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猛毒の檻と、極限の人工呼吸

新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——最下層『絶対密室パノプティコン・コア』。


シューーーーッ……。


四方を黒光りするダンジョン・クォーツに囲まれた密室に、不気味な噴射音が響き渡る。

天井の四隅に設けられた極小のノズルから、紫色の気体——吸い込めば数分で神経伝達を遮断し、肺を腐らせる猛毒の『パラライズ・ガス』が吐き出されていた。


「……王子様! 呼吸を浅く! 絶対に深く吸い込んではいけません!」


秤珠里ハカリ・ジュリが即座に白衣の袖で口元を覆いながら、古海縁理フルミ・エンリの前に立ち塞がった。


「ああ。分かっている」


エンリは冷静にガスの充満速度を計算する。

換気扇はおろか、扉の隙間すら存在しない完全な閉鎖系。このままガスが噴出し続ければ、5分後にはこの部屋の酸素濃度は致死ラインを下回る。


(……だが、ただの毒ガス処刑なら、わざわざこんな馬鹿みたいに分厚く強固な部屋を用意する必要はないはずだ。ミルグラムのことだ、まだ何か『物理的な暴力』を隠して——)


エンリの思考がそこに至った、その瞬間。


ズゥゥゥゥウンッ!!!


突如として、部屋全体の空間が激しく歪み、目に見えない巨大な「鉄の塊」が上から押し潰してきたかのような錯覚に襲われた。


「なっ……!?」

「くっ……! 王子様ッ!」


エンリとジュリの身体が、強制的に冷たい床へと叩きつけられる。

指先一本動かすのすら困難な、尋常ではない負荷。局所的な重力異常だ。


「……なるほど。通常空間の、およそ3倍の重力(3G)か」

エンリは床に這いつくばりながら、ギリリと奥歯を噛み締めた。


ただでさえ毒ガスで呼吸が苦しい状況下において、この超重力は致命的だ。肺が自らの肋骨の重さで圧迫され、酸素を取り込むことすらままならなくなる。

さらに、重力によって紫色のガスが床付近——つまり倒れ伏した二人の顔の高さに急速に滞留し始めていた。


「……フッ。毒ガスに超重力。観測者デバッガーを気取っていた連中も、ついに思考を放棄したらしいな。ただの殺戮装置クソゲーじゃないか」


エンリが嘲笑した、その時だった。


「……ご安心ください、王子様。この程度の物理的暴力……私の愛の質量に比べれば、羽毛のように軽いものですわ!」


超重力に押さえつけられていたはずのジュリが、気合いと意地(と異常な執念)だけで腕立て伏せのように身体を持ち上げ、エンリの上に覆い被さってきたのだ。


「お、おい! 何をしているジュリ! 動けば余計に酸素を消費するぞ!」


「合理的なサバイバル戦術ですわ! 現在、ガスは重力によって床から50センチの層に最も濃く滞留しています! ですから、王子様は私の下敷きになり、私が上から覆い被さることでガスの直撃を防ぎます!」

「理屈は分かるが、重い! 3Gの環境下でお前の体重が乗ったら、僕の肋骨が——」


「そして、最も重要なのはここからです!」


ジュリは自らのブラウスの胸元を大きく引きはだけさせると、その圧倒的な質量の双丘を、床に倒れるエンリの顔面へと躊躇いなく押し付けた。


「むぐっ!?」

「私の胸の谷間フィルターを通して呼吸をしてくださいませ! 密着した肌の水分と、衣服の繊維が簡易的なガスマスクの役割を果たし、毒の微粒子を吸着します! さあ、遠慮なく私の胸の奥深くに顔を埋め、命の息吹(酸素)を貪ってください!!」


