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5.絡み付く諦念と燃え滾る渇望

一瞬の警戒。次いで僅かな期待を持って飛び上がり、そこに立つ男の姿に険を強めて睨め付ける。

ハールィン・アスト・ウォル・サハール。彼が人目を憚るように訪れたのは、因縁浅からぬ暗殺者の部屋だった。


「そう無碍にしないでくれ。少し、話があって来ただけだ」


「……話?…まぁいいわ」


男の言葉に訝しい目を向け、言いながら顎をしゃくり、室内へと促す。

あの夜を境に接点は無く。関わりを避けるように過ごしてきた。

元は標的と差し向けられた刺客。或いは突飛な行動に出ないとも限らない男を前に、ロミアは部屋の隅に立て掛けた孤月を一瞥すると、早々に用件を尋ねた。


「…それで、話っていうのは何?」


「端的に言おう。君を雇いたい」


「……どういう事?」


「私の命を狙った者、またこれに関与した者を全て殺してほしい。報酬は望むだけ支払う」


「…あんた…本気で言ってるの…?」


そうして、事も無げに言い放つハールィンの言葉に、耳を疑い詳細を問う。

自身の命を狙った暗殺者を雇うなど、正気の沙汰とは思えない。

この男に自尊心と言うものは無いのか。汚辱とは思わないのだろうか。

仮に寝返れと言う話なら分からないでもない。が、得体の知れない暗殺者を侍らせ醜聞を流すより、高ランクの冒険者や騎士を雇った方が体裁も良い。報復が目的なら他に幾らでも方法はあるだろう。なのに何故今、自分なのか。

ロミアの言葉は理由を問うているよりも寧ろ、呆れ、蔑んでいるかのよう。そんな、内心も透けて見える暗殺者の表情に苦笑いを零し、ハールィンは依頼の意図を語り始めた。


「ふっ…そんなに意外かな。まぁ話は最後まで聞いてもらいたい。…私は、ようやく手に入れた幸せを脅かされたくない。君とて、彼に解放された後は暗殺の失敗による制裁を免れないだろう。であれば、我々の間には何もなかった。そうするのが、お互いの為とは思わないかい?」


「…それって…」


「そう、つまりは…ハールィン・アスト・ウォル・サハールを殺してほしい。そんな依頼など最初から存在しなかった。君が受けた依頼は侯爵である私の殺害を企てた国家の反逆者を消す事。今、此処に居るのは情報の擦り合わせを行う為と…言いようは幾らでもある。金は手に入り、誰にとっても得でしかない話。後は、君の組織がどう判断するかだが…聞くまでもないだろう。どうだい?君にとっても悪い話じゃないと思うが」


薄々と浮かび上がる筋書き。目の前の男が抱える後顧の憂い。

例え自身を退けたとて、新たな刺客が送り込まれる事は目に見えている。

であれば対抗策を練るよりも、元凶を断つ方が話は早いだろう。

情報は既に手の内。事情まで織り込み済みであれば裏切られる心配もなく、自身の安全を得る為に注力してくれる。

ロミアは今、侯爵にとって最も都合が良い存在と言える。

ならば確かに。自身を殺しに来た暗殺者に依頼とは名ばかりの取引を持ち掛けるのも頷ける。

屈辱的ではあるだろうが、利用していると思えば多少なり、溜飲も下がるだろう。

どちらにとっても益のある話。断る理由は当然ない。が、まるで全てを見透かし、采配を振る様はあの男の存在を否応無く想起させる。

何より、そこはかとなく感じる優しさに、そうであってほしいという願いを込めて。ロミアはハールィンに答え、そしてこう問い掛けた。


「………いいわ。その依頼、あたしが請け負う。けど、一つ聞かせて。これはあんたが考えたの?」


「…いや、今の私には及びもしない考えだった。全てを無かった事にすればいい。そう言った彼の表情は穏やかで、淡々としていたよ。…この機を逃し、後に殺されようと俺の知った事じゃない。選ぶのはお前だ、とね。…倫理観や、或いは立場など…彼は人が人である故の葛藤を無為なものとでも思っているのだろう。一皮剥けば皆選ぶ。自身にとって価値あるものを…。だったら最初から悩む必要などないと、そうはっきり言った。そして私は今、自身にとって価値ある未来を選び、屈辱を噛み殺して君に依頼をしている。…だったら確かに、何も考えずに寝ていれば良かったと思わないでもない」


果たして。ロミアの想像通り、全ては男の手の上と明かされる。

事は数日前。ファティルを学院へ通わせるべくハールィンの部屋を訪れた際。ヨルがリースを呼び付けると、この間に幾度となく溜息を吐き、額を揉むハールィンの姿にやれやれと事情を聞いた事に起因する。

安寧は遠く、制裁は近く。僅かにでも感じる責任と義務を果たすべく少女の為にと動くなら、一人も二人も変わらない。そして、たった一言告げるだけなら二人も三人もそう変わりはしないと。互いに互いの尻を拭えばいい。そんな助言を授けて幾許か。

悩み、決断し訪れる。それら全てが自身の為などと、都合の良い解釈を得るまでに至るロミアの天秤。


あの夜、渾身の一撃をあっさりと弾かれ、死を前に命を乞う。次いで浮かんだのは興味も失せ始めた自身の未来。有り体に言って、どうでも良かったのかもしれない。

少女の後ろ姿に幼い妹の姿を重ねて以降、妹の事を考えることが減ったのも、知らずこの先の事を諦めていたからだろう。

答えでもなく選択でもない猶予を与えられ。ロミアは眠れぬ夜に自問自答を繰り返した。


「…戻れって…そう言ってるのよね。…あたしの為…シャラと過ごせるように。戻って…二人でまた人を殺しながら生きていく。これまでと何も変わらない…何も…変わらない。でも今なら…」


