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過剰な献身と、ボイル=シャルルの福音

新宿第4ダンジョン、中層エリア。

一切の魔物を寄せ付けない絶対的な結界セーフエリアの内側に、その異質な空間は展開されていた。


ガンスリンガーから『慰謝料』という名目で合法的に巻き上げた、彼らのクランの全資産。その莫大な活動資金を惜しげもなく投入し、裏ルートの転送便で地上から取り寄せた最高級の「移動式スイート・ヴィラ」である。

魔石駆動による完璧な空調設備、ふかふかの特注ソファ、そしてテーブルの上には、ダンジョン探索とは到底結びつかない異常な光景が広がっていた。


「……やりすぎじゃないか、ジュリ」


古海縁理フルミ・エンリは、ソファに深く腰掛けながら呆れたように呟いた。

目の前には、地上でも予約が半年待ちという超高級レストランからそのまま転送されてきた、A5ランク黒毛和牛のステーキ、トリュフを贅沢に削りかけた濃厚なリゾット、そしてヴィンテージの高級ブドウジュースが並べられている。食欲を刺激する暴力的なまでの芳香が、ヴィラの中に充満していた。


「何を仰いますか、王子様。敵対クランから回収したリソースを、最も幸福度の高い形で再投資する……これこそが合理的な資金運用というものですわ」


秤珠里ハカリ・ジュリはそう言いながら、どこからどう見ても『ナース服』を彷彿とさせる、純白でタイトな特注の秘書服に着替え、救急箱を抱えてエンリの隣にぴったりと密着した。


「白は清潔感を保つだけでなく、光を反射し視認性を高めるため、医療行為において最も合理的な色彩設計なのです。……それよりも、王子様! 先ほどの戦闘による右腕の神経疲労、一刻を争う事態ですわ! さあ、すぐに私にその腕を預けてください!」


「……いや、少し指先がピリつく程度だ。あの程度の座標切り替えで腕は壊れない。安静にしていれば数分で直る」


「大したことではない!? 王子様のその指先は、世界の理を書き換える聖なるポインターなのです!」


ジュリは悲痛な声を上げ、エンリの右手を強引に両手で包み込んだ。


「何千回という座標ポータルの再計算と更新。王子様の脳から発せられた電気信号は、右腕の神経系をかつてない速度で駆け抜けました。その結果生じたシナプスの疲労と、筋繊維の微細な断裂……これを放置すれば、最悪の場合、腱鞘炎や神経障害を引き起こします! もし万が一、神経伝達のラグによってポータルの展開が0.001秒でも遅れたら……! ああ、想像しただけで私の心拍数が危険域に達してしまいます……っ!」


ジュリは涙目になりながら、エンリの右手を奪い取ると、あろうことか自身の豊かな胸の谷間に、その右腕を力ずくで挟み込んだ。


「なっ、おい! 何をしている!」


「合理的な『哺乳類式・温熱療法』ですわ! 私の深部体温と、この密着による心音の微振動マッサージこそが、末梢神経系の血流を促進し、疲労物質の排出を最も効率化させるというデータが、今、私の脳内で弾き出されました! さあ、私の柔らかい熱に包まれて、細胞レベルで癒やされてください……っ♡」


(……熱すぎる! 柔らかすぎる! むしろこいつの心音がうるさすぎて、こっちの自律神経がバグりそうなんだが!)


エンリは死ぬ気でポーカーフェイスを維持したが、首筋から耳にかけて赤く染まっていくのを止めることができなかった。

腕に押し当てられる、圧倒的な質量の弾力。ジュリの甘い香水と、先ほどの戦闘で微かにかいた汗の匂いが混ざり合い、エンリの理性ファイアウォールに猛烈なサイバー攻撃を仕掛けてくる。


(……考えろ。意識をそらすんだ。別の演算に集中しろ。ただのタンパク質と水分の衝突だ。物理現象に過ぎない……!)


エンリはギュッと目を閉じ、意識を無理やり『物理演算の深淵』へとダイブさせた。

今日の戦闘で、彼は弾丸という「個体」のベクトルをハッキングした。一対のポータルの出口を高速で動かし、仮想的な多点攻撃を実現させた。

ならば、ゲートの制約に縛られたままでもできる、次のステップ(応用)は何か。


(……気体、すなわち『気圧』の操作だ)


エンリの脳内で、冷徹な数式が組み上がっていく。

ボイル=シャルルの法則。一定の温度下において、気体の圧力は体積に反比例する。

エンリの『虚空のヴォイド・ゲート』は、空間と空間を繋ぐ穴だ。もし、その片方の入口を、極端な『高圧環境』や、あるいは空気の存在しない『真空環境』に設置したとしたらどうなる?


(例えば、入口を深海の底のような超高圧の座標に繋ぎ、出口を『密閉された部屋』の中に開いたとする。……凄まじい質量の空気が一瞬で流れ込み、部屋の中の気圧は数千ヘクトパスカルまで跳ね上がる。人体は圧力で押し潰され、肺が破裂する)


逆に、入口を真空空間に繋いだ場合はどうなるか。


(出口を開いた瞬間、部屋の中の空気はコンマ数秒で吸い出される。気圧の急激な低下……『減圧爆発』だ。血液中の窒素が気泡化して沸騰し、鼓膜は破れ、眼球は内圧に耐えきれずに破裂する。頑丈な密室であればあるほど、逃げ場のないその箱自体が、内側からすべてを破壊する最悪の処刑室に変わるわけだ)


それは、魔法の炎や雷など足元にも及ばない、純粋な物理法則の暴力。

空間という『器』そのものを武器にする、最強の広域制圧ハック。


(……面白い。条件さえ整えば、どんな強固な装甲を持った敵だろうと、戦う前に内側から破壊できる)


純粋な物理学者としての知的好奇心。そして、新たなバグの応用を見つけたハッカーとしての邪悪な喜びが、エンリの唇の端をわずかに吊り上げた。


「……ふふっ、王子様。何か、とても恐ろしくて素晴らしいことを考えていらっしゃいますね?」


ジュリがエンリの耳元で熱い吐息を漏らし、さらに腕への密着ホールドを強めてきた。

彼女の目は、エンリの凶悪な思考を完全に察知し、その才能にさらに惚れ込んでいるように濡れていた。


「……ああ。次の物理ハックの構想だ。僕のゲートの性質を利用した、空気圧の操作理論」


「素敵ですわ……。その冷徹なまでの探究心、そして常に世界の理を出し抜こうとするその思考回路……ますます惚れ直してしまいました。王子様のその頭脳には、絶対に私が最高の栄養を届けなければなりませんね」


ジュリは空いている方の手でフォークを持ち、最高級のA5ランク和牛のステーキを一切れ刺した。

そして、それを自分の口元に寄せ、ふーふーと色っぽく息を吹きかけて少しだけ冷ます。


「さあ、私のお給仕です。お口を開けてください、王子様。あーん……♡」


「……自分で食べる」


「ダメです。王子様の右腕は、今私の胸の中で絶賛治療中ホールドなのですから! 動かしてはいけません! それに、咀嚼以外のエネルギー消費は、今の王子様には無駄な摩擦ですわ!」


逃げ場はない。

最高級のディナーと、重すぎる愛の強制治療。

恐るべき『減圧爆発』の理論を構築し、世界の法則を片手間で書き換えようとする男は今、一人の有能すぎる秘書の「合理的包囲網」の前に、かつてないほど激しい精神的疲労デレに晒されていたのであった。

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