3.時計塔と、最初の一歩
「…わぁっ…!ねぇ見て!ヨル!王都よ!」
「そりゃあ王都に来たんだからな。それより…まだ勝手に走り出すなよ」
「わ…分かってるわよ!」
「…まさか…本当に一瞬で…」
「ふっ…先ずは屋敷で食い損ねた昼食からだ。…お嬢様、何か食べたい物はございますか?」
「街を見ながら決めるわ!だって、何があるか知らないもの!」
たったったったっ!
「…はぁ…言った側からこれか。…余り遠くへ行くなよ!探すのが手間だからな!」
「それくらい分かってるわ!」
王都へ行く。ただそう言い放ち、視界を覆う闇に飲まれ。目を開くとそこはまるで別世界。
屋敷の庭から何処とも知れない路地裏に姿を現し、大通りへと歩み出た三人。
降り注ぐ陽の光に目を細め、次いで飛び込む街並みに声を上げる。遠くに聳える時計塔を見てはしゃぐファティル。その横で、我が目を疑い唖然とするロミア。しかして少女と謎の冒険者。更には暗殺者と言う、何とも珍妙な組み合わせで始まる王都散策も、腹が減っては戦はできぬと言いながら。
仰々しい態度で尋ねると、ファティルは振り向き、満面の笑みで答え走り出す。
服飾店のショーウィンドウを眺め、雑貨屋の窓から店内を覗き。武具店の前に立て掛けられた武器を見て男にちらと目を向ける。また、行き交う人と、それ以外の者達を目で追いながら、露店を冷やかし自由気ままに歩くその背を見つめる女に、男は珍しく自分から声を掛けた。
すた…すた…すた…
「…そんなに羨ましいか。ただ街を歩く姿が」
「っ…!いや、すまない…前に一度、妹と街を歩いた事がある。その時妹は…シャラは陽の下を歩く事に落ち着かない様子だった。…私と同じで、この手を汚す事でしか…生き方を知らない…」
「……………」
「別に…あたしもシャラも、殺しが好きな訳じゃない。なのに…。シャラをこの世界に引き摺り込んだのはあたし。だから…いつかあんな風にシャラが笑えたら…それを見届けるまで、あたしは死ぬ訳にいかないのよ…」
優しい眼差しで見つめる。否。見守るようにその背を追う視線。重ねているのは命を乞う程に大切な妹であろう事は想像に容易く。血に塗れた手を見つめ。言葉少なに問われた感傷に、自覚もあるのだろう。
ロミアは聞いてもいない胸の内を明かし、願いを口にした。
それは誰にとっても儚く、叶わないものであると…。
そんな、卑屈極まる女の面倒など見る気もないが、ここまでくれば二人も三人も変わりはしない。
…何より、人の本質とはそう簡単に変わるものではない。
後に幾多の軌跡を残し、世界を繋ぐ辛辣。それも今はまだついでとばかりに問いかける。
男が見逃した命は、まるで明後日の方を向き、立ち止まっていた。
「…女、お前の言う見届けるとはどういう意味だ」
「いや、どういうも何も…そんな日が来るのを…」
「ただ待っている、か。聞いた俺が馬鹿だったな。お前もあれとそう変わらない。…剣と殺しで脳みそが詰まったか。それとも、脳を働かせる栄養を全て胸にでも取られたか。そんな都合の良いいつかなんて…来る訳がないだろう」
「なっ…!?いや…あんたの言う通り、そんないつかは来ない。…あたしには…救われる価値なんてないもの…」
果たして。予想を裏切らない答えに思わず飛び出す罵詈雑言。
救いがなければ為す術もないのだと。どうしようもないのだと。ただ待つ事しか出来ず、そこに希望はないのだと…。
男の物言いに苛立ち、声を上げ。そして勝手に項垂れる。その姿に思わず口を衝く。女の未来さえ変える言葉はまだ少し、先の事。
「はぁ…そうじゃない。お前にとって妹は…」
「ヨルっ!ここよ!ここに決めたわ!見て、美味しそうなケーキが沢山!」
「…やれやれ。昼飯がケーキとは…胃もたれしそうだな。…分かったから落ち着け」
「………………」
(…今…この男は何を言おうとしたの…何が……いいえ…そうじゃない。馬鹿ね…あたしはいつからこんなに弱くなったのかしら。…元より、暗殺に失敗したあたしを頭が許すかどうかも分からないのに…。このまま…逃げ出してしまえたら…少しは楽になるのかしら…)
店頭に設られたショーケースカウンターに並ぶ商品を指差し、手を振って呼び付ける。ファティルの言葉に遮られ、消えたやり取り。一歩先を行く男は何を言いかけたのか。
