2.寂寞と依存
きーん…きんっ…!がぎーん!
きんきんきん…!
ひゅっ!
「はぁっ!」
「ちいっ…」
きーーーんっ…!
すぅっ…
「…手加減されてこれか。魔力が無ければ手も足も出ないとはな」
「…すまない…」
「謝る必要はない。お前にはこれから暫くの間、俺の修行に付き合ってもらう。それが命の代価だ。なに、俺達もそう長居するつもりはない。ほんの数日で解放してやる」
それから程なくして。場所を移し、広く芝の生える庭で剣戟を交わす。二人の攻防は先の一戦とは異なり、刀を模しただけの氷刀を手に険しい表情で攻撃を防ぐヨルと、一気呵成に攻め込むロミアの一方的な展開となった。
拮抗には程遠く。打ち合いとも言えない、剣術を極めた女にすれば児戯のような模擬戦。その結果は言わずもがな。氷刀は男の手を離れると共に霧散し、鋒を突き付けられる。
或いは魔法を封じられる事も、魔力が使えなくなる事もある異世界冒険譚を読み漁り、最悪を想定する。
力、人、金や物に至るまで。何か一つに依存する事は極めて危ういと知りつつも、これに費やせる時間はそう多くない。同時に。まだ何も知らない女からすれば不可解な要求。嘘とは思わないがたった数日で。何よりこんな事でと…。
巡る疑問が口を衝く。
「…本当に…それだけでいいのか…腕や…夜伽は…」
「えーっ!それじゃあ私と遊べないじゃない!」
「…お前…はぁ…何しに来たんだ。さっさと寝ろ。昼間散々遊んでやっただろ」
「嫌よ!遊んでやったって…私の隣で本を読みながらあー…とか、そうだな…って言ってただけでしょ!話もろくに聞いてくれないじゃない!それに、私はもう10歳よ。子供扱いしないで!」
深夜を過ぎた丑三つ前。なぜ少女が部屋を出て屋敷を徘徊していたのか。その理由にも察しが付くだろう間の悪さに辟易と溜め息を零す。
ヨルとの出会いは三日前。偶然にも宿を探して街を歩く男の前に、ファティルを抱き、項垂れた様子で教会から出てくるハールィンを目にした事が始まりだった。
相手は侯爵。対するは誰に憚る事も知らない男。その邂逅に一悶着などありはせず。言うが早いか。奇病と言われた何かを闇に葬り去ると、以降はこのように後を付いて回るようになった。
男にとっては煩わしいだけの存在。かと言って、幼い少女を相手に殺意を向けるほど大人気なくもない。とすれば…あれに押し付けるのが手っ取り早いと一人ごつ。
「…アリカ…悪いがファティルを頼めるか」
「ちょっと!?私の話聞いてる!?」
すっ…
「オレを子守に使うなんて…ヨル、これは高く付くからね」
「分かっている。…欲しがっていた冒険譚一冊でどうだ」
「…いいだろう。ファティル、ここで騒ぐとヨルの邪魔になるから行くよ。お前もさっきの奴らみたいに殺されたくはないだろ?」
「…んもうっ!…分かったわよ…けど!明日は必ずよ!」
男の声を聞き、何処からともなく現れる黒猫のアリカ。その正体が精霊である事は薄々と。また、積み重ねてきた時を知らずとも、脳裏に浮かぶ捨て台詞。したり顔で契約者の要求に応える精霊との仲は言うまでもないだろう。
互いに息を呑み、思案する様は茶番と言い難く。然りとて報酬は本一冊と。余りにも釣り合いの悪い光景に暫しやり取りを眺め。女は、続く会話にその意味を尋ねた。
「………………」
「どうした。何か不思議な事でも起こったか」
「いや…冒険譚一冊と言うのは…」
「アリカがあれの子守をして得るべき対価だ」
「いや…それは分かっている。そういう事じゃなくて…それだけの強さがあれば…」
「何でも手に入るだろって言いたいのか。…お前にとってはただの紙束かもしれないが、俺とアリカにとってはそうじゃない。…価値ってのは人によって違うんだ。俺には名前も知らない誰かのように、妹の為と言って片腕を落とす事は出来ないし、あの小うるさいガキの為に命を狙われるような真似をする気もない」
「…そうね。そうかもしれない…」