一人ベッドに横たわり、天井を見つめ呟きを零す。ハールィンが部屋を後にしてから既に数十分。ロミアはこれまでを思い返し、男の言葉を思い起こし、男の顔を思い浮かべていた。

目の前にぼんやりと浮かぶ選択は拾い、育て、積み重ねてきた妹と闇に生きる事。そしてもう一つ。全てを投げ出し生きていく。そんな、現実逃避に近い妄想さえ、今は光って見える。


「…侯爵の…違う、ヨルのお陰でもう何を気にする必要もなく帰る事は出来る。けど、ギルドに戻ってどうするの。また、あの鬱屈とした日々に…ただ依頼を受けて殺すだけの日々に戻る。…ヨルは何処を目指してるのかしら。…待ってる人って誰…あたしは、どうしたいの。…もし…もし、付いて行くなら…一緒に旅をして…それで………って……あたし何考えてるの…!?」


がばっ…!


言いながら、羞恥を覚え。枕を手に取り顔に乗せる。

馴れ合い始めた関係。もう、何を憂う事もない胸は余裕を生み、今をより鮮烈に魅せる。

後はもう、選ぶだけ。


少女の手を引き、侯爵に助言を授け。女は…男と共に在る未来を与えられたと履き違う。全てを見透かすなど程遠い、男にとって最大の誤算が芽吹き始める。

言葉通り、身を斬っても惜しくはない妹の存在。命の儚さを知れば自ずと見えてくる答え。

誰に価値を認められずとも、価値を認めた者の為に。

何処に希望と救いが無かろうと、自身が希望と成って救い出す。そう思うのが必然と高を括る男は、女の諦念を見誤った。


「…大して言葉を交わした訳じゃないけど、あいつの剣が教えてくれた。関係無いとか…ふふっ。どの口が言うのよ。あの男なら…別にいいかなって思ってるあたしがいる。ううん違う…ヨルがいいって思ってるあたしがいる。…好き…なのかしら。…性格が歪んでて…少しだけ優しくて…誰かの為にあそこまで必死になれる。それがもし、あたしの為だったら…明日も見えないこの闇からも救ってくれるの…?」


日を追うごとに増していく居心地の良さ。剣戟を交わす度に知っていく本質。

不可解な言動と、これに相反する想い。男はただ、優しいだけ。

無論、彼の精霊が言うように、複雑な胸の内もあるだろう。まだ底は知れず、だからと言って事実は変わらない。

答えを見た後に問題を見るような。右往左往と考えを巡らせていた自身の姿が失笑を誘うと、同時に吹いて消える男の言葉。


猶予を与えたのは妹の元へ戻り、二人が望む未来を掴む為。それが女の願いであり幸せだと、誰もがそう思ったに違いない。

長く、染み付いた諦念は選ぶべき選択を覆い隠し、新たな答えを浮かび上がらせた。


ごろん…


「……こんな気持ち、知らなかった。あたしもちゃんと、女だったのね。…けど、全てを捨ててヨルに付いて行ったらシャラはどうなるの…あたし…最低ね。それでも、選ぶ権利くらいあってもいいじゃない。…あたしにとって価値ある未来…一皮剥けば皆選ぶ…か。きっともうあたしの心は決まってる…罪悪感に、それらしく悩んでる振りをしてるだけ…」


未来を変える事が出来る力。いつかと望んだ世界を垣間見せ、何も奪わず優しく与える。

男に惚れた者など数知れず、そしていつか誰かが後に言う。


『…巡り合わせとは…運命とは数奇なもの。状況が、順序が、そして何より心を穿つ言葉全てが一致した刻に…目の前に居たのがーーだった。ただそれだけの事』


何が、ではない全てが。言葉が、想いが、剣が。

そしてこの先を縋れるだけの力が。ロミアの闇を照らし、淡い好意を芽吹かせた。

しかし。とは言えまだそれだけでは『今』と異なる。残りも僅かとなった二人の時間。こうまで諦め果てる女を縛っているものは何なのか。その楔はどうやって抜き放たれるのか。

自身の気持ちに気付いたロミアはもう、何を取り繕う事もなくありのまま、荒々しく男との距離を縮めようと迫っていった。


「…ねぇ、何処を目指して旅をしてるの?待ってる人って家族?…それとも…」


「はぁ…お前何か変な物でも食ったのか?朝からしつこいぞ。何も答える事はないと言った筈だ」


むぎゅっ…


「ちょっ…別にいいじゃない、減るものじゃないし」


ぱくっ。


翌日。

朝の稽古を終え、昼の休憩に簡素な食事を挟んで顔を近づける。女は性懲りも無く問い掛け、男はいつものように溜息を零し、女の顔を押し返した。


これまでであれば踏み込む事も無かった域。

一度あしらわれたならそれっきり。触れるべきではない。関わるべきではない。知る必要も、知りたいと思う事も無かった。

なのに。初めての感情に振り回されもじもじと。また悪態をついて食事を頬張る。

恋とは、愛とは、人を如実に変えていく。

一度気付いたら止められない。加速度的に高まる気持ちも露知らず。ヨルは強引に話題を引き戻した。


「そんな事より、そろそろ実戦的な修行に移る。お前の技を見せろ。勿論、魔力を使って構わない。…ファティルも今日から正式に学院の生徒だ。友が出来るのも時間の問題だろう。あいつが戻るまで…それまでに一通りは見ておきたい」


「…なら、技を見せるから質問に答えて」


「…お前に条件を課す権利はない」


「そうね。けど、素人のあんた相手に実戦じゃ使い物にならない技を見せる事も出来る。これはあたしの気分次第。あの黒い影との修行が無意味なものにならないといいわねぇ」


ぴゅーぴゅぴゅー♫


「…お前…なかなかに性格悪いな。…はぁ…答えられる範囲で答えてやる」


「ふふっ!そうこなくっちゃ!俄然やる気が出てきたわ!」


ばっ!