「んぐ、むぅぅぅッ!!(ふざけるな、窒息させる気か!!)」


エンリは抗議の声を上げようとしたが、見事なまでに顔面を柔らかな質量にホールドされ、くぐもった音しか出せない。

3倍の重力によってジュリの体重と胸の圧迫感はさらに増し、エンリの心拍数はまたしても物理的な限界(ラブコメ的デスマーチ)を迎えようとしていた。


* * *


——同時刻、監視ルーム。


「……クックック。あーっはっはっはっ!! 見ろ! あのバグどもが、無様に床を這いずり回っているぞ!!」


メインモニターに映し出された絶望的な光景を見て、ミルグラムは血まみれの手を叩いて狂喜していた。

メインシステムの30%はジュリのウイルスによってダウンしたままだが、この『絶対密室』の物理制御だけは彼の手元に残されている。


「どうした、自慢のポータルで逃げてみろ! だが、その部屋のクォーツは空間座標そのものを固定する特別製だ! 部屋の外に『出口』を開くことは絶対に不可能!」


「ミ、ミルグラム様! 被検体のバイタルデータが取れません! これでは彼らが死ぬ瞬間に発現するかもしれないルートコードの記録が……!」

パブロフが叫ぶが、ミルグラムは完全に聞く耳を持たなかった。


「構わんと言っている! 私の箱庭を汚したゴミは、物理的に消し去る! さあ、もっとだ! 重力を4Gまで引き上げろ! 肺をペチャンコにすり潰してやれェッ!!」


狂乱するミルグラムの背後。

執事のレンフィールドは、薄暗い部屋の隅で、モニターに映るエンリの『瞳』をじっと観察していた。


(……滑稽なのはお前の方だぞ、ミルグラム。気づいていないのか? あの少年は……3Gの重力下で女に組み敷かれながらも、その視線は微塵も絶望などしていないということに)


レンフィールドの真紅の瞳が、歓喜に細められる。

モニター越しのエンリの目は、死の恐怖ではなく——完璧な冷徹さをもって、部屋の壁の『厚さ』とガスの『充満速度(気圧上昇)』を測っていた。


(あのバグは、まだ何かを企んでいる。……この絶対の密室を破る、特大の奇跡を。……ああ、素晴らしい。実に素晴らしいぞ、特異点の少年よ!)


* * *


——『絶対密室』内部。


(……ジュリの言う通り、このクッション(胸)のおかげでガスの直接吸引は防げている。だが……)


エンリはジュリの胸に顔を埋めたまま、冷酷な物理演算を走らせていた。

監視ルームのミルグラムは「部屋の外に出口を開くことは不可能」だと高を括っている。確かに、このクォーツの壁は空間転移を阻害するジャミングを発しているため、壁の向こう側(施設の別の部屋)にポータルを繋ぐことはできない。


(……だが、僕のゲートが繋げるのは『このダンジョンの中』だけじゃない)


エンリは、ジュリに抱きしめられながら、右手袋の指先をわずかに動かした。

照準を合わせるのは、空間ジャミングの届かない遥か遠く——ダンジョンの外。

地球を取り巻く大気圏すら突破した、気圧がゼロに等しい【成層圏外(宇宙空間)】の座標だ。


(ボイル=シャルルの法則。部屋の中は今、毒ガスが絶え間なく噴射され続け、異常な『高気圧』状態になっている。そして、部屋の壁は3Gの重力にも耐えうる最強の装甲ガラス)


エンリは、左手袋をそっと床に押し当てた。

この手袋が『入口』のアンカーとなる。


(もし、このパンパンに膨れ上がった高圧の密室の中に、突如として『宇宙空間(真空)』への穴が開いたらどうなる? ……空気が一瞬で吸い出され、部屋の中の気圧はコンマゼロ秒で限りなくゼロに近づく)


その時、最強の強度を誇るこの部屋の装甲ガラスは、どうなるか。


(外側からの圧力(3G)と、内側からの圧力(真空)の凄まじいギャップ……。どんな超硬度クォーツだろうと、内側へと一気に拉げ、自らの強度に耐えきれずに【大爆発】を起こす)


