじみたものだったのか。……絶望的な状況下で人間が突然覚醒して、システムを凌駕するようなロマンを期待していたと?」
エンリは鼻で笑い、ミルグラムの足元に転がっていた『100トンの天井の破片』を靴の裏で蹴り飛ばした。
「この世界に、魔法や奇跡なんて存在しない。あるのは、徹頭徹尾、冷酷なまでに緻密に組まれた『物理演算』だけだ」
エンリの声が、絶対零度の冷たさを帯びて監視ルームに響く。
「君たちは人間を極限状態に追い込んで『変数』を引き出そうとしたが、観測者としてのレベルが低すぎる。質量、熱力学、気圧変動……目の前で起きている事象の数式を理解できないから、それを『奇跡』と呼んで思考停止しているだけだ」
「黙れ、黙れ黙れ黙れェッ!!」
「君たちは管理者なんかじゃない。他人の作ったゲームの仕様も理解できずに、ただデバッグルームでモルモットをいじめてはしゃいでいた、頭の悪いプレイヤーだ」
その冷徹な死刑宣告に、ミルグラムの瞳孔が限界まで見開かれた。
自身の崇高な目的、パノプティコンの存在意義。そのすべてを「ただの理解力不足」と切り捨てられた屈辱が、彼の精神を完全に崩壊させた。
「……レン、フィールド……ッ!!」
ミルグラムが、狂気に染まった声で叫んだ。
「殺せ! 今すぐそのバグを殺せェッ!! お前の力なら、その小賢しい手袋のスキルが発動する前に首を刎ねられるはずだ!!」
瓦礫の陰。
無傷で立っていた執事のレンフィールドが、ゆっくりと歩み出てきた。
その真紅の瞳は妖しく光り、彼の周囲の空間から『ダンジョン深層』特有の、濃密で禍々しい冷気が立ち上り始める。
「……フフッ。ああ、確かに。私の速度であれば、彼が演算を終える前にその心臓を穿つことは造作もない」
レンフィールドが、優雅な所作で右手に鋭い爪を伸ばす。
エンリは無言のまま、ジュリを抱えた腕に力を込め、ポータルの展開準備に入った。
だが。
レンフィールドの爪は、エンリではなく——足元で這いつくばるミルグラムの喉元へと、寸分違わず突きつけられた。
「な……レン、フィールド……? 貴様、何を……ッ!」
「滑稽だな、ミルグラム。これほどの『本物』を目の前にして、まだ自分が観測者の側にいると錯覚しているとは」
レンフィールドが、口布を外す。
そこには、鋭い牙と、人間離れした吸血鬼の狂笑が刻まれていた。
「私はお前のような三流の駒ではない。私が仕えるのは、深層の絶対者……リリス様ただ一人。我々は、この退屈な世界の理を本当に書き換えてくれる『真の特異点』を待っていたのだ」
「き、貴様ァ……最初から、我々を裏切って……!」
「裏切る? おこがましい。アリが観察日記をつけているのを、横で眺めて暇を潰してやっただけだ」
レンフィールドは冷たく吐き捨てると、爪を収め、エンリに向かって深々と、まるで王族に対するような最上級の敬礼(お辞儀)をした。
「見事なハッキングでした、バグの王子様。我らが主(リリス様)も、貴方のその冷徹な演算能力に、たいそう興味を惹かれておいでです」
レンフィールドが指を鳴らすと。
監視ルームの最奥、決して開くことのなかった分厚い隔壁が、重々しい音を立ててスライドし始めた。
その奥から吹き出してくるのは、これまでの階層とは比べ物にならない、凍てつくような『深層』の空気。
「さあ、この無価値な箱庭の残骸は放置して、先へお進みください。真の理が眠る、深淵の底へ」
エンリはレンフィールドの言葉に動じることなく、ただ無言でその「深層への扉」を見つめた。
パノプティコンという中ボス組織は、今ここで完全に崩壊した。
これより先は、真の世界のバグ——深層の吸血鬼が待つ未知の領域だ。
「……んんっ……。お、王子……様……?」
その時。
緊迫した空気の中で、エンリの腕の中にいたジュリが、ぱちりと目を覚ました。
「……気がついたか、ジュリ」
「あ……ああ! 私ったら、王子様の神聖なる腕の中で眠りこけてしまうなんて、秘書として一生の不覚……! ですが、この密着度、王子様の心音、そしてほのかに香る硝煙の匂い……! まさか、私をお姫様抱っこしながら敵の中枢を制圧してくださったのですか!?」
ジュリは瞬時に状況を(都合よく)理解し、エンリの首に腕を絡めて頬をスリスリと擦り寄せてきた。
「黙れ。お前が勝手に気絶して、勝手に僕の服を掴んで離さなかっただけだ」
「ふふっ♡ 照れ隠しすら愛おしいですわ。……で、そこの瓦礫の下で血を吐いているのが、私たちに三流のゲームを仕掛けた愚か者ですね?」
ジュリが冷ややかな視線でミルグラムを見下ろす。
ミルグラムはもはや言葉を発することすらできず、ただ絶望と屈辱の中で泡を吹いて気絶していた。
「……行くぞ、ジュリ。こんなゴミ溜めに長居する理由はない」
「はいっ、王子様! どこまでも、地の底の果てまでも、私の愛の質量で貴方をお守りいたしますわ!!」
エンリはジュリを抱えたまま(降ろそうとしたが異常な力でしがみつかれたため諦めた)、レンフィールドが示した深層への扉へと足を踏み入れた。
バグの王子様と、重すぎる愛の秘書。
パノプティコンの完璧な箱庭を物理で粉砕した二人の歩みは止まらない。
真の物理エンジンが眠るダンジョンの最深部へ向けて、ハッカーたちの新たな蹂躙が始まろうとしていた。