そうではないと。一体、何がそうではないのかと。
願い、希望と現実の落差に惑う思考は徐々に、全てを投げ出す逃避へと傾き始めていた。
からんからん…
「…てっきりスイーツの専門店かと思ったが…良い雰囲気じゃないか」
「………………」
「ふっ…何を怖気付いている。寂れた酒場以外は初めてか?」
「…え…えぇ、否定はしないわ。こんな場所…あたしには似合わないから…」
「似合うかどうかは問題じゃない。お前が何処へ行きたいのかが重要なんだ。…二本の足があれば大抵、好きな場所へ行ける」
「…何が言いたいの」
「さてな。そんな事より…その様子じゃあどうせ何を見ても分からないだろ。俺と同じ物でいいな。飯を食った後はあいつに振り回されるんだ。覚悟しておけ」
言いながら、肩越しにちらと振り返る。男は足を踏み入れた店内に安堵の声を漏らし。女は、場違いな雰囲気に呑まれ立ち尽くす。
陽光の差し込むホール内。ゆったりと並ぶテーブル席では午後のひと時を優雅に過ごす貴婦人や恋人達が寛ぎ。白髪の老輩が腰を掛けるカウンターの奥からはパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
内装は洋風のアンティーク調だが、格式張っているという事もない。端的に、異世界風のカフェと、そう言って差し支えないだろう。
少女に引かれ席に着き、注文を伝えて程なく。ヨルとロミアの前には軽食のセットが。そしてファティルの前には彩りも鮮やかなケーキが一つ。それぞれに紅茶の注がれたカップが行き渡ると、少し遅めの昼食が始まった。
ぱくっ…
「…っ!美味しい…ヨル!とっても美味しいわ!」
「そりゃあ良かったな。まったく…抜け目がないと言うか何と言うか。どうせ食い切れない量を注文するんだろうと思っていたんだがな」
「ふふんっ!甘く見ないでほしいわね。まだ今日は始まったばかりよ!他にどんな美味しい物があるか分からないもの!ここで満腹になるような真似はしないわ」
あむっ…
「……確かに…そうね。美味しいわ…」
「…なら、その味を忘れずに覚えておく事だ」
クリームの付いた口元を綻ばせ、満面の笑みを向ける。少女はありふれたケーキを絶賛し、女は洒落たサンドを齧って感想を漏らす。互いに同じ。いつ、何処で、誰と為すか。
寝たきりとは言え貴族の娘。毎食豪華な料理を出されたが、申し訳なさに勝るものなどありはせず。
一仕事を終え、仲間と共に飲んで騒ごうと、酔いが醒めれば虚しいだけ。
ファティルは自由と、これを分かち合う誰かと共に。ロミアは、いつかと望んだ陽の下でその価値を噛み締める。
まだ、何が揺れているのかも分かりはしない。けれど男の言葉に否応なく騒めき立つ心。対面に座り、一瞥に付すとまた料理に手を伸ばす。
それだけの筈なのに。何故か全てを見透かされているような。
不可解な言動に翻弄されているような…。
今も、怯える少女に促され、この場に駆り出された意図さえ分からず。価値は無くともせめて、意味くらいはあってほしいと。
ここに在る存在意義を求め、ロミアは男に問いかけた。
「…ねぇ、今更だけど…何であたしを連れてきたの。そっちのお嬢ちゃんだって…あたしが居ない方が楽しめたでしょ」
「…単なる気紛れだ。そんな事よりさっさと食え。時間は有限だ。…時ってのは戻りも止まりもしない。だから、人は後悔する。変えられるのは未来だけ。後悔せずに済む道は今にしかない。過ぎてしまえばもう、取り戻す事は出来ないんだ」
「…ヨル?何の話をしてるの?」
「…いや、何でもない。言ったところでお前には分からないだろう。いや…分からない方がいい」
「もうっ…!また子供扱い!?ヨルはとっても意地が悪いわ!」
「そうだな…俺は意地が悪い。なにせ…答えを選ぶのはいつだって、そいつ自身だからな」
「………………」
(選ぶ…あたしが?…一体何を。何が言いたいの。でも…真剣な表情だった。もしかして…この男はあたしに何かを伝えようとしてる…?分からない…。なのに…不安を掻き立てられるこの気持ちは何…あたしはこれからも、後悔しながら生きていくの…?)
