ファイヤーウォールと、摩擦係数の誘惑
新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——第3フェーズ。
分厚い装甲扉の先は、巨大なサーバー群が立ち並ぶ、電子制御室のようなエリアだった。
部屋の中央には巨大なホログラム・コンソールが鎮座している。
「……なるほど。物理的な質量、環境変数(熱)と来て、次は純粋な『情報処理』のテストというわけか」
古海縁理が周囲を警戒しながら呟く。
『あはっ! ご名答。でも、今度の相手はミルグラム様じゃないわ。……私よ』
コンソールの上にノイズが走り、黒いゴシックドレスを着た少女——【ルーシー】の立体ホログラムが浮かび上がった。
彼女が妖しく指を鳴らした瞬間。秤珠里が手にしていたタブレット端末から、けたたましい警告音が鳴り響いた。
「……ほう。私のローカルネットワークに、直接サイバー攻撃を仕掛けてきましたか」
ジュリの目が、スッと冷酷な「秘書の顔」に切り替わる。
『ただの攻撃じゃないわ。この部屋のシステムと連動させた、不可避の論理爆弾よ。あんたのその古い端末ごと、脳の神経系まで焼き切ってあげる!』
目にも止まらぬ速度で、ジュリの端末に無数のマルウェアが侵入していく。
しかし、ジュリの指先はそれを上回る神業的な速度で物理キーを叩き、強固な防壁を展開し始めた。
「……無駄ですわ、小娘。貴女の攻撃アルゴリズムは、すでに第15エリアで解析済み。私の『王子様への愛』を原動力としたオーバークロック演算の前に、そんな三流のウイルスなど……ッ!」
『ふんっ、人間風情がシステムに勝てるわけないでしょ! 処理速度を倍に上げるわよ!』
目に見えない電子の海で、二人の有能な秘書による致死の情報戦が繰り広げられる。
火花を散らす両者の演算能力は、完全に拮抗していた。
(……チッ。このオバサン、ただの人間なのに何でこんなに処理速度が落ちないのよ!? だったら、標的を変えるまで!)
ルーシーはホログラムの唇を歪めると、突如として攻撃の手を止め、エンリの方へと妖艶に歩み寄った。
『ねえ、バグの王子様。あんな堅物で可愛げのない秘書より、私の方がずっと「有能」だと思わない?』
ルーシーは自らのゴシックドレスの胸元を大胆にはだけさせ、ホログラムとは思えないほど生々しい、透き通るような白い肌と豊かな谷間をエンリの眼前で見せつけた。
『私はメインシステムと直結した、完璧な存在。王子様が望むなら、視覚、聴覚、あらゆる生体データをハッキングして、脳内に「極上の快楽」を直接ダウンロードしてあげることもできるのよ? あんなオバサンのアナログな奉仕より、ずっと効率的で……気持ちいいわよ?♡』
ルーシーの甘く、粘りつくような声。さらに彼女のホログラムは『魅了』の特殊波形を帯びたフェロモン(光の明滅)を放ち、エンリの視覚と脳神経を直接揺さぶりにきた。
「なっ……! 貴女、神聖なる電子情報戦の最中に、なんて破廉恥な真似を……!」
ジュリが激怒して叫ぶ。
『あはっ! これも立派なハッキング(心理戦)よ! 王子様の心拍数が上がって判断力が鈍れば、私の勝ちだもの!』
モニターには、エンリのバイタルデータが表示されている。
ルーシーの過激な誘惑により、エンリの心拍数は確かに「ドクンッ」と僅かに跳ね上がった。
(……っ! ホログラムのくせに、網膜への光の屈折率を調整して『本物の肌以上の質感』を再現しやがった! 視覚情報からのハッキングか、厄介な……!)
エンリは死ぬ気でポーカーフェイスを保ちながら、内心で激しく冷や汗をかいていた。
しかし、そのエンリの反応を見たジュリの『女としてのプライド』が、完全に爆発した。
「……許しませんわ。データだけの紛い物が、私の王子様を誘惑するなど……ッ! 王子様、あんな視覚情報だけの虚構に惑わされてはなりません!!」
バサァッ!!