逃げ場のない最強の密室だからこそ、気圧の落差によって部屋全体が自壊する。

それこそが、エンリが構築した最強の物理ハック『減圧爆発インプロージョン』の全貌だった。


「……ゲホッ、……っ、はぁ、はぁ……」


その時。

エンリを上から庇っていたジュリが、苦しげな咳を漏らした。

彼女の顔は蒼白になり、額には脂汗が浮かんでいる。エンリに綺麗な空気を送るため、彼女自身が毒ガスの層で浅い呼吸を続けていた代償だ。


「……ジュリ!」

「……問題、ありませんわ。王子様……。私の……バイタルは、まだ……」


強がるジュリの瞳の焦点が、限界を告げるように揺れている。

3Gの重力と猛毒が、確実に彼女の有能な身体を蝕んでいた。

ジュリの腕の力が抜けかけ、エンリを覆っていた「密閉」が解けそうになる。

このままでは、エンリの顔に直接パラライズ・ガスが流れ込んでくる。そして何より、これから引き起こす『真空状態』を乗り切るためには、ジュリの肉体による強固なホールド(クッション)が絶対に不可欠だった。


(……くそっ! 僕のデバッグが完了する前に、こいつの肺がもたない!)


「ジュリ、口を開けろ」


「……え?」


エンリは自らの顔をジュリの胸の谷間から引き抜くと、朦朧とする彼女の後頭部を右手で強く引き寄せた。

そして、ジュリの胸をフィルターにして吸い込んでいた「綺麗な空気(酸素)」を肺いっぱいに溜め込み——そのまま、ジュリの唇を自らの唇で完全に塞いだ。


「——んんっ!?」


それは、極限状態における純粋な『循環呼吸(人工呼吸)』。

エンリの肺から、ジュリの肺へと、命を繋ぐための酸素が直接送り込まれる。


(……頼む、これで保ってくれ。お前という有能なツールをここで失うわけにはいかないんだ)


エンリは酸素を送り込みながら、ジュリの背中を強く抱きしめた。

……その、直後だった。


ドクンッ!! ドクンッ!! ドクンッ!!!


エンリと密着しているジュリの心臓が、まるでエンジンにニトロをぶち込まれたかのように、狂ったような速度と力強さで脈打ち始めたのだ。


(っ!? なんだ、この異常な心拍数は!?)


唇を離したエンリの目の前には。

先ほどまでの蒼白な死に顔が嘘のように、頬を真っ赤に染め、瞳に爛々とした狂気のハイライトを宿したジュリの姿があった。


「あ……あああ……っ! 王子様からの、直接の酸素供給キス……ッ!!」


ジュリはガクガクと震えながら、歓喜の涙をボロボロとこぼした。


「猛毒と3Gの超重力という死の淵で交わされる、究極の熱交換……! 王子様の細胞を通した空気が、私の肺の隅々にまで浸透していくのが分かります! ああ、なんという至福! 死にかけていた細胞が、王子様への愛で120%の限界突破オーバークロックを果たしましたわァァァッ!!」


「……うるさい。せっかく与えた酸素を無駄口で消費するな」


エンリは真っ赤になった耳を誤魔化すように顔を背けながら、再びジュリの腰を強く抱き寄せた。

だが、効果は絶大だった。ジュリの腕は先ほどよりもさらに力強く、万力のような力でエンリをホールドしている。


「……息を止めろ、ジュリ。そして、全力で僕にしがみついていろ。……ここから0.1秒間だけ、君のその『クッション』が僕たちの命綱になる」

「はいっ!! この命に代えても、王子様を私の胸で守り抜いてみせますわ!!」


(……いくぞ。ミルグラム。お前のふざけたルールを、底からひっくり返してやる)


バグの王子様が、指を鳴らした。


「『虚空のヴォイド・ゲート』——絶対減圧アブソリュート・バキューム


瞬間。

密室の床に、宇宙空間(真空)へと繋がる巨大なポータルが開く。

パノプティコンの狂信者たちが絶対の自信を持っていた箱庭が、理不尽なまでの『物理の暴力』によって跡形もなく粉砕される時が、ついに訪れた。

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