アナログな殺意と、重力の再会
新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場。
今、この最先端の研究施設は、前代未聞の「手動による綱引き」という泥沼の様相を呈していた。
「……しつこいですわね。私の王子様への合流経路を、物理回路で遮断するとは」
隔離ブロックで、秤珠里は不機嫌そうに舌打ちをした。
彼女の放った『愛のポエム(ウイルス)』によってメインシステムは機能不全に陥ったが、敵の管理者が電子制御を放棄し、手動で隔壁のロックを下ろし始めたのだ。
目の前の分厚い装甲扉は、開こうとしてはガシャンと閉まり、電子と物理の命令が衝突して激しく明滅している。
「ですが、甘いですわ。電子の海を封じられようと、私の愛の推進力は止まりません。……0.5秒。隔壁のシステムが再起動をかける際のラグ。その隙間さえあれば十分!」
ジュリは自身のタイトな秘書服のスカートの裾を大胆に破り捨てて脚の可動域を広げると、扉が狂ったように一瞬だけ「開」のサインを出した瞬間に、床を滑るようにして(スライディングで)装甲扉の下をくぐり抜けた。
「……待っていてくださいませ、王子様。今すぐ、私の胸という名の絶対安全圏へとお迎えに上がりますわ」
有能すぎる秘書は、一切の躊躇なく、狂い始めた迷宮を主の元へとひた走る。
* * *
——一方、エンリの歩く回廊。
(……そろそろ、ミルグラムも痺れを切らす頃合いか)
古海縁理が回廊の角を曲がった、その瞬間だった。
ゴウンッ!! と、遥か頭上から重々しい機械音が響いた。
見上げれば、前方の緩やかな斜面になっている回廊の上部から、直径3メートルはあろうかという「巨大な鉄球」が、凄まじい地響きを立てて転がってきたのだ。
「……はぁ。システムを奪われたからといって、インディ・ジョーンズのような古典的な罠を持ち出してくるとは。パノプティコンの知性も底が知れるな」
エンリは立ち止まり、呆れたようにため息をついた。
数十トンの鉄球が、回廊の壁を削りながら猛スピードで迫り来る。
(逃げ場のない一本道。手動の物理トラップなら、ジュリのハッキングも介入できない……という理屈だろうが)
「重力と質量に頼るなら、そのベクトルをハッキングされるリスクを計算しておくべきだ」
エンリは右手袋の指先を、迫り来る鉄球の正面へと向けた。
『相対的慣性保存 (ローオブイナーシア)』。
鉄球の目前に巨大なポータル(入口)を展開し、その出口を——「自分自身の遥か後方の天井」へと繋ぐ。
ズボォォォンッ!!
エンリを押し潰すはずだった鉄球はポータルに吸い込まれ、エンリの頭上を飛び越えて後方へと射出された。
そのまま鉄球は、エンリが今まで歩いてきた回廊を「逆走」していく。
ドドドドドォォォォンッ!!
後方から、パノプティコンの手動トラップや隔壁が、自らの放った鉄球によって次々と粉砕されていく無残な音が響き渡った。
「……さて。散らかしたおもちゃの片付けは頼むぞ、観察者気取りの三流ども」
エンリは背後の惨状を振り返ることもなく、再び悠然と歩き出した。
* * *
「おのれ……ッ! おのれぇぇぇッ!!」
監視ルームで、ミルグラムは自身の髪を掻きむしりながら絶叫していた。
彼が手動で起動させた物理トラップは、ことごとくエンリのポータルによって「施設の破壊」へと逆利用されていた。
「もはや観測など不可能だ! あのバグは、私の盤面を理解しようとすらしない!」
ミルグラムの瞳に、かつての冷徹な研究者の面影はない。
あるのは、理解不能な存在に対する恐怖と、自身の完璧な箱庭を蹂躙された怒りだけだった。
「ゼウス! パブロフ! あの少年が立っているエリアの『底』を抜け! 『絶対密室』の廃棄シュートを開くんだ!!」
「ミ、ミルグラム様! 正気ですか! あそこは毒ガスと局所重力で、すべてをミンチにするだけの廃棄ブロックです! 貴重な被検体が——」
