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侵食する恋文(ウイルス)と、監視者の焦燥

新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——監視ルーム。


「……どういうことだ。隔離ブロックDの監視カメラが、すべてオフラインになっただと?」


統括責任者のミルグラムが、微かに苛立ちを滲ませた声で問い詰めた。

先ほどまで彼らは、分断されたジュリが自動防衛タレットによって蜂の巣にされる様を、極上のワインと共に鑑賞するつもりだったのだ。


だが、モニターに映し出されていたのは、一瞬のノイズの後、完全に暗転したブラックアウトの画面のみ。


「る、ルーシー君のメインフレームからの応答がありません! 隔離ブロックとの接続が完全に絶たれました!」

オペレーターが血相を変えて叫ぶ。


「馬鹿な。あの部屋のネットワークは外部から物理的に遮断されている。あの女が持っていたタブレットは電波妨害で無力化しているはずだ!」

【空間構造部局長】のゼウスがコンソールを叩きながら怒鳴った。


その時だった。

監視ルームの巨大なメインモニターの画面が、突如として真っ赤な警告色アラートに染まった。


『——警告。メインシステム第2層、不正アクセスを検知。ファイアウォール、突破されました』


「なっ……!? メインシステムだと!? 隔離ブロックから逆流してきたというのか!」

ゼウスが驚愕に目を見開く。


「す、すぐにウイルスのコードを解析して迎撃しろ! 一体どんな高度な暗号化アルゴリズムを使っているんだ!?」

【生体反応部局長】のパブロフが白衣を振り乱して指示を飛ばす。


数秒後、オペレーターが震える手で、システムを侵食している『ウイルスのソースコード』をモニターに表示した。

そこには、パノプティコンの天才研究者たちの理解を絶する、狂気の文字列が羅列されていた。


『……[If (Prince.Blink == true) { HeartRate = Max; }]……』

『……[Var SkinFriction = 0.05; //王子様の肌の理想的な摩擦係数]……』

『……[//ああ、今日の王子様の伏し目がちな瞳も最高ですわ。このデータを永遠に私の網膜に焼き付けたい]……』

『……[Error: 王子様との密着時間が足りません。直ちにシステム権限を譲渡しなさい]……』


「……な、なんだこの不気味なテキストデータは!?」

パブロフが目をひん剥いて後ずさった。


「ウ、ウイルスではありません! これはただの……ポエムです! 異常なまでに偏執的な、あの少年に対する『愛のポエム』のテキストファイルが、システムの中枢を物理的なデータ容量の暴力で埋め尽くそうとしています!!」

「テキストデータだと!? なぜそんなゴミデータが、我がパノプティコンのセキュリティ・フィルターをすり抜けたんだ!」


「分かりません! セキュリティAIが、この文章の『愛の重さ(異常性)』を処理しきれず、致命的なエラーを吐いて沈黙しています!!」


「ふざけるなァッ!!」

ゼウスがコンソールを力任せに殴りつける。


分断し、無力化したはずの『ただの秘書』。

しかし、彼女のエンリに対する重すぎる愛情と執着は、パノプティコンの誇る最新鋭の電子防壁すらも「ただの邪魔な壁」として食い破り、彼らの箱庭を内側から腐食させ始めていた。


「……クックック。あーっはっはっはっ!」


パニックに陥る監視ルームの中で、ミルグラムだけが狂ったように笑い出した。


「素晴らしい! 物理のバグだけでなく、システムすらも狂わせる愛情バグか! 人間の感情が電子システムを凌駕するなど、これほど面白いデータはない!!」

「ミ、ミルグラム様! 笑っている場合ではありません、このままでは施設の空調や隔壁の制御まであの女に奪われます!」


「構わん! あの女の侵食スピードが勝つか、それとも我々が『少年』をすり潰すのが早いか。……ゼウス。少年のいる回廊へ、とっておきのテストピース(刺客)を放て」


* * *


——一方、隔離された回廊を歩くエンリ。


「……静寂、実に素晴らしい。思考のノイズが一切ない」


エンリは深く息を吸い込み、澄み切った頭脳で次の物理ハックの計算を進めていた。

そんな彼の静かな散歩を遮るように、前方の天井のハッチが開き、巨大な質量がドスンッと音を立てて回廊に降り立った。


「……ガァァァァッ!!」


それは、全身を分厚い超硬合金の装甲で覆われた、体長3メートルを超える機械仕掛けのミノタウロスだった。

パノプティコンが極限の圧殺テスト用に開発した、純粋な『物理的暴力』の結晶。


「……チッ。静寂の時間は終わりか」


エンリはため息をつき、歩みを止めずに右手袋を構えた。

機械のミノタウロスが、蹄で床を蹴り飛ばし、猛烈なスピードでエンリに向かって突進してくる。その質量と速度が生み出す運動エネルギーは、ダンプカーの正面衝突すら凌駕する。


(質量およそ5トン。時速80キロの突進。……単純なベクトルだ。計算するまでもない)


エンリは指先をスッと前に出した。

ミノタウロスの鼻先の空間に、直径2メートルの巨大なポータル——『入口』を展開する。

そして同時に、ミノタウロスの「真後ろ」の空間に、もう一つのポータル——『出口』を展開した。


「『相対的慣性保存 (ローオブイナーシア)』——自己追突セルフ・クラッシュ


ズボォォォンッ!!


突進してきたミノタウロスの巨体が、エンリの目前で『入口』のポータルに吸い込まれた。

そして次の瞬間、その巨体は、凄まじい運動エネルギーを保ったまま、自身の背後にある『出口』から飛び出し——


ドゴォォォォォンッ!!!


「自らの背中」に、自らの全力の突進を叩き込んだ。

超硬合金の装甲がメキメキとひしゃげ、内部の駆動部が自らの質量によって完全に粉砕される。

機械のミノタウロスは、エンリに指一本触れることなく、ただの巨大な鉄屑となって床に崩れ落ちた。


「……自分の背中(死角)に突進するなんて、実に滑稽なプログラムだ」


エンリはポータルを閉じ、鉄屑の横を通り過ぎようとした。

ふと、回廊の隅に設置された監視カメラの赤いレンズが動いたことに気づく。


ウィィン……ウィィン……。

監視カメラが、エンリに向かって『縦に二回』、大きく頷くような動きを見せた。


「……」


エンリは無言で額を押さえた。

ただの機械であるはずの監視カメラから、粘着質で重すぎる「愛」と「ドヤ顔」の気配がハッキリと伝わってきたからだ。


(……早すぎるだろ。もう施設の監視システムを乗っ取ったのか、あの女)


エンリの「絶対孤独の平和な時間」は、わずか数十分で終わりを告げたらしい。

だが、同時にそれは、ジュリの反撃がパノプティコンの中枢を確実に脅かしているという証明でもあった。


「……まあいい。カメラ(目)が戻ったなら、僕も派手にやらせてもらおう」


エンリは眼鏡をクイと押し上げ、回廊の先——このふざけた実験場の「心臓部」へと向かって、不敵な笑みを浮かべた。


監視ルームの狂信者たちは、まだ絶望の入り口に立ったに過ぎない。

電子と物理、二つの理不尽なハッキングが、パノプティコンの完璧な箱庭を完全崩壊へと導こうとしていた。

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