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熱力学の蹂躙と、完璧な圧力容器

監視ルームは、水を打ったような静寂に包まれていた。


「……あり得ない。私の設計した100トンの重力圧壊システムが、自身の運動エネルギーで自壊しただと?」


【空間構造部局長】のゼウスが、モニターに映る鉄屑の山を見て呻き声を上げた。

【生体反応部局長】のパブロフも、額に脂汗を浮かべている。

「被検体のバイタルに一切の乱れがない……。極限のストレス下で奇跡バグが起きるはずの盤面で、あの少年は『心拍数一つ変えずに』ルールを破壊したというのか……!」


ダンジョンの真理を解き明かすための、神聖なる実験。

被検体は絶望し、足掻き、そして想定通りのプロセスを経て奇跡のデータを落とすはずだった。


「……フ、フフッ。素晴らしいじゃないか」


沈黙を破ったのは、統括責任者のミルグラムだった。

彼は割れたワイングラスを放り捨て、歓喜と苛立ちが入り混じった狂気的な笑みを浮かべた。


「物理的質量のベクトルを完全に支配しているというわけか。だが、ゲームはまだ始まったばかりだ。運動エネルギーがダメなら、次は『環境変数』そのものを操作してやろう」


ミルグラムがコンソールを叩く。

その背後で、執事服のレンフィールドだけが、狂信的な熱を帯びた真紅の瞳でモニターの中のエンリを見つめていた。

(……あの方(リリス様)が興味を持たれるのも頷ける。あれは、人間の枠に収まる器ではないな)


* * *


——『観測箱パノプティコン・ケージ』内部。


破壊された100トンの天井が沈黙した直後、純白の部屋の奥にあった壁がスライドし、次なるエリアへの通路が開かれた。


「お見事です、王子様。無駄な体力を一切消費しない、最もエレガントな解法でしたわ」


ジュリがエンリの胸元にスッと顔を寄せ、その首筋に自身の額を押し当てた。


「……何をしている、ジュリ」

「王子様のバイタルチェックですわ。頸動脈の脈拍と、私の額の体温センサーを用いて、脳への血流異常がないか確認しています。……ああ、なんて力強く、そして冷静な鼓動。私の心拍数も、王子様へのリスペクトで完全に同期してしまいそうです……っ♡」

「離れろ。心拍数が上がる原因はお前だ」


エンリはジュリの額を指先で押し返し、開かれた通路へと足を踏み入れた。

次の部屋も、先ほどと同じ分厚い装甲ガラスで覆われた密室だった。だが、床面だけが赤黒い特殊な金属板で構成されている。


二人が部屋の中央に進み出た瞬間、背後の扉が重い音を立てて閉ざされた。


『見事な物理ハックだったよ、バグの王子様。どうやら君には、質量を用いたアプローチは無意味なようだね』


再び、スピーカーからミルグラムの優雅な声が響く。


『第2フェーズを開始する。この部屋は、一切の気体の出入りを許さない完全な【密閉空間】だ。そして今から、君たちの足元の床下にある高出力魔石炉を暴走させる』


ミルグラムの宣言と共に、足元の赤黒い金属板が、急速に熱を持ち始めた。


『純粋な熱力学のテストだ。この部屋の気温は、毎秒10度ずつ上昇し、最終的に1000°Cの灼熱地獄と化す。君の自慢のゲートは、空間を繋ぐことはできても、「熱エネルギー」そのものを消し去ることはできないはずだ。さあ、この絶対的な環境変化の中で、君のバグはどう足掻くのかな?』


急激な温度上昇により、部屋の空気が陽炎のように歪み始める。

わずか十数秒で、室温はすでに50°Cを突破していた。息を吸い込むだけで、喉が焼け焦げるような熱気だ。


「……王子様! このままでは数分でタンパク質が熱変性を起こし、致命的な火傷を負います!」


ジュリが即座にエンリの前に立ち塞がり、自らのタイトな秘書服のボタンに手をかけた。


「……おい、何をする気だ」

「合理的な熱対策ですわ! 衣類は熱を内にこもらせる原因になります。今すぐ私と王子様の衣服をすべて排除し、肌と肌を極限まで密着させるのです!」

「は……?」

「表面積を最小化し、私の体内にある水分の気化熱を利用して、王子様の深部体温の上昇を遅らせます! さあ、一刻の猶予もありません! すぐに私の服を脱がせて、その腕で強く、強く抱きしめてくださいませ!!」