「構わん!! 殺せ! 今すぐあの不愉快な目を私のモニターから消し去れェッ!!」
ミルグラムの怒号が響き渡る。
オペレーターが震える手で、廃棄シュートの物理レバーに手をかけた。
「……隔離ブロックDの、あの生意気な秘書の女はどうしますか!?」
オペレーターが叫ぶ。
「放置しろ! どうせシステムが落ちれば、あのブロックもやがて酸欠になる。……まずは、あの憎き少年からだ!」
ミルグラムがエンリの単独処刑を命じた、その時。
彼の背後に立っていた執事・レンフィールドが、誰の目にも止まらぬ神業的な速度で、コンソールの『隔離ブロックDの底面ハッチ』のスイッチを弾いた。
(……フフッ。孤独な死など、あの方(リリス様)が望むはずもない。あの女狐が隣にいてこそ、あの少年は真の絶望を吐き出すのだからな)
カコンッ。
微かなスイッチ音は、ミルグラムの怒声にかき消されて誰の耳にも届かなかった。
「落とせェッ!!」
ミルグラムの号令と共に、メインレバーが引き下ろされる。
* * *
——同時刻。
「……ん?」
エンリの足元の床が、前触れもなくパージされた。
何百トンもの荷重に耐えるはずの回廊の床が、まるで落とし穴のように『消失』したのだ。
「……なるほど。ついにゴミ箱へご案内というわけか」
エンリは落下する空中で、一切の動揺を見せずに体勢を整えようとした。
ポータルを使って空中の座標を固定しようと指を動かした、その瞬間。
「王子様ァァァァァッ!!」
上空から、聞き慣れた(そして暑苦しい)悲鳴が響いた。
「っ!? ジュリ!?」
見上げれば、エンリの落下地点の真上から、ジュリが両腕を大きく広げてダイブしてきていた。
レンフィールドの細工により、彼女のブロックの床も同時に開かれ、同じ廃棄シュートへと落とされたのだ。
「ああ、なんという運命! 敵の罠すらも、私たちを一つにするための舞台装置に過ぎなかったのですね! さあ、私の胸に飛び込んでくださいませ王子様ァッ!!」
「飛び込んでるのはお前だろうが!!」
重力に従って落下する暗闇の中で、ジュリはエンリの身体に強烈な勢いでしがみついた。
柔らかな質量の衝撃。そして、離れ離れになっていた間に彼女の体内で蓄積されていた「王子様成分不足」を一気に解消するかのような、万力のような抱擁。
「……っ、おい、離れろ! このまま落ちれば二人ともミンチになるぞ!」
「問題ありませんわ! 私が下敷きになれば、王子様の生存確率は飛躍的に——」
「黙れ! 僕のデバッグの邪魔をするな!」
エンリはジュリの身体を抱き抱え返す形で体勢を反転させると、迫り来る「底」に向けてポータルを連続で展開し、落下の運動エネルギーを相殺させた。
トンッ……。
二人の身体は、無重力のようにふわりと、底知れぬ暗黒の部屋の床へと着地した。
「……着地成功。さすがは私の王子様ですわ♡」
「お前が飛びついてこなければ、もっとスマートに着地できた」
エンリはジュリを引き剥がし、眼鏡をクイと押し上げて周囲を見渡した。
広さはテニスコートほど。
四方を囲む壁は、これまでの装甲ガラスよりもさらに分厚く、禍々しい黒光りを放つ特殊なクォーツで完全に密閉されている。
継ぎ目一つ、通気口一つ存在しない、完全無欠の空間。
「……王子様。ここは……」
ジュリがタブレットの再起動を試みるが、画面は真っ暗なままだ。
「ああ。どうやらここが、パノプティコンの最下層(ゴミ捨て場)。……一切の干渉を許さない、『絶対密室』らしい」
エンリは漆黒の壁に触れ、冷たく笑った。
シューーーーッ……。
どこからともなく、部屋の中に紫色の気体が噴出し始める。
パラライズ・ガス。吸い込めば数分で肺機能が停止する、死の気体。
「……完璧なフラスコだ。ここでなら、僕の最高傑作を試すことができる」
パノプティコンの最悪の密室は、バグの王子様にとって、最強のハックを完成させるための「理想の実験室」に過ぎない。
いよいよ、この長かったゲームに終止符を打つ、『減圧爆発』への準備が整った。