近く訪れる別離を仄めかし、日の流れを感じ入る。

今日はファティルが寮へと入る日。数日前から姿の見えない少女は部屋に篭り勉学に勤しみ。同じく姿の見えない精霊はこれに付き合わされる。

少女と精霊の積み重ね。

アリカは少女の通う学院へと赴き、今も成り行きを見守っている。

恐らくは男の言う通り、数日もしない内に屋敷へ戻り、喧しくも友が出来たと騒ぐだろう。

…しかし、こちらはこちらで見誤る。芽生えた夢と向上心。今は相手にもされない憧れ。そのしつこさと煩わしさにアリカがどこまで耐えれるか…。


また同様に。迫る刻限を計り、頃合いと言って求めてみれば…。

不快感を滲ませる男に対し、これを好機と意地悪く言い募る。

彼の地を踏破する為に必要と割り切れば、支払っても致し方ない代償。

別に隠している訳でもないが…一つ明かせば根掘り葉掘りと聞いてくるに違いない。


逡巡の末、渋々と応える男に笑みを向け。意気込みも新たに剣を構えるロミア。

実戦もさながらに苛烈さを増していく修練は、夜の帷が降りるまで続けられた。


「…ふぅ…今日はここまでだ。思っていたよりも多いな。技の名前を覚えるだけで一苦労だ」


「一日で全部見せろって言うあんたが滅茶苦茶なのよ。…それで、さっきも聞いたけど…あんた、何処を目指して旅をしてるの?」


「やれやれ…そうせっつくな。話さないとは言っていないだろう。少し休ませてくれ」


「…焦れったいわね。口を動かすくらい出来るでしょ。勿体ぶらずに教えて」


(…あーあ…あたしって…何でこんな言い方しか出来ないのよ…)


柔らかい芝に身体を投げ出し息を吐く。男の横で、胡座をかいて座る女はようやく来た稽古の終わりを待ってましたと問い掛ける。


影帽子。そう名付けた人の形を模した闇。これを相手に、旅の途中も鍛錬に励む為、女の技を受け、動きや特徴を余す事なく頭と身体に刻み込む。

これをして肉体的、精神的な疲労も少なくはない男の言葉に、理解を示したくとも示せない。

時間が無いのは彼女も同じ。いつ訪れるかも分からない別れを前に少しでも長く、少しでも多く言葉を交わし、男を知りたい。


女性らしい振る舞いなど分からず、思い通りにならない感情。どこか苛立っている様子のロミアを見て、嫌な予感を覚える。

ヨルは俯く女から視線を切ると、起き上がり、夜空を眺めながら答えを返した。


すっ…


「…西の果て。俺が目指してるのは西の果てだ」


「……西の果て…確か、余り評判は良くないけどアニスミリア共和国っていう小国があったわね。…そこに、あんたを待ってる人がいるの?」


「…いや…もっと、ずっと遠い場所にいる」


「…何よそれ。どういう意味?」


「さぁな。だから…辿り着けるかは俺にも分からない…」


「………………」


筆舌に尽くし難い表情に浮かぶ覚悟。悲しみと怒り。絶望と諦念、僅かな希望。

それら全てを綯い交ぜに答える男の瞳は何を。いや、誰を映しているのだろうか。


西と言われ、一番に思い浮かぶのはヴィランツ教の総本山、エイセム。

西方大陸の半分を占め、世界に多大な影響力を持つと言う彼の国であれば…。

しかし、目の前の男と教会に繋がりがあるとは思えない。

であれば。人売国家と揶揄され、近隣諸国から爪弾きにされているアニスミリア共和国。

無論、そんな国と関わりがあるとは思ってもいないが、大陸の西端と言う事であれば真っ先に思い浮かぶ。


男が予期した通り、続け様に疑問を呈し、答えを探るロミア。

しかし、もうこれ以上語る気はないと。顔を背け、夜空を見上げる男を見つめ…幾度目かの言葉に違和感を覚える。


ヨルにとって、何より大切な者が待つ場所。

それが街や村、国であれば例え魔族の住まう地であっても言う程難しいとは思えない。だが、思い違いをしているとしたら…。

これまでも、難解な男の言葉に翻弄されてきたのだから、有り得ない話ではないだろう。

…そんな風に考えを巡らせ。目的地を問いただして、どうするのか。

男の事を知った気になってどうなるのか。

辿り着いてしまえばそれっきり。…けれどもし。もし、と。利己的な考えがロミアの口から零れ落ちた。


「もし…あんたの言う、その場所へ辿り着けなかったら…」


「そんな事は考えても仕方ない。…お前、賭博は?」


「…何よ急に。まぁ嗜む程度にやるわ」


「負けるつもりで賭けないだろ。それと同じだ」


「…あんたっていつもそうよね。それらしく例えてはいるけど答えになってない。あたしが聞いてるのはそういう事じゃないわ。もし辿り着けなかったらあんた…その先はどうするの」


