完璧な秘書の証明と、崩れゆく美学
新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——メインサーバー電脳空間。
『くそっ、くそっ、くそぉぉぉッ!! なんで消えないのよ、このゴミデータ(愛のポエム)!!』
広大な電子の海の中で、AIホログラムの【ルーシー】は半狂乱になっていた。
彼女が防壁のパッチを当てる端から、異常な文字列がシステムを食い破り、無限に自己増殖を繰り返していく。
『……[王子様の体温上昇に伴う発汗の美しさについて。ファイル容量:10TB]……』
『……[王子様が私を冷たくあしらう際の、眼輪筋の僅かな収縮パターンの解析。ファイル容量:50TB]……』
圧倒的なまでに偏執的で、狂気すら孕んだ「愛の記録」。
ただのテキストデータのはずなのに、そこには秤珠里の執念が物理的な重さを持って宿り、パノプティコンの論理演算を完全にパンクさせていた。
「——無駄な抵抗ですわね、三流AI」
突如、電子空間にノイズが走り、ジュリの冷ややかな声が響き渡った。
『っ!? あんた、どうやってここまで……!』
「言ったはずです。貴女のシステムには、すでに私がバックドアを仕掛けていたと。……貴女は一つ、致命的な勘違いをしていましたのよ」
隔離ブロックで腕時計型デバイスを操作するジュリの声が、システム全体を掌握した絶対者の響きを帯びる。
「貴女は自らを『システムと直結した完璧な存在』だと自負していた。0と1のデジタル信号ですべてを制御できると。……ですが、私の王子様への愛(変数)は無限大。0と1だけで計算できるような、底の浅いアルゴリズムではありませんの」
『ひ、ヒィッ……! やめろ、私のコアに直接アクセスしないで……!』
「秘書というのは、ただ情報を処理するだけの機械ではありません。主の心拍音から体調を察し、視線の先から欲望を先読みし、そして……主を害するあらゆる障害を、物理的かつ論理的に『排除』する者のことを言うのです」
ジュリの冷酷な宣告と共に、パノプティコンの電脳空間を構築していたルーシーのアバターが、足元からパラパラとノイズに変わって崩壊し始めた。
『あ、あああ……っ! リリス様、申し訳、ありませ……っ!!』
「完璧な秘書は、この世界に私ただ一人。……二度と、私の王子様にその安っぽい光をチラつかせないことですわね」
パキンッ!!
ガラスが砕け散るような音と共に、ルーシーの存在はシステムから完全にデリートされた。
ジュリは施設内の全監視カメラと隔壁のサブコントロールを完全に掌握し、ふう、と満足げに息を吐いた。
「……お待たせいたしました、王子様。これで貴方の視界を遮る目障りなハエはすべて片付きましたわ。さあ、今すぐ隔壁を開けて、勝利の熱交換を……」
ジュリがコンソールを操作しようとした、その瞬間だった。
彼女の掌握したはずのサブコントロール画面に、強烈な赤いノイズが走り、操作が強制的に弾かれた。
「……おや?」
* * *
——同時刻、監視ルーム。
「……信じられん。メインシステムの30%がダウン……。ルーシー君の反応が完全に消失しただと……!?」
【空間構造部局長】のゼウスが、真っ赤なエラー画面を見つめて呆然と呟いた。
ダンジョンの真理を解き明かすための、絶対的な観測施設。その中枢が、たった一人の「重すぎる愛を持った秘書」によって完全に蹂躙されたのだ。
「監視カメラの制御権も奪われました! 今、我々が見ている映像は、あの女が意図的に流している『ダミー映像』の可能性が……!」
オペレーターの悲鳴に近い報告が響く。
パキンッ。
鋭い破砕音が、監視ルームの静寂を切り裂いた。
統括責任者のミルグラムが、手にしていたワイングラスを、無意識のうちに握り潰していたのだ。
赤ワインと血が混ざり合い、彼の手からポタポタと床に滴り落ちている。
「……不愉快だ」
ミルグラムの顔から、先ほどまでの「観察者としての余裕」と「狂信的な美学」が完全に消え失せていた。
そこにあるのは、自らの完璧な計算を台無しにされた、生々しい怒り。
「物理的な質量も、環境変数も、そして電脳空間すらも……。あの少年とその秘書は、ことごとく私の『神聖なる実験』を冒涜した。……ゼウス。パブロフ。施設のメイン制御(マスター権限)を直ちに物理回路へ切り替えろ」
「ミ、ミルグラム様! それでは施設の自動観測データが取れなくなります!」
「構わん。あの女に奪われたサブシステムなど切り捨てろ。私が直接、手動で盤面を操作する」
ミルグラムは血まみれの手で、メインコンソールのオーバーライド・キーを力任せに引き下げた。
これ以上のハッキングを防ぐため、電子的な繋がりを物理的に遮断し、施設の一部機能を無理やり手動制御に切り替えたのだ。
監視ルームが恐怖に凍りつく中。
ミルグラムの背後に立つ執事、【レンフィールド】だけが、誰にも見えない角度で口角を吊り上げていた。
(……クックック。滑稽だな、ミルグラム。絶対の支配者であり、観測者を気取っていたお前が、たった二人の人間にここまで翻弄され、我を忘れるとは)
レンフィールドの真紅の瞳が、狂信的な光を帯びて妖しく輝く。
(それほどの絶望を引き起こす存在。……あの少年、やはりただの人間ではない。リリス様が探し求めていた『真の特異点』……! フフッ、観察のしがいがあるというものだ)
* * *
——一方、隔離された回廊を歩くエンリ。
ウィィン……ウィィン……。
エンリの周囲の監視カメラが、まるで彼をエスコートするように、進行方向に向かって首を振っている。ジュリがシステムを掌握した証拠だ。
「……システムは完全に制圧したようだな。相変わらず、無茶苦茶な女だ」
エンリが微かに口元を緩めた、その直後だった。
ガシャンッ!! と、エンリの目の前の扉が突然閉ざされた。
かと思えば、数秒後にはギギギ……と不自然な音を立てて再び開き始める。
天井からは突如として毒ガスのノズルが顔を出したが、ガスを噴射する前にガコンッと引っ込んだ。
「……なるほど」
エンリは、狂ったように開閉を繰り返す扉や、出たり入ったりするトラップ群を眺めながら、状況を正確に把握した。
「ジュリのハッキングに対して、パノプティコンの管理者が手動で抵抗しているのか。電子と物理の綱引き状態……実に滑稽な光景だ」
強固な防壁を誇ったはずの研究施設が、今や一人の秘書と、意地になった管理者による「スイッチの奪い合い」の場と化している。
エンリは狂ったように明滅する回廊の照明の下を、一切の動揺を見せずに悠然と歩き続けた。
そして、すれ違う分厚い装甲ガラスの壁にそっと触れては、極小のポータルで「局所的な水圧テスト」を繰り返していく。
(……いいぞ。ジュリがシステムの制御権を巡って暴れてくれているおかげで、こちらの物理的なデバッグ(準備)が完全に隠蔽されている。ミルグラム、お前は今、システムを取り返すことに必死で、足元の『強度』を測られていることに気づいていない)
盤面は混沌を極めていた。
狂い始めた施設の奥深くで、バグの王子様は冷徹に『完全破壊』への数式を組み上げていく。
絶対密室という最悪の舞台へ彼らが足を踏み入れるまで、あと僅か。