繰り出す疑問に更なる疑問が降って湧く。ロミアもまた、その不可解な言動に囚われ、思考の海へと溺れていった者の一人。
言葉ではない何かが。表情が問うている。それも、決して間違えてはならない何かを。
もう既に。諦めてしまった女には及ぶべくもない選択と、命を懸けるに足る答え。男は全てを与えぬまま立ち上がった。
すっ…
「こいつの言うように、今日という日はまだ始まったばかりだ。ゆっくり考えろ」
そうして、少女にとっては笑みの溢れる。女にとっては疑問の尽きない昼食を終え、三人は当ても無く街を歩き始めた。
「ねぇヨル!次はあそこに行きたいわ!」
「はいはい」
「次はここよ!」
「はいはい」
「あっ!ねぇ、ヨル!あの大きな建物!あれは何!?」
「はいはい」
「もうっ…!」
「……はぁ…仕方がないだろう。なんならここまで付き合っただけでも俺にしては頑張った方だ」
それから数時間後。
手当たり次第に店内を物色し、露店を見つけては興味を示す。子供特有の化け物じみた体力と、何にでも手を触れ口にする好奇心を如何なく発揮し、十歳とは思えないほど無邪気な振る舞いを見せるファティル。
長い間外界から隔離され、身体だけが大きくなったと言っても過言ではない。彼女の境遇を理解すればこそ、文句の一つも我慢した。が、ここで遂に訪れる体力の限界に、もはや返事を返す事で精一杯となった男は、不意に問う少女の言葉に対応出来ず。何を語る事もなかったロミアが、その余りにも情けない男の姿に笑みを零して口を開いた。
「…ふふっ…お嬢ちゃん、あれは劇場よ。ティフタールは演劇の盛んな国で、殆どの街に劇場が建てられていると聞くわ。中でも英雄譚を元にした精霊と勇者、と言う演目が人気を集めているようで、他国からはるばるこれを観に来る貴族もいるらしいわよ」
「精霊と勇者…ヨルとアリカみたいなものね!じゃあ、あれは!?あの遠くに見える橋みたいなの!」
「あれは遊覧橋ね。元はあの下を流れる川を渡る為のものだったけど、いつしか川の周りにはアネモネが咲くようになって、今では辺り一面が白いアネモネで埋め尽くされているらしいわ。とある異世界人がこの国に立ち寄った際、その余りの美しさに始まりの橋と名付け、それからは観光名所の一つに数えられているそうよ」
「…あーあー…。女、得意げに蘊蓄を垂れるのは結構だが、相手は選んで話せ。こいつにそんな事を言ったらどうなると思う…」
「いや、どうって…あたしはただ聞かれた事に…」
「私、見てみたいわ!始まりの橋を見てみたい!」
「…ほら見ろ。お前、俺とそう変わらない歳だろうに…今も淡々としている体力は流石と言ってやりたいが…少しどころかまぁまぁ頭が悪い。これ以上俺の首を絞める事は言うな」
「うっ…いや、あたしはただ…聞かれた事に答えただけよ!何も悪くないわ!」
偶然居合わせた冒険者と、差し向けられた暗殺者。命を刈り取る者と乞う者。その蟠りはロミアにとって大きく。何がきっかけでまた命を脅かされるか…。
気を遣い。警戒し。息を潜めるように存在を薄め。
