甘い罠(バグ)と、二人の有能な秘書
新宿第4ダンジョン、中層第20エリア。
昨夜の豪華絢爛な休息から一夜明け、古海縁理と秤珠里は、再び中層の奥深くへと足を進めていた。
昨夜の「合理的マッサージ」の影響か、エンリの右腕のピリつきは完全に消失していたが、代わりに別の問題が発生していた。隣を歩くジュリの距離感が、明らかに物理法則を無視して「ゼロ」に固定されているのだ。
「……ジュリ。さっきから肩どころか、二の腕までずっと密着しているんだが」
「おや、王子様。これは第20エリア特有の『静電気バグ』を防止するための、合理的接地ですわ。私の肌を通じて王子様の余剰な電荷を逃がすことで、精密な演算を司る脳へのノイズを最小限に抑えているのです。……決して、王子様の体温と筋肉の感触を堪能したいからではありませんわよ?♡」
(……嘘をつけ。さっきから確信犯的に腕を胸に押し付けてきているだろうが)
エンリは内心で激しくツッコミを入れながらも、死ぬ気でポーカーフェイスを維持する。ここで下手に反応すれば、彼女の「合理的言い訳」はさらに飛躍し、今度は『生体信号の同期』と称して抱きつかれるのが目に見えていたからだ。
そんな二人の前に、不自然なほど静まり返った一本道の回廊が現れた。
その回廊の突き当たり。古い石造りの壁の一部が、まるで壊れたモニターのようにノイズを走らせて明滅し、そこにはあからさまな「隠し扉」が開いていた。
「……王子様、停止を。前方、座標データに極めて不自然な上書き(オーバーライト)の形跡を確認しましたわ」
ジュリが即座に秘書の顔に戻り、タブレット端末を素早く操作する。
隠し扉の向こう側を覗き込めば、そこには黄金に輝く宝箱の数々と、中層ではまずお目にかかれない希少なアーティファクトが、まるで展示品のように並べられていた。
「……三流のゲームクリエイターでも、もう少しマシな罠を仕掛けるぞ。露骨すぎて、もはや誘っているとしか思えないな」
エンリは冷めた目で、その「宝物庫」を観察した。
だが、彼の鋭い視線は、部屋の最奥に鎮座している一つの黒いキューブに釘付けになった。それは周囲の空間すらも僅かに歪ませている、異質な演算装置だった。
「王子様、あれは……パノプティコンが極秘に開発を進めていた空間安定化プログラム『ゼノス・コア』の試作機ですわ。あれを解析できれば、王子様のゲートの『一対しか出せない』という制約を解除し、複数の座標を同時展開するための重大なコードが見つかる可能性があります」
ジュリの指摘に、エンリの眉がピクリと動いた。
物理法則を愛し、世界のバグをハッキングすることに悦びを感じる彼にとって、その「未知のプログラム」は、どんな美女の誘惑よりも強力な餌だった。
「……フッ。罠だと分かっていて踏み抜くのも、デバッグ(攻略)の醍醐味か。ジュリ、バックアップの準備は?」
「万全ですわ、王子様。貴方がその理を書き換える瞬間、私はそのすべてのデータを特等席で観測させていただきます」
エンリは一切の躊躇なく、その部屋に一歩、足を踏み入れた。
ジュリもまた、当然のように彼から1メートル以内の距離を保って随伴する。
二人が部屋の中央に達した、その瞬間だった。
轟音と共に背後の石扉が閉ざされ、部屋全体の空気が、まるで行き場を失ったデータのように激しくノイズを走らせ始めた。
「——ようこそ。名もなきバグの王子様と、おまけの裏切り秘書さん」
部屋の四方の壁から、不気味なホログラムが浮かび上がる。
そこに映っていたのは、真紅の瞳を妖しく輝かせた、黒いゴシックドレスの少女——ルーシーだった。