「…どうもしないさ。ただ虚に生きるか…或いはのたれ死んでいるか…これが、最後の希望なんだ…」


ロミアの問いに対し、男は拳を握ると、悲哀の滲む顔を地面に向けてそう言った。


『…怖いさ。怖いに決まっている…。もし、辿り着けなかったらと思うと不安で堪らない』


判然としない旅の目的地を含め、疑問は多々あれど。行き着く先が、何処であろうと。

いや、行き着けない可能性もあるらしいと。僅かにでも汲んでしまった浅ましさ。


もし、辿り着けなかったら…。


知らず膨らませた妄想が現実味を帯び始める。


もう何年も、長いこと悩み続けてきた。どうすればこの深い闇から抜け出せるのか。

悩む振りをする事で希望はあるのだと言い聞かせ。妹の為と言いながら、結局は自分の為。

一人で生きるには余りにも殺伐とした世界。誰かに、側に居てほしかっただけなのかもしれない。

こんな日が来ると知っていれば、苦悩も無かった。

いつかと夢見た日が訪れると知っていれば葛藤も無かった。

自分勝手は百も承知。けれどきっと今が、最初で最後の分水嶺…だと信じた。


「……ねぇ…」


「何だ」


「あたしを…あんたの旅に連れてって」


「おいおい…」


「あんたの言う、その場所へ辿り着けるまででいい。でももし、辿り着けなかったら…そのまま側に居させて。あんたにとっても利点は多い筈。旅の最中に剣を教えられるし…伽を望むなら…しても構わないわ…」


「…そのがさつな性格でよく言えたもんだ。恥ずかしいなら言わなければいいだろう。ったく…ハールィンはまだお前の所へ来てないのか」


たった数日。想いを自覚してからはほんの一日で。いや、そうではない。女はもう何年も思い悩み、決断をあぐねてきた。

言葉は切っ掛けに過ぎず。芽生えた気持ちが女の背を押し、ありうべからざる道へ一歩踏み出させる。


変わる声音と雰囲気。余りにも唐突に切り出された願いに狼狽える男に対し、早口で捲し立てる。とは言え、可能性はあった。女が全てを捨て置き逃げ出す未来。そんな、誰にとっても益のない終わりにならないよう、憂いを断つべく告げてきた。

あの日、涙を零した女の言葉が偽りとは思えない。となれば可能性は一つ。知れば考えも変わるだろうと、軽い気持ちで問い返す。

ロミアの見出した答えは男をして、想像を超えるものだった。


「昨夜、部屋を訪ねてきたわ…」


「なら、どうしてそんな答えになる」


「…訪ねてきたからよ。もう、あんな鬱屈とした日々には戻りたくない。お節介とまでは言わないわ…けど…あたしにとって侯爵の言葉は、希望にも、救いにもならなかった。…もし、こんなあたしに救いがあるとすればヨル、それはあんたと出逢えた事。…言葉や、態度以上にあんたの振る剣が教えてくれた。あんたがどういう人間かを。冷酷無残…そんなのは見せかけだけ。本当はとても優しくて、真っ直ぐで…心が澄んでいる。そんなあんたと一緒に過ごす日々が、あたしの求めていたものだって気付いた。ううん違う…あんたが、そう思わせたのよ。あんたはあたしの希望…あんたの側でなら、望んだ未来も見える気がする。だから…その為なら全部捨てたって構わない…!一緒に連れていって!あたしはヨル、あんたが好きっ!」


無表情に無愛想を貼り付け、女の答えを訝しむ。ハールィンは思惑通り彼女の元を訪れ、女は殺しの手間を代価に制裁を免れる。後はもう妹の元へ帰り、何をするのも女の自由。


妹と共に組織を離れ、穏やかな日々を送る。きっとこれが、ロミアの望む未来だと。そう、思っていた。

このまま闇に飲まれれば、遅かれ早かれ命を落とす。自分が先か、大切な妹が先かなど些細な事。そんな、死と隣合わせの世界に居ることを思い知れば、必然と浮かび上がる答え。それなのに…。

一体、何がどうしてこうなった。少しずつ馴れ合い、積み重ねた自覚はある。が、予兆など、前触れなど皆無に等しい突然の告白。一息に言い尽くす思いの丈はまるで悲痛な叫びのようにも聞く事が出来る。

女がどう生きて、どう死のうがこれ以上は関係無い。知った事でもないが、そう言ってしまえばどうなるか。

今この瞬間に悪辣極まる想いを受けて、ヨルは珍しくも慌てふためき必死にロミアを諭そうと試みた。…けれど…。


「…ちょっと待て…!そんなのは…」


「気の迷いなんかじゃないわ!…戻れって…そう言いたいんでしょ。…お嬢ちゃんに言ったように…あたしには妹と、シャラと一緒に陽の下を歩けって…その為の時間をくれた。…けど、戻ったってあたしには何も出来ない…!陽の下を歩いていける日々はあんたの側にしかないっ!…初めてだから…これが好きって感情なのか、いまいち自信がないけど…あんたの事を知りたい。あんたの近くに居たい。あんたに…抱かれてみたいって思うのは…そういう事でしょ…」


「…やれやれ…お前、一体何から逃げている。何故、諦めた」


「…それは…」


「俺はお前に、大切な者を守る為。或いは欲するものがあるなら手を伸ばせと、そう伝えたつもりだ。…人生、後悔してからじゃ遅い事は腐る程ある。…今回はたまたま、運が良かっただけ。次もまた命が助かる保証は何処にもない。…今ならまだ間に合う。掴みたい未来を諦め、いつかなんて虚しい奇跡を待ってるだけのお前に、一歩踏み出す勇気も見せた。…あいつは、もう二度と望みを取り零す事はないだろう。少なくとも、欲するものを諦めるなんて選択はしない筈だ。それに比べて…。お前の気持ちを否定する気はない。お前が好きだと言うならそうなんだろう。けど、俺は大切な者を置き去り、逃げ出すような女を側に置きたいとは思わない」