ジュリは自らの秘書服のブラウスのボタンを限界まで引きちぎるように外し、ルーシー以上の圧倒的な質量の双丘を露わにすると、エンリの背中から思い切り抱きついた。
「っ!? ジュ、ジュリ!?」
「王子様! 仮想現実は所詮、脳への電気信号に過ぎません! 人間が真の安らぎと快楽を得るためには、圧倒的な『物理的質量』と、肌と肌が擦れ合うことで生じる『摩擦熱』、そして直接的な『熱交換(体温)』が不可欠なのです!!」
ジュリはエンリの首筋に熱い吐息を吹きかけながら、その柔らかな質量をエンリの背中にぐりぐりと押し付ける。
「さあ、私の心音と体温を感じてください! 視覚のハッキングなど、この圧倒的な物理法則の前に上書きして差し上げますわ!!」
『ちょっと!? アナタ、何ハレンチなことしてるのよ! ルール違反じゃない!』
「ルールなどありません! 秘書としての魅力、そして王子様への愛の深さ……すべてにおいて、私が貴女を凌駕していることを証明して差し上げます!!」
ルーシーも負けじとホログラムの出力を最大にし、エンリの正面に密着するような姿勢で甘い声を囁く。
ジュリは背後から本物の体温と質量でエンリを拘束し、耳元で愛を囁きながら首筋を甘く噛む。
「王子様……私を選んでくださいますよね?♡」
『王子様ぁ……私の方が、ずっといい思いをさせてあげられるわよ?♡』
正面からは極限まで解像度を上げられたホログラムの誘惑。背後からは有能すぎる秘書の「物理的かつ合理的なエロチシズム」。
その瞬間、部屋にけたたましいアラートが鳴り響いた。
——同時刻、監視ルーム。
「ぱ、パブロフ局長! 被検体のバイタルデータに異常値が発生しました!!」
監視員が血相を変えて叫ぶ。
「なんだと!?」
【生体反応部局長】のパブロフは、額に大量の脂汗を浮かべながらモニターに食い入るように身を乗り出した。
「馬鹿な……! あの100トンの天井が落ちてきた時も、1000℃の灼熱地獄の中でも、心拍数一つ変えずに物理法則を破壊したあの氷のような少年が……っ!」
パブロフの震える指の先。モニターには、真っ赤な警告色と共に信じられない数値が叩き出されていた。
【心拍数:160bpm —— 危険域】
「ひゃ、160bpmだと!? 致死レベルの極限ストレス状態じゃないか! ついに……ついに電子空間という逃げ場のない檻の中で、彼を精神の限界まで追い詰めたのだな、ルーシー君!」
パブロフは狂喜の声を上げ、白衣を振り乱した。
「素晴らしい! この異常な心拍数の跳ね上がりこそ、未知の奇跡が発現する前兆!! これだ、これこそが我々の求めていたルートコードの胎動だ!! 総員、生体データのログを1ビットたりとも逃すなァッ!!」
パノプティコンの冷徹な研究者たちは、ついに訪れた「神聖なる実験の成功」に歓喜の涙すら流していた。
——だが、もちろん彼らは知る由もなかった。
モニターの向こう側にいるバグの王子様が、ダンジョンの真理に触れたわけでも、極限の恐怖を感じているわけでもなく。
(……殺す気か、この二人は!!)
ただ単に、女の胸の柔らかさと甘い吐息の板挟みになって、限界突破のデスマーチ(ラブコメ的パニック)を奏でているだけだということを。
「……二人とも、不合格だ」
パノプティコンの狂信者たちが真面目にデータ収集をしている裏で、エンリは深く息を吐き出し、決死のポーカーフェイスで冷たく言い放った。
『えっ?』
「はっ?」
「ルーシー。君のホログラムは解像度を上げすぎたせいで、光の屈折率に不自然なノイズが混ざっている。網膜への無駄な刺激が強く、長時間の観測は眼精疲労を招く。……視覚的ハックとしては二流だ」
エンリは真っ直ぐにルーシーの目を見て、その「データとしての不完全さ」を指摘した。
「そしてジュリ。密着による熱交換のロジックは認めるが、現在の君の発汗量と体温上昇は異常だ。無駄な摩擦熱を生み出しすぎている。これでは僕の体温まで上がり、発汗による水分の喪失を招く。……非効率の極みだ」
「そ、そんな……私の愛の摩擦が、非効率だなんて……っ!」
ジュリがショックを受けたように動きを止める。
「それに、ルーシー。君は僕の視覚をハッキングすることにリソース(処理能力)を割きすぎた」
エンリが眼鏡をクイと押し上げた、その瞬間。
『——警告。メインサーバー第4セクター、防壁突破されました。管理者権限、移行します』
無機質なシステム音声が部屋に響き渡った。
『なっ……!? 嘘でしょ、いつの間に……!』
ルーシーのホログラムが激しくノイズを走らせて明滅する。
「……私の勝ちですわ、三流AI」
ジュリが背後からエンリを抱きしめたまま、空いた片手でタブレットを操作し、勝利の笑みを浮かべていた。
エンリが二人の魅力を物理的・論理的に分析(ダメ出し)している隙に、ルーシーのサーバーへの演算が疎かになった一瞬のバグを突き、ジュリがシステムのコアを完全に掌握したのだ。
「私の王子様が、貴女のような安っぽい光のデータに惑わされるはずがありません。……王子様の心拍数を乱すことができるのは、この世界で私ただ一人なのですから」
『あ、あんたたち……ただの人間ごときが……私の、完璧な……っ!!』
完全にシステムを乗っ取られたルーシーのホログラムは、屈辱に顔を歪めながら、ブツンッと音を立てて消滅した。
部屋のロックが解除され、次のエリアへの扉が開く。
「……見事な手際だ、ジュリ。君のブラフ(セクハラ)のおかげで、敵の処理速度に隙ができた」
「ブラフではありませんわ! 私はいつだって本気で王子様と熱交換を行いたいと……!」
「よし、進むぞ。心拍数がこれ以上上がる前に」
エンリはジュリの言葉を華麗にスルーし、真っ赤になった耳を隠すように足早に次の部屋へと向かった。
狂気の研究施設の中で繰り広げられた、女の魅力とハッキングが交差する異常な戦闘。
有能すぎる秘書による「逃げ場のない愛の防壁」は、パノプティコンの電脳空間すらも完璧に制圧してみせたのだった。