「初めまして。私はルーシー。偉大なるミルグラム様の、最高で完璧な『専属秘書』よ。あはっ、直接会うのは初めてね」
その「秘書」という単語が出た瞬間。
エンリの隣の空気が、一瞬で絶対零度まで凍りついた。
「……はっ。笑わせないでいただけますか」
ジュリが、能面のような冷ややかな笑みを浮かべて前に出る。その瞳には、かつてないほどのドス黒い闘志が宿っていた。
「どこぞの三流クランのAIホログラム風情が、『完璧な秘書』を自称するとは。片腹痛いですわ。この世界において、完璧な秘書と呼べるのは、我が王子様にお仕えするこの秤珠里ただ一人。貴女のような『ただの動く端末』とは、格が違いますの」
「あはっ! 言うじゃない、時代遅れのオバサン。あんたのその古い索敵ツール(タブレット)、もう私のジャミングで完全に死んでるのに気づいてないの? 有能な秘書なら、道具が壊れる前に状況を把握しなさいよ」
ルーシーが嘲笑うように指を鳴らす。
確かに、ジュリのタブレットの画面は真っ赤なエラーコードに埋め尽くされていた。だが、ジュリの口角は、むしろ挑戦的に吊り上がった。
「……私のサポート能力を、ただの電子機器頼りだと思いましたか? 演算速度を上げなさい、小娘。貴女のジャミングの周波数を逆算、妨害電波の発生源を特定……あら、セキュリティが随分と甘いですわね。たった3秒で、貴女の背後にあるメインサーバーに『寄付金(強制送金)』のバックドアを仕掛けられましたわよ?」
「なっ……!? あんた、通信が遮断されてるのにどうやって……! 嘘、本当にサーバーの残高が減ってる……!?」
ルーシーのホログラムが、初めて驚愕に歪む。
純粋な電子情報戦において、ただの人間であるはずのジュリが、パノプティコンのメインシステムと直結しているはずのルーシーの強固な防壁を、正面からバキバキと食い破り始めたのだ。
「すごいな、ジュリ。……だが、空間自体の書き換えには間に合わないらしい」
エンリが静かに呟いた。
電子戦ではジュリが圧倒していたが、ここはパノプティコンが何層にも罠を張り巡らせた「実験場」だ。相手は既に、この部屋の「物理法則」を書き換え、重力演算を停止させる準備を終えていた。
「チィッ……! いいわ、生意気な女! まとめてミルグラム様の盤上に叩き落としてあげる!!」
ルーシーが叫んだ瞬間。
エンリとジュリの足元の床が、まるで最初から存在しなかったかのように『消失』した。
「……っ!」
「王子様っ!」
重力に従い、暗黒の深淵へと落下していく二人。
しかし、落下する空中でさえ、ジュリは素早くエンリの身体を抱き寄せ、自らが下になる体勢をとった。
「……ジュリ、離れろ! 僕のゲートで衝撃を逃がす!」
「いけません! 王子様のその大切な頭脳を、一瞬たりとも危険に晒すわけには参りませんわ! 私というクッションを存分に使って、安全に着地なさってくださいませ……っ♡」
「いや、クッションっていうか……柔らかすぎるだろ!」
視界が完全にブラックアウトし、やがて強制的な転移の光が二人を包み込む。
肉体が再構築されるような不快感の後、二人の足裏に硬い感触が戻った。
次に目を開けた時、そこは——四方を巨大な半透明の壁で囲まれた、観測不能の理不尽な『死の演算』の会場。
壁の向こう側では、無数のモニターを前にしたミルグラムたちが、二人を冷酷なモルモットとして眺めていた。
「……ハックのしがいがある。実に面白い環境だな」
エンリは立ち上がり、眼鏡をクイと押し上げると、不敵な笑みを浮かべた。
世界の理を強要する絶対者と、それを破壊するハッカー。
いよいよ、命懸けのデスゲームの幕が上がった。