男の言葉を遮り、身を乗り出して言い募る。女が何を求めているのか。悩み、葛藤は何なのか。

想像に容易く。しかし、ここまで一切明かされず、触れられてすらいないその理由。己が命も尽きようかと言う窮地に口を衝く、妹への未練。

であれば迷って然るべき。たった数日と、幾年月をかけて積み重ねた絆。これらを乗せた天秤が何方に傾くかは聞くまでもなかった筈。


踏み込む気など更々無い。義務を果たしてくれたらそれでいい。その過程で多少馴れ合う事はあったとしても、これ以上知る必要も、明かす必要もありはしない。が、このまま放っておくには余りにも危う過ぎる。

ヨルはロミアに諦念を問い、これまでの言動、その意味を説くと共に、この状況で何とも卑怯な言い回しを使い、答えをはぐらかしてみせた。


「…………それは…あんたに力があるから…そう言えるのよ…」


すっ…


「なるほど…それが望みを諦めた理由か。ちっ…たかが命一つ賭ける程度で欲しいものが手に入る。お前は自分がどれだけ恵まれているか分かってるのか」


「たかが…って…言ってくれるわね。…分かる訳ないでしょ!…歯向かえば殺され、逃げても追手に殺される。どうにもならないのよっ!…力があればあたしだってシャラを…妹と二人で生きる事を諦めたりしなかった!これのどこが恵まれてるって言うのよっ!?」


いつものように見透かした口調。立ち上がり、文字通り上から目線で語るヨルに対し、持つ者が持たざる者を理解する事など出来ないと、声を荒げるロミア。その一言で凡そ察することが出来る諦観、これに至る理由はなんて事ない、死への恐怖だった。


それも致し方ないだろう。組織でも一、二を争う実力者。しかし、その上には頭と呼ばれる者が控えている。

これまで数多の人間を殺してきたが、その中には当然、ロミアのように組織を逃げ出そうとした者も居た。

数は暴力。知は力。忍ばせた配下と、其処彼処に張り巡らされた情報網。気の休まる事のない逃亡生活は心身を摩耗させ、抵抗も無く命を差し出した者も少なくはない。それを間近で見てきたロミアが後悔を抱くのに、そう時間は掛からなかった。

ヨルの言葉に喰ってかかる女の言は一理ある。が、これについては相手が悪い。自分だけが不幸だとでも思っている女に向け、ヨルは旅の目的地を詳らかに明かし始めた。


「…お前、俺が何処を目指してるか知りたがっていたな。そんなに知りたきゃ教えてやる。俺が目指してるのは神聖の大樹。その頂だ」


「…神聖の…それって…まさか…!?」


「そのまさかだ。言っただろう。俺を待ってる奴がいる。この世界の何をどうしても叶わないと言われた願い…あいつの所へ帰る為に俺は…何を犠牲にし、何を代償として支払う事になっても…天樹の迷宮を踏破してみせると決めた」


「…無理よっ!いくらあんたが馬鹿げた魔力を持っていても…あそこは過去に誰一人…この世界で絶大な力を持つ異世界人でさえ、踏破した人間はいないのよ!?…この世界に点在する幾つもの迷宮、これらが踏破されていない理由とは訳が違う!あそこは…!神聖の大樹は…」


「そんな事は知っている。…何でも願いが叶うと言う御伽話を信じ、何処まで続くかも分からない木を登る。…それでも…あいつに会えるかどうかは分からない…いや、眉唾の可能性の方が高いだろう。自分でも甚だ馬鹿らしいと思っている。けど、そんなものに縋るしか道はない…!俺がどれだけの想いを懸けているか。剣を通じて理解したと言うなら分かるだろう。これを聞いてもまだ力があるからと、そう言えるのか。…無くはないだけの可能性に命を賭ける俺と、手の届く場所にある未来を掴む為に命を賭けるお前。果たして、何方がより過酷な現実と向き合っているか…俺がお前の立場なら、なんて優しい世界なんだと神に感謝もしただろう」


それは今より数ヶ月前の事。

全てを奪われ、絶望に打ち拉がれる。男が気を紛らわせる為に訪れた書庫で手にした一冊の本。

旅の切っ掛けでもあり、生きる希望ともなったそれにはこう記されていた。


『西方大陸の遥か西。名も無き孤島に天を穿つ大樹在り。その頂きへと至る者は望む全てを手に入れる』


愛する女の元へ帰る為、そんな都市伝説に縋るしかない男にとって、ロミアの諦念など甘えが過ぎて余りある。

前人未踏と言われる難度の高さ。後に彼女を助ける為、易々と踏破記録を塗り替えたフェルメース近郊の迷宮とは訳が違う。

前人未踏などと言われてはいるが、実際には地上一階さえ越えられた者はいない。

神聖の大樹。天樹の迷宮。そして、絶望を垣間見た者達は彼の地をこう呼んだ。竜の棲まう地。


「…っ…………」


「俺に付いてきても生きるか死ぬか。何方にせよ、俺はお前の前から居なくなる。死ぬか消えるかの差しかない。…登り、叶わず生き残る。そんな、お前にとって都合の良い未来があったとして、そこに居る俺はもう…お前が惚れた男じゃなくなっているだろう。もう一度よく考えろ。付いてくるのはお前の勝手。そして、お前を振り払うかどうかは俺の勝手だ」


ざっ…ざっ…ざっ…


「…………あたしは……どうしたらいいのよ…」


言いながら、この場を去って行く男の背に手を伸ばし、声にならない呟きを落とす。

蒼い炎のように揺らめく想い。その全てが明かされ、得心を得る。

辿り着けるか分からない。そう言って少女を諭す男の言葉に疑念もあった。しかし、ぐうの音も出ない程に言い負かされる。

辿り着けるか分からない。ではなく、辿り着ける筈がない。一縷の望みさえある筈がない。自殺行為に等しい愚行。それらを理解した上で尚、諦める気はないと言う。その目は本気だった。