「そんなエロティックな理由で熱力学の法則を捻じ曲げるな! 余計に熱いだろうが!」


エンリは迫り来るジュリ(半裸)を片手で制止しつつ、冷静に周囲の『環境』を観察した。

彼が見ていたのは、足元の熱源ではない。四方を囲む、分厚い装甲ガラスの壁だった。


(……一切の気体の出入りを許さない、完全な密閉空間。そして、急激な温度上昇)


エンリの脳内で、物理法則の数式が瞬時に組み上がる。


(シャルルの法則。体積が一定の密閉空間において、気体の圧力は絶対温度に比例する。……つまり、この部屋は今、ただ熱くなっているだけじゃない。温度上昇に伴って空気が膨張し、部屋の中の『気圧』が異常なスピードで跳ね上がっているんだ)


エンリは眼鏡の奥の瞳を細め、ニヤリと笑った。


「……ご丁寧なことだ。わざわざ僕に、最高の『圧力容器』を用意してくれるとはな」

「……え?」


ジュリが動きを止めた。

監視ルームのミルグラムたちも、モニター越しにエンリの不敵な笑みを見て、得体の知れない悪寒を感じていた。


「ジュリ。服を着ろ。僕のゲートは熱を消せないが……『気圧の差』を利用して、熱源ごと吹き飛ばすことはできる」


エンリは右手袋の指先を、足元の赤黒い床へと向けた。

そして、左手袋を、部屋の隅にある「分厚い装甲ガラスの壁」ギリギリの座標へと固定アンカーする。


「『虚空のヴォイド・ゲート』——圧力解放ブローオフ


エンリが指を鳴らした瞬間。

床の金属板の直下(熱源の内部)と、部屋の隅の空間が、極小のポータルで繋がった。


何が起きたか。

現在、この密室内の気圧は、急激な温度上昇によって通常の数倍にまで膨れ上がっていた。

エンリは、その「パンパンに膨れ上がった高圧の空気」の逃げ道を、床下にある『熱源の駆動部』の内部へと直接繋いだのだ。


「なっ……!?」


監視ルームのゼウスが絶叫した。


ドバァァァァァァッ!!!


行き場を失っていた超高圧の空気の塊が、ポータルを通って、床下の狭い魔石炉の内部へと一気に逆流した。

精密な熱源装置が、想定外の内部からの超高圧(空気のハンマー)に耐えられるはずがない。


メシャァッ! ドゴォォォォンッ!!!


床下の魔石炉が、内側からの圧力によって派手に爆発バーストした。

熱源を失った金属板は急速に沈黙し、暴走していた温度上昇もピタリと停止した。


「……熱力学を語るなら、ボイル=シャルルの法則くらい復習しておくべきだったな、ミルグラム」


エンリはポータルを閉じ、何事もなかったかのように呟いた。

監視ルームは再び、死のような静寂に包まれた。


熱エネルギーという環境変数すらも、部屋の『気圧』を利用して物理的に粉砕した。

だが、エンリの真の目的は、このゲームのクリアではない。


(……今の凄まじい気圧上昇と、瞬間的な圧力変動。これだけの負荷がかかっても、この部屋の装甲ガラスにはヒビ一つ入らなかった)


エンリは、部屋の壁を静かに見つめていた。


(素晴らしい耐久度だ。この箱庭ケージは、完璧な密閉性と強度を持った『フラスコ』だ。……これなら、僕の最高傑作(減圧爆発)の威力を、一切のロスなく敵に叩き込める)


「さすがですわ、王子様……! 気圧を用いた熱源の物理的破壊! 私の脱衣が役に立たなかったのは痛恨の極みですが、その冷徹なまでの計算力、ますます愛おしいですわ……っ♡」

「服を着ながら擦り寄ってくるな。摩擦でまた温度が上がる」


エンリはジュリの頭を適当に撫でて黙らせながら、来るべき『完全破壊』の瞬間に向けて、着実に牙を研いでいた。

パノプティコンの傲慢な研究者たちは、自分たちが観察しているモルモットが、実は自分たちの施設の強度を『デバッグ』していることに、まだ気づいていなかった。

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