今も、こんな風に知識をひけらかす気などなかった。なのに…あれ程の強さを持つ男が十歳の少女に言い訳を並べ立てると、その余りにも滑稽な姿に思わず吹き出し。呆れ、嫌味を言われて憤る。
きっかけなど、誰にも分からない。けれど二人にとってはこれが最初の積み重ね。
或いは…続く諍いに、まだ少し近付いたであろう二人の距離は、無邪気な少女の我儘に隔てられた。
「ねぇ、ヨル!私…」
「…はぁ…駄目だ。橋は諦めろ」
「何でよ!?」
「時計塔は向かって左。橋は右だ。お前の足に合わせていたらどれだけ時間が掛かると思う。どうせまた目新しい物を見付け、ふらふらと店にも入るんだろ。…ついでだから言っておくが、俺の小さなストレージはお前の買った服やガラクタ、食い掛けの食べ物で一杯だと言う事を忘れるな。…どうしてもと言うなら橋でも構わないが、俺はどちらか片方にしか付き合わない。橋に行くなら時計塔は無しだ。…よく考えて、後悔しない方を選べ」
目を輝かせ、間隙を縫って言い縋る。ファティルが言い切るよりも早く、ヨルは溜め息を零し否と突き付けた。
小国とは言え王都は王都。その広さは言うに及ばず、既に陽も傾き始めている。
満天の星空の下、橋の上から見る花と、夕暮れに赤く染まる街並み。どちらも甲乙付け難くはある。が、しかし。この先を思えばやり残した事があるくらいで丁度良い。
まさかロミアがあれ程饒舌に語り出すとは思わなかったが、これはこれで使い道もあると。神妙な面持ちで答えを迫るヨルを前に、ファティルは知らず息を呑んだ。
ごくり…
『お前は自分の命、その価値を自ら下げるのか。その身は恩人の言葉一つ叶えられない程安いものだったと』
蘇る記憶に重なる雰囲気。男が時折り見せる真剣な表情は、言い知れぬ何かを放ち。決して曖昧な答えを許さなかった。
「…時計塔にするわ…」
「そうか。なら…そろそろ向かうとしよう。女、講釈もいいが、自分の言葉には責任を持て」
「…ロミア」
ぴく…
「ん?」
「あたしの名前はロミア。ロミア・テーゼ。いい加減、女って呼ぶのはやめてくれる。呼ぶなら名前で呼んでほしいわ」
「…そうか」
ざっ…ざっ…ざっ…
「え…ちょっと…!?あんた、自分は名乗らないつもり!?」
「…言っただろう。お前に答える事は何もない。呼び名が必要なら好きに呼べばいいさ。ほら、さっさと行くぞ」
「……………」
「そんな顔でこっちを見ないでくれる。…私もお父様もヨルの名前は知らないわ。アリカがそう呼んでたから、真似をしてるだけよ」
少女の答えを聞き、空を見上げる男の背を見つめ、吐き捨てられた言葉に僅かな苛立ちを覚える。
喉元を過ぎた恐怖と、解れる緊張感。恐らくは誰にも経験があるだろう。たった一言で変わる印象と心証は積み重ねの証。
それを物語るように。名を明かす女の声に足を止め、素気無くあしらう男はにべもなく。
少しくらいは打ち解けたと、続けて少女を見下ろすロミアに対し、ファティルもまた素気無い返事を浴びせ男の後を追っていく。
日没まで約三時間。時計塔までは一時間と少し。少女の好奇心に付き合わされても夕暮れには間に合うだろう。そんな風に思っていた時期が、男にもあった。
たったったったった!!