結局、救いなど何処にもない。闇を彷徨い、生きていくしか道はない。意気消沈と部屋へ戻り、気付けば夜は明け陽は沈む。何をしていたのかも分からない程に曖昧な一日。

男は今何をしているのだろうか。何を考えているのだろうか。何故、声も掛けずにそっとしておいてくれたのだろうか。


「…明日は流石に…顔を合わせないと不味いわよね…はぁ…あたしどうしちゃったの…」


思い通りにならない現実。救いも、希望も、全ては男と共に在ると。それが答えだと、そう思っていた。

学び、知って経験を積めば触れずとも火が熱い事を理解する。であれば避けて当然、逃げて当然。強者に縋って何が悪い。

身に降りかかる火の粉などない方が良いに決まっている。それが生きる術と教わり染み付いた。

硬く、分厚い殻の中でもがき苦しむ。芽生えた恋心。姉と慕ってくれる妹への想い。求め望んだ平穏な日々。これら全てを得るなど到底不可能。そんな、諦念と願いが渦巻く葛藤も、まだ何も解らない少女にとっては、取るに足らない瑣末な事だった。


たったったったっ!


ばっ…!


「お父様っ!ヨルは!?ヨルは何処ですか!?」


「お帰り、ファティル。学院の方はどうだい?」


「お父様っ!」


「分かっているから少し落ち着きなさい。まったく…ヨルは今、庭であの女と模擬戦をしているよ」


「ありがとうございます!アリカ、ヨルの所へ行きましょ!」


たったったったったっ!


翌日。奇しくも今日は学院の休講日。屋敷の地下にある薄暗い物置部屋で、自身を出迎える父に駆け寄り、喧しく問いただす。

まだ友が出来た訳ではない。が、出来る事が何もないなら大好きな人の側に居たい。そう思う気持ちに歳は関係ないだろう。

まさか娘がこうまで頑固な性格とは思いもしなかったが、そんな一面さえ愛おしい。全ては彼のお陰。しかし、自身を差し置く言動に複雑な心境であることもまた事実。

苦笑いを零し、答えを告げるハールィンを背に走り出す少女は間も無く。二人が剣戟を交わす庭へとやってきた。


すた…すた…すた…


「…あっ…居たわ!ヨ……」


きーん!きん…がぎーんっ!


「はぁっ!」


屋敷を周り、目に飛び込む男の姿に高鳴る鼓動。しかし、喜び勇んでその名を叫ぶ刹那に気付く。

剣を振り、汗が弾けるその顔に。一目で伝わる真剣さと、近寄り難い雰囲気。


きっと、ヨルも必死に戦っている。誰でもない残酷な世界と。であれば口を閉ざして距離を開け。ファティルはあの日の言葉を思い返しながら、男の姿を静かに追い続けた。


「……………」


「…声を掛けなくていいのか?」


「ヨルの邪魔になるわ」


「お前…本当に次があると思ってるのか?」


「勿論よ。これは私が選んで、私が決めた事。ヨルが何処か遠くに行こうと、二度と会えないと言われようと関係ないわ。だって…会えるか会えないかは然程問題じゃないもの。私がヨルに会いたいから探す。必ず探し出して…その時はもう、子供扱いなんてさせないわ」


「……………」


(…完全に見誤った。話せば諦めも付くと思ったのに…寧ろ決意を固めさせる結果になるなんて。こいつの気持ちも分からなくはないけど…取り敢えずはヨルにどう言い訳するか考えないと…)


瞬きもせず、憧憬を焼き付けんと男を見つめる少女の横で、気まずさと罪悪感に苛まれ、契約者を直視出来ないアリカ。

たった数日の積み重ね。少女と精霊の間に何があったかは、二人のやり取りからも想像が付くだろう。

結局は、話し聞かせる事になる。ファティルのしつこさと喧しさに限界を超えたアリカの忍耐。その叫びには痛切な悲哀がこもっていた。


『いい加減にしろっ!…ヨルはこの世界から消えて居なくなるっ!もう二度と会えないんだ!オレだって…だから!ヨルを忘れない為に名前を貰った!…ヨルは確かに…諦めるなと言った。けど、どうにもならない事だってあるんだっ!…憧れに留めて諦めろ。それがお前の為だ…』


口を開けば男の名を呼び想いを馳せる。アリカとて、別離を望んでいる訳じゃない。まして悪辣に言い放ち、想いを踏み躙ろうとしている訳でもない。

ヨルが手を差し伸べた少女に対し、ただ純粋に傷付く事がないよう諭そうとした。が、結果はご覧の通り。

精霊の言葉は虚しくもただ耳を通り過ぎてゆき。片や、どれだけ言っても止まりはしない。そしてもう片方は、どれだけ言っても進みはせずに立ち止まる。


「…はぁ…お前なぁ…落ち込むのは勝手だが模擬戦くらい真剣にやれ。技の練習にならないだろ」


「…分かってるわよ!けど、しょうがないでしょ…あたしだってこんなの初めてで戸惑ってるんだから!…まるで、心と身体がばらばらになったみたいで…思うように動かないのよ…!」


「…やれやれ、仕方ない。今日はここまでだ。俺は一人でもう少し続けるが…お前は部屋で気持ちを落ち着けてこい。…ったく、剣を打ち合って惚れるなんてのは…アニメの中だけにしてほしいもんだな」


