0.1秒の空白(バキューム)と、逆流する暴威
新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——最下層『絶対密室』。
「『虚空の門』——絶対減圧」
古海縁理が指を鳴らした瞬間。
密室の床に、直径2メートルほどの巨大なポータル(入口)が開いた。繋がった先は、気圧が完全にゼロである大気圏外——【宇宙空間】。
シュボォォォォォォォッ!!!
密室内に充満していた高圧のパラライズ・ガスと空気が、凄まじい轟音と共に、一瞬にしてポータルへと吸い込まれた。
部屋の中の気圧が、文字通りコンマ数秒で『真空』へと叩き落とされる。
「……ッ!!」
エンリの全身の血管が急激な気圧低下によって悲鳴を上げ、鼓膜が内側から破れそうになる。
本来であれば、この瞬間に体液が沸騰し、細胞が破裂して死に至るはずだった。
だが、エンリの顔面と身体は、秤珠里の圧倒的な質量によって完全に密閉されていた。
先ほどの『究極の酸素供給』によって限界突破を果たしたジュリの腕力は、3Gの超重力すらも上回る凄まじい力でエンリをホールドし、簡易的な「加圧スーツ」の役割を完璧に果たしていたのだ。
(……保てよ。狙うのは、気圧差によってこの箱庭が自壊する『0.1秒』のタイミングだ……!)
エンリの計算通り、その瞬間はすぐに訪れた。
メキィィィッ……!! ピシッ、パァァァンッ!!!
外側は3Gの重力と施設の通常気圧。内側は完全な真空。
その絶対的な圧力差に、パノプティコンが「決して破壊不可能」と豪語していた超硬度ダンジョン・クォーツの壁が耐えられるはずもなかった。
壁という壁が、内側(真空)に向かって一気に拉げ、大爆発を起こしたのだ。
「……ここだ!!」
エンリは壁が砕け散ったその『0.01秒後』、即座に右手袋の座標(出口)を宇宙空間から別の場所へと切り替えた。
壁が破壊されたことで、部屋にかけられていた「空間ジャミング」の装置も同時に粉砕された。
つまり、エンリのポータルは今、この施設の『どこにでも』繋ぐことができる状態に戻ったのだ。
四方から、砕け散った数トンのガラスの破片と、外の施設の空気が、真空の中心にいるエンリたちに向かって凄まじい衝撃波となって殺到してくる。
エンリはジュリを抱きしめたまま、自分たちをドーム状に覆い隠すように、巨大なポータルの『入口』を展開した。
そして、その『出口』を繋いだのは——。
* * *
——同時刻、遥か上層の監視ルーム。
「……な、何が起きた!? なぜコアの映像が途絶えた!」
ミルグラムがコンソールを叩きながら絶叫する。
「わ、分かりません! コアの気圧データが突如としてゼロになり……直後、隔壁の耐久値が完全崩壊しました!」
【空間構造部局長】のゼウスが信じられないものを見るようにモニターを凝視する。
「馬鹿な! あの密室を内側から破壊するなど、物理的にあり得な——」
ミルグラムが叫んだ、その言葉の途中で。
監視ルームの彼らの目の前の空間が、陽炎のように歪んだ。
「……なんだ、これは?」
空中に、直径数メートルの『ポータル(出口)』が開いたのだ。
その向こう側から飛び出してきたのは——最下層の密室が真空崩壊したことで発生した、数トンにも及ぶ超硬度クォーツの破片と、音速を超える『爆発的な空気の衝撃波』だった。
「——え?」
ミルグラムが間抜けな声を漏らした瞬間。
ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
最下層でエンリたちをミンチにするはずだった「減圧爆発のエネルギーと質量」が、ポータルを通じて、監視ルームのど真ん中へとダイレクトに射出された。
「ギャアアアアッ!?」
「ぐあああっ!?」
パブロフやゼウスといった部局長たちが、凄まじい暴風とガラスの散弾を浴びて吹き飛ばされ、壁に激突して血を吐く。
最新鋭のコンソールは紙くずのように粉砕され、メインモニターが火花を散らして爆発した。
「が、はっ……! ぁ……っ!」
統括責任者のミルグラムもまた、自らが「絶対に壊れない」と自負していたクォーツの破片に全身を切り裂かれ、瓦礫の下敷きとなって無様に床を這いつくばっていた。
彼らの神聖なる観測室は、たった一瞬で、血と硝煙が立ち込める地獄絵図へと変貌したのだ。
「……あーあ。見事に吹き飛んだねぇ、ミルグラム」
瓦礫の山の中で、無傷で立っていたのは、執事のレンフィールドただ一人。
彼は崩落する天井の破片を片手で軽く弾き落としながら、真紅の瞳を細めて愉悦の笑みを浮かべていた。
「真空による密室の破壊と、その崩壊エネルギーの転用。……ハッ、まさに神業だ。あの少年、やはり最高じゃないか」
* * *
——一方、完全に破壊し尽くされ、瓦礫の山となった最下層エリア。
新鮮な空気が流れ込み、重力異常も解除されたその場所で。
エンリはポータルを静かに閉じ、荒い息を吐きながら立ち上がった。
「……計算通りだ。やはり、君のその『無駄な質量と密着』は、最強の加圧スーツとして機能したな、ジュリ」
エンリの腕の中には、気絶しながらもエンリの服を絶対に離すまいと握りしめているジュリの姿があった。
全身の筋肉が軋み、鼓膜の奥が痛むが、致命傷はない。酸素供給による限界突破がなければ、耐えきれなかったかもしれない。
毒ガスも、超重力も、絶対の密室も。
すべては冷徹な物理法則と、有能すぎる秘書の「愛の質量」の前に完全にハッキングされ、監視者たちへの致命的なカウンターとして還元されたのだ。
「……さあ。デバッグは完了した。あとは、管理者の本体を消去しに行こうか」
バグの王子様は、気を失った秘書を優しく抱き抱え直すと、崩壊した箱庭の瓦礫を踏み越え、静かに歩き出した。
パノプティコンの傲慢な研究者たちに、真の絶望を叩きつけるために。




