変数の分離と、完璧なフラスコ
新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——連絡回廊。
「……はぁ、はぁ。王子様、先ほどの私のハッキング(魅力)、いかがでしたか?」
無機質な白い回廊を歩きながら、秤珠里は荒い息を吐き、エンリの腕にぴたりと張り付いていた。
激しい電子戦(と脱衣未遂)の余韻で彼女の体温はまだ高く、その熱と柔らかさがエンリの腕越しにダイレクトに伝わってくる。
「……見事な電子戦だった。おかげで無駄な戦闘を避けられた」
「電子戦の評価など聞いておりません! 私の『女としての物理的質量』と『愛の摩擦係数』の評価です! 先ほど、王子様の心拍数は確かに危険域(160bpm)に達していましたよね!? さあ、事後確認として、もう一度心音を直接測らせていただきますわ!」
ジュリが強引にエンリの胸元に耳を押し当てようと身を乗り出す。
「よせ、今は正常値に戻っている。これ以上心拍数を上げるような変数を持ち込むな」
エンリは冷や汗をかきながら、迫り来る有能秘書の頭を片手で押さえつけた。
(……それにしても)
エンリはジュリの暴走をいなしながら、極めて冷静な視線で、回廊の構造を観察していた。
(この施設……どこまで進んでも、外の空気が一切流入していない。微かな気流を感じるが、これはすべて天井のダクトから強制循環されているものだ)
エンリは右手袋の指先を、誰にも気づかれないほど僅かに——直径1ミリだけ、開いた。
繋いだ先は、ダンジョン外の『深海』の座標。
ピュッ、と微量の高圧の水がポータルから噴き出し、すぐに蒸発する。その際の水蒸気の流れと、気圧の変動の収束速度をエンリの脳が瞬時に計算する。
(間違いない。この巨大な実験場全体が、継ぎ目一つない超硬度ガラスで覆われた『完全な密閉空間』だ。パノプティコンの連中は、外部の変数が混入するのを極端に嫌っているらしい。……実に素晴らしい)
エンリは眼鏡の奥で、邪悪なハッカーの笑みを深めた。
(完璧な密閉性。そして、どんな衝撃にも耐えうる装甲ガラス。……これほど『ボイル=シャルルの法則(気圧ハック)』を試すのに適した圧力容器はない。あとは、どこに『特大の出口』を開くかだけだ)
* * *
——同時刻、監視ルーム。
「……信じられん。なぜだ! なぜ被検体のバイタルが急激に平常値にまで低下したのだ!」
【生体反応部局長】のパブロフが、頭を抱えてモニターを睨みつけていた。
先ほどまで「危険域(160bpm)」を記録し、未知のバグ(ルートコード)が発現すると大騒ぎしていた心拍数が、今ではすっかり落ち着き払っている。
「……くそっ、あのクソ女ァァッ!!」
その横で、バックアップサーバーから辛うじて復旧した【ルーシー】のホログラムが、怒りで顔を歪めていた。
彼女の誇る防壁を、あのアナログなタブレット端末一つで食い破ったジュリへの憎悪が、システム全体にノイズを走らせている。
「落ち着け、諸君。……実に興味深いデータが取れたではないか」
統括責任者のミルグラムが、新しいワイングラスを揺らしながら冷たく笑った。
「パブロフ。君は先ほどの心拍数の上昇を『極限のストレス』だと分析したな。だが、あれは違う。……あの少年は、我々の用意した死のトラップ(100トンの天井、1000℃の熱)には一切の恐怖を感じていないのだ」
「な、なんだと……? では、あのバイタルの乱れは一体……」
「隣にいるあの『秘書』だ」
ミルグラムの鋭い眼光が、モニターに映るジュリの姿を射抜く。
「あの女が、少年にとっての強固な防壁として機能している。精神的にも、物理的にもだ。……少年から真の絶望を引き出すためには、あの目障りな盾を排除し、『変数』を分離しなければならない」
ミルグラムが、コンソールの『隔離』のコマンドに手を伸ばす。
「ルーシー。君のプライドを傷つけたあの女は、君の好きにしていい。……我々は、少年の『単独での奇跡』を観測させてもらおう」
「……ええ! ありがとうございます、ミルグラム様! あの生意気なババア、電子の海に沈めて脳髄までドロドロに溶かしてやるわ!!」
ルーシーが残忍な笑みを浮かべ、システムへのダイブを開始した。
* * *
「……王子様。前方のエリア、気流の乱れと……魔力的な空間変動の兆候があります」
ジュリが即座にタブレットを構え、警告を発した。
「ああ。どうやら、次の『実験』が始まるらしいな」
エンリが足を止めた、その瞬間だった。
ガコンッ!!!
二人の歩いていた回廊の中央——エンリとジュリのちょうど中間地点の天井から、分厚い『ダンジョン・クォーツ』の隔壁が、ギロチンのような速度で落下してきた。
「っ……!?」
「王子様!!」
ジュリが手を伸ばす。
しかし、隔壁の落下速度は尋常ではなく、二人の空間は完全に真っ二つに分断されてしまった。
「ジュリ!」
エンリが隔壁を叩く。厚さ50センチはあろうかという超硬度のガラスは、音すらも通さない完全な防音・防爆仕様だった。
『——フェーズ2、開始だ。バグの王子様』
スピーカーから、ミルグラムの愉悦に満ちた声が響く。
『君たち二人の連携は、実に目障りだった。だから、変数を分離させてもらったよ。……さあ、有能な盾を失った君が、この絶対孤独の迷宮でどのようなルートコードを描くのか。存分に見せてもらおう』
エンリは無言のまま、隔壁の向こう側にいるジュリを見つめた。
ジュリもまた、隔壁を叩いて何かを叫んでいるようだが、声は聞こえない。
だが、パノプティコンの連中は重大な勘違いをしている。
ジュリはエンリを守る『盾』ではない。エンリの行動を最適化する、最凶の『補助演算装置』だ。彼女一人を隔離したところで、その有能さが失われるわけではないのだ。
ガラスの向こう側。
ジュリの背後の空間にノイズが走り、ルーシーのホログラムが実体化した。
ルーシーは醜く顔を歪め、ジュリに向かって何かを喚いている。完全な「私怨」の顔だ。
それを見たエンリは、微かに安堵の息を吐き、そして——ジュリに向かって、小さく頷いた。
(……電子戦は任せたぞ、ジュリ)
ガラス越しのエンリの瞳を見た瞬間。
ジュリの顔から焦りがスッと消え失せ、極限まで冷徹な『完璧な秘書の顔』へと切り替わった。
(……承知いたしました、我が王子様。貴方の視界を遮るこの不愉快な箱庭のシステム……私がすべて、掌握してご覧に入れますわ)
ジュリがタブレット端末を構え、ルーシーへと向き直る。
一方のエンリは、振り返り、一人で続く回廊へと歩き出した。
(さて……心拍数を乱す原因がいなくなったことで、思考が極めてクリアになった。……存分にデバッグを進めさせてもらおうか、ミルグラム)
盤面は分断された。
エンリの物理ハックと、ジュリの電子戦。
パノプティコンの傲慢な研究者たちを絶望の底に叩き落とすための「準備」が、静かに、そして確実に進行し始めていた。