ざっ…ざっ…ざっ…すうっ…


刀を手に、膝をつく女を見下ろし鋒を突き付ける。気まずそうに朝の稽古に顔を出し、男と向き合いじもじと。頬を染め、挨拶を交わして程なくすれば俯き、項垂れる。

見る影もなくなった剣の冴え。馬鹿力と評された膂力も発揮出来ずに斬り伏せられ、持て余す感情を喚き叫ぶ。


諦めた筈なのに手放せない。縋りたくとも死に至り。答えなど見当たらないのに悩み続ける。

滑稽な人間らしい姿。或いはいつものように失せろ、興味が無いと言われていれば吹っ切る事も出来ただろうか。

目的の為に手段を選ばないと決めた男がそれを口にしないのは、当然だった。


「…………何で…優しくするのよ…!優しくしないでよ…もっと強引に、無理やり従わせればいいじゃないっ…!」


背を向け、闇へと消え入る男に向けて苛立ちを叫ぶ女の声が虚しく響く。

誰のせいでもない。全ては何も選べない自分のせい。何も出来ない自分のせいだと分かっている。これは単なる八つ当たり。

ぽっかりと空いた現実を前に肩を落とし、湧き上がる自己嫌悪に苛まれる。

何でもっと上手くやれなかった。これ以上、失望されたらどうする。人の気も知らず燦々と降り注ぐ陽の光に目を細め、力無く立ち上がる。


しかして。足取りも重く屋敷へと戻ったロミアは偶然にも、目の前を横切る人影に口を衝いて声を掛けた。


すた……すた……すた…


「…あら、お嬢ちゃん。久し振りね。学院はどう?少しは慣れた?」


「あなた…ふんっ!どうもこうもないわよ。慣れはしたけど…ヨルに言われた通り、自己紹介で何も知らないから教えてと言ったら学院中の笑い者になったわ」


唐突に鉢合う少女と暗殺者。とは言え、今回はこれと言って用があった訳じゃない。ただ少し、気を紛らわせる何かが欲しい。そう思って声を掛けた程度。故に、選んだ話題もありきたりな世間話だった。


気安い調子で近況を尋ねるロミアに対し、ファティルの言葉は誰が聞いても前途多難。しかし。その言葉とは裏腹に、まるで痛痒を感じている様子もない表情。これは一体何なのか。興味は無くとも気にはなる。と、ロミアは続けてこう口にした。


「…その割には、淡々としてるわね」


「当たり前よ。これくらいで弱音を吐いていたらヨルに嫌味を言われちゃうわ。…私はいつか、ヨルが認める淑女になって、ヨルに会いに行くんだもの」


「あはは…それはまた大層な夢を持ったものね。けど…お嬢ちゃん、それは無理よ。此処を去った後はもう、二度とヨルには会えない…」


「…その話ならアリカから散々聞いたわ。けど、私の意思は変わらない。学院でも剣を学ぶ事に決めたの」


「剣?政治じゃなくて?」


「そうよ!頭が良くてもヨルには会えないもの。剣を学んでヨルを追うわ」


芽生えた向上心に背を押され、夢の蕾が膨らみ始める。

もう、孤独には戻りたくない。だから友が欲しいと手を伸ばし。いつか、あなたに言われた全てを成したと誇る為、筆ではなく剣を選んだ。


あの日、時計塔の上で悟った別離。それとは別にもう一つ。欲するなら掴み取れと教わり、諦めるなと手を引いてくれた。

寝たきりの少女に与えられた初めての箴言。男の言葉はファティルの価値観に深く根付いた。

ヨルとは違う。けれど曇りなく、ただ一人を見つめ想う瞳はロミアの心を容赦なく貫き、人の本質とも言うべき醜悪を曝け出させる。


「あらあら…これを聞いた侯爵がどんな顔をするか見ものね。…一応言っておくけど…全て無駄になるわよ…どう足掻いても会えない。あんたは幼な過ぎる。仮に数年後…追い付いたとして命を落とすだけ。ヨルが目指してるのはそう言う場所なのよ…」


「あなた、私より大人なのに覚えが悪いわね。…辛い、苦しい、怖いと言って諦めれば楽にはなるわ。けど、それは生きる意味を失うのと同じ。死んでいないだけよ。…私はもう、寝て起きて息をするだけの日々に戻りたいとは思わない。今なら、この足で何処へだって行けるもの。…会えなかったらその時に考えればいい。死んだ時も同じよ。会えるか会えないかは問題じゃないわ。重要なのは、私がヨルに会いたいかどうか」


「…どんだけ影響されてるのよ…死んだら考えられないでしょ。それに、あんたがどれだけ言い寄った所でヨルが受け入れてくれるとは限らないじゃない。そうなったら…」


「初めに言ったでしょ。私は、ヨルが認める淑女になって後を追う。…今は何を言っても無理な事くらい私にも分かるわ。いいえ、あの時に解った。だから、お友達を作って、ヨルの言葉が分かるくらい勉強して、剣も覚える。…胸だって…あなたに負けないくらい成長する筈よ!…そうしたらきっと…!だって、ヨルはとっても優しいもの!」


「…ならもし…ヨルが今とは別人のように変わってしまったら…目指した場所へ辿り着けず、廃人になって…虚に生きていたら…あんたはそんなヨルの姿を見ても後悔しないと言い切れるの?」


「え?…そんなの嫌よ」


「なら…」


「もう…!私はまだ、嫌としか言ってないわ。…もし、ヨルが落ち込んで、昏い場所に閉じ籠ってしまったら…私が明るい場所へ連れ出せばいいじゃない。ヨルは私の病気を治してくれた。だから、ヨルが立ち直るまで側に居るわ。ずっと側に居て、私がヨルに元気を出させれば後悔する必要なんてないもの!」


(…あたしは…あたしの想いはお嬢ちゃんにさえ及ばないってわけ…。ロミア・テーゼ…あんたはいつからこんな弱い女になったのよ…!言い訳ばかり並べて…楽な方へ逃げて…結局全部失って…そんなのがあんたの望んだ人生なの…?)