「ちっ…!急げロミア!」
「えぇ…!」
「ヨルっ!凄いわ!景色が全部、一瞬で通り過ぎていく!」
「この…クソガキ…!誰のせいでこうなったと思ってるんだ!食い意地を張りやがって…!貴族の娘ならもう少し弁えろっ!」
脇に抱えられ、風を切って街を進む。人波を縫い、建物を飛び越え。色に変わっていく世界の中で爛々と。男の気も知らず、大はしゃぎで目を輝かせる。そんなファティルにどぎつい罵声を浴びせ、すぐ後ろを駆けるロミアを急かし。険しい表情で時計塔を目指すヨル達に一体何があったのか。
それは先のやり取りから暫し経っての事。男が予期した通り、道中では幾つかの店に立ち寄り、露店で得体の知れない何かを口にする。
あれは何、これは何と。相も変わらず忙しなく。そして、時計塔まで道も半ばを過ぎた所で唐突にしゃがみ込む。直後、ファティルは涙を浮かべ、男にこう訴えた。
『…ヨル…胸の辺りが苦しいわ…それにお腹も変…凄く痛いの…』
『…はぁ…お前なぁ…』
『食べ過ぎか、食当たりね。少量ずつとは言え、あれだけ食べればそうもなるわ。露店の食べ物もお嬢ちゃんには少し刺激が強かったのかもしれないわね。…教会へ行くには来た道を戻る事になるけど…』
『そこまで我慢出来ないわ。今にも吐きそう…それに…漏れそう…』
『まぁ、そうなるわよね』
『全く…十歳じゃなくて五歳の間違いだろ。読んで字の如く、糞ガキじゃねーか』
『そんな汚い物と一緒にしな…うっ…うぇっ…』
突如として襲い来る腹痛と吐き気に嗚咽を溢し、恥辱も捨て置き苦痛を喘ぐ。
貴族の娘として、これがどれ程無様な事であるか。
渇くことを知らない好奇心。知識と剣を修め、成長した少女がこれを理解し、一晩を寝ずに過ごす事になるのはまだ少し先の事。
きっと、それ程に嬉しかったのだろう。屋敷で食べる食事は喉を通っていくだけの作業に過ぎず。何を食べても曖昧な味。美味しいと思う事など一度もなかった。それなのに。誰かといるだけで、こんなにも美味しいと思える。誰かと一緒に笑う事が、こんなにも楽しい。
身体は幼く、精神はもっと幼い少女を背負い、来た道を引き返して教会へと辿り着く。この時既に、陽は西へ沈み始めていた。
「もうっ!だからちゃんと謝ったじゃない!」
「おいっ…!暴れるな!」
「それに…走る必要なんてないわよ。時計塔は逃げないもの。私は別に…」
「…確かに時計塔は逃げない。が…今と言う時は逃げるんだ。それも、追い付けない速さでな。陽が沈んだらもう二度と見る事は出来ない。茜色に染まる空と、夕陽に照らされた街を見た事がないのか?…息を切らして走る価値が、あれにはある」
「…そんなの…見た事ないわ…」
「そうだったな。…なら、俺が見せてやる。これから目にする光景を、その小さな胸にでも焼き付けておけ」
そして現在。
刻一刻と迫る日没を前に、聳える時計塔を目指し街を駆ける。その理由をファティルはまだ知らずにいた。
時計塔に登り、王都の街を眺めたい。その漠然とした願いに『いつ』など考えも及ばなかった。
それも、違いが分からないのだから当然と言えばそうだろう。けれど男は違う。身を震わせながら朝焼けを待ち、夕暮れに足を止め。味も分からない料理を食べながら夜景を見る女を見つめ。それら全てが、彼女に与えられた掛け替えのない思い出。
中でも、夕陽を背に笑みを向ける女の姿は筆舌に尽くし難く。あの一瞬を切り取ってしまいたいと思った程。そんな、男にとって特別な情景を想起させる『今』を目前に、運が悪かったと諦めるなど有り得ない。
だっだっだっだっだ…!
