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神聖なる箱庭と、自壊する100トンの暴力

新宿第4ダンジョン、パノプティコン特設実験場——『観測箱パノプティコン・ケージ』。


強制的な転移の光が収束すると、古海縁理フルミ・エンリ秤珠里ハカリ・ジュリは、無機質な純白の部屋の中央に立っていた。

広さは学校の体育館ほど。四方は継ぎ目の一切ない分厚い半透明の装甲ガラスで覆われ、その向こう側には無数のセンサーやカメラが、ハエの複眼のように二人を監視している。


「……着地姿勢、完璧でしたわ。王子様の尊いお身体に、1ミリの傷もつけずに済みました」


ジュリはエンリを腕の中に抱き込んだまま、スッと立ち上がった。落下という予測不能の事態においてすら、彼女はエンリを完璧に保護(密着)していた。


「……ああ、助かった。だが、離れろ。状況を確認する」


エンリはジュリの柔らかな拘束から抜け出し、周囲を見渡した。

魔法の痕跡マナは一切ない。すべてが純粋な物理的装甲と、現代科学の粋を集めたような電子制御で構築された、完全な隔離空間だった。


『——ようこそ、名もなきバグの王子様。そして、我らのシステムに泥を塗った生意気な秘書君』


部屋の天井に設置されたスピーカーから、クラシック音楽の優雅な調べと共に、落ち着いた初老の男の声が響き渡った。


『私の名はミルグラム。ダンジョンの真理ルートコードを探求する研究機関、【パノプティコン】の統括責任者だ』


「……趣味の悪い誘い方だな。罠を張ってまで、僕たちに何の用だ」

エンリが冷ややかな声で問いかける。


『用、とは違うな。君たちは選ばれたのだよ。神聖なる実験の被検体としてね』


——壁の向こう側、監視ルーム。

そこには、無数のモニターを前にワイングラスを傾けるミルグラムの姿があった。

背後には、冷や汗をかきながらジュリのハッキング痕を修復しているAIホログラムの【ルーシー】と、執事服の【レンフィールド】が控えている。


さらに、モニター群を取り囲むように、パノプティコンの各部門の責任者(部局長)たちが、冷酷な研究者の眼差しを画面に向けていた。

【空間構造部局長】のゼウス、【生体反応部局長】のパブロフ。彼らにとって、モニターの向こうの人間は、ただの「データ収集用のモルモット」に過ぎない。


『ダンジョンとは、巨大なブラックボックスだ。我々は、人間が極限のストレス下——すなわち”死の淵”に立たされた時にのみ発現する「未知のスキル(システムのバグ)」を観測し、収集している。……君がガンスリンガー相手に見せたあの異常な物理演算。あれこそが、我々が探し求めていた特異点ルートコードの欠片だ』


ミルグラムの声が、狂信的な熱を帯びる。


『さあ、見せてくれたまえ! 究極の絶望の中で、君のそのバグがどのような奇跡の数式を描くのかを!』


ゴゴゴゴゴゴォォォォッ……!!


ミルグラムの宣言と同時。

部屋の「天井」そのものが、凄まじい地響きを立てて下降し始めた。

見上げれば、天井の一面にはびっしりと鋭利な鋼鉄のスパイクが敷き詰められている。


『第1フェーズ、開始だ。この天井の総重量は100トン。降下速度から計算して、君たちが潰されるまで残り180秒。……部屋の隅にある「赤いボタン」を押せば、降下は停止する』


ミルグラムの言う通り、部屋の角には緊急停止用の赤いボタンが設置されていた。

だが、そのボタンの周囲は、分厚く透明な『ダンジョン・クォーツ(対物理特化の超硬度鉱石)』のブロックによって、完全に覆い尽くされていた。


『クォーツを破壊し、ボタンを押せばクリアだ。ただし、君たちの手持ちの装備や筋力では、あのクォーツに傷一つรつけることは不可能だがね。さあ、どうする?』


「……なめるな!」


ジュリが即座にホルスターから大口径のハンドガンを抜き放ち、クォーツに向けて全弾を撃ち込んだ。

乾いた銃声が響く。だが、弾丸はクォーツの表面でひしゃげ、火花を散らすだけで、傷一つ残さずに弾き返された。


「……硬度、反発係数ともに異常です。私の持っている火器や爆薬の質量では、絶対に破壊できません」


ジュリは即座に無駄な攻撃を中止し、冷静な秘書の顔のまま、エンリの前にスッと進み出た。


「王子様。現在の私たちの手札では、あのボタンを押すことは不可能。……つまり、180秒後の圧死は免れません」

「……」


「ですから、合理的な提案です。私が王子様の上に覆い被さり、肉のクッションとなります。鋼鉄のスパイクが私の骨と臓器を貫く際の抵抗値を利用すれば、王子様の生存時間を『約0.8秒』延長させることが可能です。その間に、どうか王子様お一人で、ゲートによる空間転移の可能性を……」