『…あいつは、もう二度と望みを取り零す事はないだろう。少なくとも、欲するものを諦めるなんて選択はしない筈だ』


(裏切りは死と同義…そんな世界で少しでも長く生きる為に逆らわず、それらしい事を言って価値を保ってきた。組織にとって有用であれば切り捨てられる事はない。そのお陰で今日まで生きてこれた。…違う…!そうじゃない。あんたはそうする事しか出来なかったのよ…)


透き通るように真っ直ぐで、純粋な心を…折ってやりたい。

夢は叶わず諦めるものだと、刻み込んでやりたい。そんな、仄暗い感情がふつふつと湧き上がり、口を衝く。

もし、こうなったら。そんなたらればを繰り返すロミアの言葉を凌駕する想い。何を言っても、どれだけ言っても変わらず、澄んだ瞳で決意を語る少女を前に今一度、これまでを振り返る。


道を示し、手を差し伸べようと、諦念を振り払う事が出来ず。ただ項垂れるに過ぎなかった女の心に僅かな変化が起き始める。

前にも、後ろにも進まない気持ち。ヨルと共に過ごし、得たものは初恋だけ。

誰もが優しさだけで心が振れる訳ではない。


物語の主人公には倒すべき敵がいて、ヒロインには譲りたくない好敵手がいる。それが年端もいかない少女となれば、不甲斐なさと憐憫に怒りさえ迸る。


「…羨ましいわね。あたしも、無理無謀が理解出来ない世間知らずだったら…あんたみたいに夢を追っていられたのかしら」


「あなたはヨルを追わないの?」


『俺は大切な者を置き去り、逃げ出すような女を側に置きたいとは思わない』


「…あんたも言ってたでしょ…きっと、今はどう縋っても振り払われて終わりよ。あたしにはヨルを追う資格を手にする機会さえないもの…」


「それは嬉しい誤算だわ!あなた、意外と良い人ね!ヨルを諦めてくれてありがとう!」


「……ありがとう…って…お嬢ちゃん今、そう言ったの?」


「えぇ、そうよ!だって、あなたがヨルを追わないならヨルも、ヨルと一緒に過ごす時間も、全部私だけのものでしょ!あ、アリカの事を忘れてたわ。でもーーーーーー」


どくん…


「…あんただけの……はは……あたしって…本当に馬鹿な女ね…」


(ヨルにあれだけ言われても…全部を手に入れようなんて思わなかった。捨てる覚悟はあっても、拾う覚悟なんて出来なかった。結局はこれまで通り生きていくんだって…そう思ったけど…。何なのこれ…凄く不愉快ね。物凄く腹立たしい。こんな、何も知らない糞餓鬼に感謝までされるあたしって一体なんなの…)


果たして。渾身の嫌味さえ涼しげな表情でやり過ごし、剰え感謝を述べる。屈託のない笑顔を向けるファティルの言葉に、ロミアの中で何かが弾ける。


その見た目に違わず獰猛で、好戦的な立ち居振る舞い。幼い少女を相手に大人気なくも嫌味を吐き捨てるくらいには捻くれた性格。歳を重ねて増したのは色気だけではなく、過酷な世界を生き抜いてきた強さと自負心。


いつかそんな日が来ると思ってはいた。命を乞う惨めさを遥かに超える憐れみが心を侵す。

たった十歳の少女に言い負かされ、返す言葉も見当たらず。そんな自分自身に同情する程、落ちぶれた覚えはない。

諦めたくて諦めようとしているようにでも見えるのか。諦めざるを得ないから諦めようとしている想いを、何故諦めたと決めつけられ、感謝までされなければならないのか。

反骨心とも、敵愾心とも言えぬ感情が湧き上がると共に、怒りが諦念を焼き尽くさんと燃え盛る。

或いはもう一声、女の理性が吹き飛ぶ煽りを受けたなら、変わるかもしれない。そんな痛撃を、無邪気な少女はさらりと放ってみせた。


「今更何を言ってるのよ。ヨルはずっとあなたの事を頭が悪いと言ってたじゃない」


「…あ…あはははははははっ!そうね!あたしはずっとヨルにそう言われていたわね!」


(ぶっ殺すッ!この糞餓鬼…あたしはあんたに屈服した訳じゃないっ!…いいわ。その勝負受けて立とうじゃない!このあたしが初めて惚れた男…絶対に渡さない!こいつよりも早く、シャラと一緒にヨルを追い掛けて…俺に相応しい女だって、あいつに言わせてみせるっ!そうよ…頭の悪いあたしが何かを悩む事自体間違ってた。何年も…あたしは一体何をしてたのよ…!一度は失った命。見逃してくれたヨルの為に張るなら後悔もきっとない。…辿り着けるか分からない?辿り着かせてなんかやらないわ!足にしがみついてでも、あたしの事をあの死んだ魚のような目に映させてみせるっ!)


顔を覆い、天井を向いて笑い声を上げる。これまでの悩み、葛藤を吹き飛ばす程の屈辱感に涙がちょちょ切れる。

短くはない人生の中、様々な場所で色んな人間を見てきた。が、こうまで純粋に、悪意もなく馬鹿にされた事など一度としてなかった。

聞くまでもなく自覚など無いだろう。心からの感謝と素直な辛辣に、思い悩んでいた事さえ阿呆らしい。


その鋭い眼差しに負けず劣らずの勝気な性格。黙っていれば絵にもなるが、口を開けば育ちが知れる。時折垣間見せる子供っぽさは甘え足りなかった寂しさの名残りだろうか。

自由奔放とはまさに彼女の事を言うのだと。そんな若かりし頃など今は遠く。歳を重ね、世界を知って隔たれた光。堕ちた闇に翻弄され続けた数年間を、無自覚な嘲弄が無為なものだと叩き割る。

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