「…ロミア!塔を登ってる時間はない!あの上から一気に飛ぶぞっ!」
日没まで後十分、あるか無いか。
少女を抱え、走るだけではどう足掻いても間に合わない。いや、間に合うか、間に合わないかは然程重要ではない。
間に合わないのなら、間に合わせればいいだけの事。
通りから建物の屋根へと移り、更に大きな建物へ飛び移る。次いで男が目を向けたのは、高く聳える時計塔の天辺だった。
「…まさか…飛ぶって…無茶よ!高過ぎるわ!それに距離があり過ぎる!」
「…そうやっていつまでも、言い訳しながら生きていくつもりか?…俺の魔力を分けてやる。諦めてばかりいないで…超えてみせろっ!」
ばっ…!
「…っ!?この魔力…あんた本当に…一体何者なの…」
「さぁな。それよりも…行くぞ!ファティル、お前もしっかり掴まっていろ」
「掴まるって…一体どこによっ!?絶対に落とさないでよねっ!?」
如何に魔力を使い身体を強化しようと、跳躍には限界がある。加えて足場の悪い屋根の上。助走も短く、塔の周りは広場になっている為距離がある。到底、辿り着けるとは思えない。
その背に否と叫びを上げるロミアの言葉など意にも介さず。男は刹那に振り返り、叱咤し、伸ばした左手から魔力を分け与える。その圧倒的な高揚感に溺れる間も無く訪れる。
残り三歩。出来る出来ないではなく、ここまで来たらもうやるしかない。男の右腕に身体の全てを委ねる少女の悲鳴を置き去りに。…次の瞬間、二人は勢い良く飛び出した。
だんっ!!
「……ねぇ……ちょっと…これ…嘘でしょ…」
「…流石にこの高さは無理があったか」
「そんな悠長な事言ってる場合じゃないわよ!…まさか宙空で身動きが取れないからどうしようもないとか…そんな事言わないでしょうね!?」
そして間も無く。
盛大な煽り文句も霞む出落ちに慌てふためき叫びを上げる。
ロミアの眼前には時計塔の外壁が聳え立ち。青ざめた顔で罵声を吐き散らかすと、言うが早いか。男は左手を塔へ翳し、平然と告げた。
「当然だ。余り目立つ事はしたくないが…仕方ない。俺が氷で足場を作る!もう一度跳び上がれ!」
「………もう…無茶苦茶過ぎる…あんたを信じたあたしが馬鹿だったわ!帰ったら覚えておきなさいよっ!」
「…ヨル…凄いわ!空が!」
「…ふっ…満足するのはまだ早い。本当の絶景は、この先だ!」
ぱき…ぱききき…!
とん…ぐぐっ…しゅっ!
そうして、事も無げに告げられた無理難題。
理不尽を嘆くロミアに与えられた薄氷の足場は、まるで自身の運命と同じ。
踏み外せば後は無く。待っていても、聳える死に向かうだけ…。
また、緊張の一瞬を前に。少女は恐る恐ると目を開き。茜色に染まる空を見て、瞳を輝かせる。
果たして。突き出た氷の足場を踏み締め、男が一足に舞い上がると…其処には時の魔法によって淡く色付く世界が広がっていた。
すたっ…
「…なんとか…間に合ったみたいだな」
「…うわぁっ…!」
「どうだ、気に入ったか」
「えぇ、とっても!気に入ったわ!凄く綺麗…!」
とんっ…
「……まったく…付き合いきれないわ。…けどあたしも…こんな景色を見るのは初めて…」
時計塔の天辺に降り立ち語彙も無く。幻想的な空と、赤く染まる街を見下ろし、感嘆の声を漏らす。
叶った願いは想像以上の光景でもって少女を迎え。
靡く髪を撫で付ける女もまた、望む世界に想いを馳せて黄昏る。
言葉も無く、ただ立ち尽くし。光と闇の境を見つめ…男は、少女の頭にそっと手を添え語り始めた。
ぽふっ…
「これからは幾らでも見る事が出来る。今お前が感じているものを、今度は俺以外の誰かと分かち合え」
「…え…ヨル?」
何を言われたのか。不意に突き付けられた言葉に意味も分からず胸が騒めく。