「馬鹿を言うな」


エンリは、本気で自らを肉の盾にしようとしている有能すぎる秘書の頭に、ポンと手を置いた。


「君を失うのは、僕にとって最大の非効率バグだ。……それに、こんな三流のパズルゲームで、僕の脳のクロック数を消費させるな」


エンリは眼鏡をクイと押し上げ、ゆっくりと下降してくる『100トンの天井』を見上げた。

残り時間、60秒。スパイクの先端が、すぐ頭上まで迫っている。


監視ルームの部局長たちが、固唾を飲んでモニターを凝視する。


(さあ、どうする。あの硬度をどうやって突破する? 何の奇跡を起こす?)

ミルグラムが、歓喜の笑みを浮かべた。


だが、エンリの思考は、彼らの「ゲームのルール」など、最初から一顧だにしていなかった。


(クォーツを破壊してボタンを押せ? 馬鹿らしい。……なぜ『ボタンを押す』という中継処理プロセスを挟む必要がある? 天井が落ちてくるなら、天井そのものをデリートすればいいだけの話だ)


エンリは黒い手袋を嵌めた両手を掲げた。

右手袋の指先を、迫り来る天井のスパイクへと向ける。

そして、左手袋を脱ぎ捨て、その「左手袋」自体を真上——天井のすぐ下へと放り投げた。


「『相対的慣性保存 (ローオブイナーシア)』——自己崩壊ループ」


エンリの呟きと共に、放り投げられた左手袋の座標に、直径2メートルほどの巨大なポータル(入口)が開く。

同時に、天井に接する右指の先の座標に、もう一つのポータル(出口)が開いた。出口の向きは『真下』。


つまり、下降してくる天井の真下に「入口」があり、その入口に吸い込まれたものは、天井のすぐ上にある「出口」から、再び真下に向かって射出される。


ズンッ……!!


天井の一部が、左手のポータル(入口)に触れた。

瞬間、その「100トンの質量と運動エネルギー」を持った天井の一部が吸い込まれ——右手のポータル(出口)から、天井自身の「上部」へと凄まじい勢いで叩きつけられた。


メキィィッ!! ドゴォォォォンッ!!


「なっ……!?」


監視ルームのミルグラムが、ワイングラスを取り落とした。


『天井が落ちるエネルギー』を、そのまま『天井自身を上から叩き潰すエネルギー』へと変換する、無限の物理ループ。

100トンの質量が、自らの重さと運動エネルギー(Ek=21mv2)によって、自らの装甲と駆動部を内側から完全に粉砕し始めたのだ。


ガガガガガッ! キュイィィィン、バァァァンッ!!


駆動モーターが悲鳴を上げ、鋼鉄のスパイクがへし折れ、天井の巨大なユニットそのものが、自壊の連鎖によって無惨な鉄屑へと変わり果て、停止した。


静寂が戻った純白の部屋。

緊急停止ボタンを覆うクォーツは、無傷のままだ。

だが、彼らを押し潰すはずだった脅威は、完全に沈黙していた。


「……ボタンを押すまでもない。物理的な質量には、自己崩壊という最も効率的な処理バグがある」


エンリは何事もなかったかのように落ちてきた左手袋を拾い上げ、埃を払った。


「す、素晴らしいですわ王子様……!! 敵の用意したルールすら無視し、暴力そのものを自滅させる神業! ああ、私の肉の盾としての出番がなかったのは少々残念ですが、その圧倒的な知能に、私の心拍数がストップ高ですわ……っ♡」


ジュリが頬を赤らめ、エンリの腕に力強く抱きつく。


一方の監視ルームは、死のような静寂に包まれていた。

想定していた「限界状態での奇跡の発現」などではない。ただの冷徹な物理演算による、ルールの完全な破壊。


「……馬鹿な。私の完璧な実験プロセス(ゲーム)が、ボタンにも触れずに……」


ミルグラムの顔から、余裕の笑みが完全に消え去っていた。

ダンジョンの真理を解き明かそうとする狂信者たちの箱庭は、今、一人のバグの王子様によって、その根幹からハッキングされようとしていた。

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