ファティルは沈む夕陽を見つめ続ける男の横顔にふと、嫌な予感を覚えた。
すっ…
「…学院へ行け、ファティル。そこで友を作れ」
「…ヨ……」
「俺は後、数日もすれば居なくなる」
膝を曲げ、優しく肩を掴み、目線を合わせ。
唐突に言い放たれる別離の言葉。無理解を浮かべる少女に対し、男は口を挟む暇も与えず連ねていった。
「行かなきゃいけない場所があるんだ。…どうしても、行かなきゃいけない場所が…。そうなればお前はまた一人、孤独に戻る。そんなのは嫌だろう?…明日は白いアネモネの咲く始まりの橋を。その次の日は劇場へ行って演劇を。その次の日は…何だろうな。お前のしたい事は分からないが…その先にもう、俺は居ない。だから、この先を共に笑ってくれる誰かと出会い、積み重ねていけ」
「……ヨルの…その顔は嫌い。…もう…今更何を言っても…聞いてくれないんでしょ…」
浅はかにも、男を繋ぎ止めようと思慮を巡らせ、きっと大丈夫。上手くいく。そんな希望を撃ち砕かれると共に、全てが遅かったと思い知る。
あれ程までに拒絶を示していた男が何故、誘いを受けたのか。
言わずとも優しく、不器用な笑みが物語っている。きっと、これが最後の思い出作り。以降は二度と、我儘を聞いてくれはしないだろう。
同時に、今ここで是非を問わない別れを仄めかす意味を悟る。
失いたくない。一人になりたくない。側に居てほしい。けれど、僅かに力の入る手が。悲哀の滲む表情が、物語っていた。きっともう、どれだけ言い縋ろうと、避けては通れない別れが訪れる。
そして、今日と言う日が物語る。こんなにも煌めく世界を見せたのは、誰かと共に在る喜びを知らしめる為。
男の醸す雰囲気と、優しくも切ない声音。そして自身の目を逸らさず見つめる瞳はまるで、全てを見透かされているような、包み込んでくれているような。
言葉と想いに伝わる意味を理解し、不安と恐怖に項垂れるファティル。
後は、自分次第と突き放してもきっと乗り越えるだろう。その一歩を踏み出す勇気を与えるべく。男は少女に笑みを零し、手を差し伸べた。
「ふっ…お前は寝たきりだった割に賢い。だから特別に選ばせてやる。明日にでも学院へ行くなら、お前に友が出来るまでは側に居てやろう」
「…嫌だって言ったら…」
「俺は今この場で、お前を残して消える」
「…ヨルは…やっぱり意地悪だわ。そんなの…選びようがないじゃない。…私…何も知らないのよ…お勉強だって殆どした事がないわ。…そんな私にお友達なんて…」
「出来る出来ないは然程問題じゃない。お前がどうしたいのか。重要なのはそれだけだ。結果なんて誰にも分からない…。俺も…行かなきゃならない場所があるとは言ったが、辿り着けるかは分からない…それでも、掴みたい未来があるから手を伸ばしている。…覚えておけ。世界は残酷だ。待っていても誰も助けてはくれない。目覚めた時に俺が側に居た。そんなのは運が良かっただけ…これからはお前が選択し、掴み取るんだ。なに、怖がる事はない。不安に思う事もない。何年も、孤独と痛みに耐えてきたんだ。お前になら出来る」
五年前、何の前触れもなく発症した奇病によって、長い間耐え難い孤独を味わってきた。
誰にも否定出来ない感染の可能性は人を遠ざけ。社交会や晩餐会など、貴族にとって顔繋ぎとなる場には行く事も出来ず。使用人はおろか、父や母も部屋を訪れる事は滅多になかった。
加えて、胸の腫瘍は服が擦れるだけで目が眩む程の激痛が走る。これを抑制する為、鎮痛剤を服用し、一日の殆どを寝て過ごす日々。それはただただ地獄のような毎日で。幼いながらに死にたいと思った事も少なくはない。それでも。父と母の愛に支えられ、いつかきっと。そう願い生きてきた。
そんなある日の事。いつものように教会へ行き、項垂れる父の姿を見て…罪悪感さえ覚えなくなったのはいつの頃からか。
薬の副作用で深い眠りに落ちるファティルが次に目覚めると、全てが一変していた。
我が目を疑い。言葉を失い。歓喜に身を震わせる。夢にまで見た奇跡の訪れは余りに突然だった。そして、これを叫ばんと急ぎ向かった父の部屋で、ファティルは男と出会う。
傲慢不遜、傍若無人。その言葉を知らずとも、男に対する印象などそう変わりはしないだろう。
病を癒やし、父が認める程の力を持つ。そんな男にとって、残酷な世界はどのように見えているのか。どのようにして打ち勝ったのか。聞いてみたい。教えてほしいと。ファティルは恐る恐る問い掛けた。
「……ヨルは…怖くないの…?」
「…怖いさ。怖いに決まっている…。もし、辿り着けなかったらと思うと不安で堪らない。けど、諦めてしまったら可能性すら消えてしまうんだ。届くかは分からない。いつ届くかも分からないが、諦めない限り可能性はある。辛い、苦しい、怖いと言って諦めれば楽にはなるだろう。けどそれは、生きる意味を失うのと同じ。死んでいないだけだ。お前にも分かるだろう。…だから、俺はどんな代償を払ってでも掴みにいく!…お前はどうだ、ファティル。俺が去った後もまた、部屋に閉じ籠るのか。それとも、友を求め、明日を分かち合うのか。…お前の父は、命を狙われながらも奇跡を掴み取った。諦め、教会を訪れていなければ俺と出会う事もなかっただろう」
ぎゅっ…
「………私は…もう一人でいたくない。あんな寂しい思いはしたくないもの…!やりたい事はいっぱいあるけど…二人なら…ヨルと一緒だったから、お部屋で話しているだけでも楽しかったわ。今日はそれ以上に楽しくて…やりたい事が叶って嬉しかった!…また一人になるくらいなら…お友達が欲しい。本当に…私にお友達が出来るまでは居てくれるの…?」
そうして、告げられた答えは今の自分と何も変わらない。違うのは、欲するだけでなく、その手を伸ばし、掴み取ろうとしているかどうかだけ。
誰かとしたい何かなど、数えきれない程あった。今だってそう。九歳の誕生日に贈られた淡い色のワンピース。いつかこれを着て街を歩きたい。名も知らぬ誰かと一緒に。
寂しかった。一人で過ごす毎日が寂しくて仕方がなかった。
不安だった。この先もずっと。そう思うと夜さえ眠れぬ不安に苛まれた。
怖かった。いつか誰もが諦めてしまったら。そう思うと怖くて仕方なかった。
そんな日々の終わりを迎えられたのは、父が諦めずに手を伸ばし続けたから。
寂しかった。もう二度と孤独には戻りたくない。
けれど不安だった。こんな自分が誰かを求めていいのだろうか。
怖かった。もし手を伸ばし、拒絶されたら。そう思うと一歩を踏み出す勇気が出なかった。
けれどそんな日々の始まりを超え、この手で掴みたいものがある。
強くて、優しくて、何でも出来て。無愛想で、意地悪で、とっても優しいヨルと同じ。
少女の背を押したのは励ましの言葉ではなく、男が垣間見せるほんの少しの弱さだった。
一人じゃない。ヨルと一緒にこの残酷な世界に立ち向かう。拳を握り、一歩を踏み出すファティルに対し、男は小指を立ててこう言った。
「あぁ、約束しよう」
「………………」
かくして。小首を傾げ、指を重ねる意味を問う。少女の我儘から始まった王都散策は男の望む形で終わりを迎え。微笑ましいやり取りに胸を締め付けられる。ロミアは、今日と言う日に何を得たのだろうか。
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