しかして。価値を語る男の言葉はいつものように僅かに足らず。鎖に囚われ、選択する事を諦めた女にとって見誤るには十二分。
光へと続く糸を探し続け、希望を捨てないで欲しいと願い。望むだけなら自由と偽り生きてきた。しかし、そんな都合のいい救いなどある筈がないと。男の真意を見損なう。
価値とは何か。この身に価値などあるのだろうか。ある筈がないと答えを急ぎ、これまで通り生きるだけと言い聞かせる。
ロミアにとって希望とは、与えられ、待つものでしかなかった。
「無駄話は終わりだ。もう少し付き合え」
「え…あ…えぇ、分かったわ…」
ちゃき…
(茜…俺は必ず…お前の居る場所に…約束を果たしに帰る)
「いくぞ」
そんな、感傷に浸る暇さえ許しはしない男の言葉に刀を構え。白みだす空と、乾いた空気に響く剣鳴は心地良く。淡々と、ただ繰り返し剣を交える。
次第に身体は熱く。弾ける汗が陽光を浴びて煌めきだすと、鬱屈とした気持ちも知らず消え去り。
何度も、何度も何度も何度でも立ち上がり剣を構える。冷徹な男が見せる必死な姿。剣を打ち合い伝わる想い。言葉もない二人の剣戟は陽が昇るまで続いたのだった。
それから数時間後。
「おはようございます!お父様、お母様!」
「おはようファティル。昨日は遅くまでヨルに付いていたようだが、ゆっくりと寝れたかい?」
「いいえお父様、余り眠れませんでした!その前の日も!…ずっと、あんなに寝ていたんだもの…これ以上寝ていたら勿体無いわ!それより聞いてください!ヨルったら私の事を子供扱いして…」
「ふふっ…元気な子ね。けど…本当に良かったわ。病気が治っても外に出るのを怖がって塞ぎ込んでしまうのではないかと心配していたけれど…」
「そんな事、あり得ないわ!やりたい事が言い尽くせない程あるんだもの!もうお部屋になんて少しだって居たくない…手始めに今日は、お父様に頂いたお洋服を着て街へお買い物に行くの!勿論、ヨルと一緒だから安心して!」
朗らかに朝の訪れを告げる声と、言いながらはしゃぐ娘の姿に幸せの形を見る。
ありふれた穏やかな日常は忙しなく。優しく問いかけ、笑みを浮かべる父と母にこれからの展望を語るファティル。その言葉に、二人はちらと顔を見合わせた。
「「……………」」
「お父様?お母様?どうしたのですか?…そう言えばお母様…その格好、何処かへ行かれるの?」
「え…えぇ、貴方が通う事になる学院へご挨拶にね」
「学院?」
「そうだ。…ファティル、お前は強く、賢い子だ。それでも、侯爵家の娘として学ばなければならない事は多い。お前と同世代の子らは既に学院へ通い様々な事を学んでいる。他よりも遅れている分大変だろうが…それでも、これからは世の中の事を知っていかねばならない」
唐突に起こる空気の変化を敏に感じ。朝早くから外行の衣装を纏う母の姿にここでようやく気が付くと、ファティルは何を思う事なく行き先を尋ねた。
これに対し、僅かに言い淀む。リースの口から告げられた答えはいつかと話し、彼女自身にも興味があった場所。或いは、ヨルという存在が無ければ目を輝かせていただろう。
今はその価値も消え失せ、不安気な表情でぽつりと零す。ファティルは先程までの明るい表情に影を落とし、恐る恐る問い返した。
「それは…まだ、先の話ですよね」
「…いや、少々考えが変わった。数週間以内に編入の手続きをする予定だ」
「…何で…そんな急に…嫌よっ!言ったでしょ!私にはやりたい事が沢山あるの!やれなかった事が沢山あるのよ!」
「ファティル…」
「…ずっと我慢してきた。全部我慢して耐えてきた!…街に、領地にさえ、何があるのかも分からなくなるくらいずっと、お部屋に居たわ…それどころか、痛みでベッドから降りる事も出来なかった。…お外に出れるのは教会へ行く時だけ。それも、痛みを抑えるお薬を飲んで眠っている間に…あんなの、死んでるのと変わらない!それが…ようやく終わったの…!そんな私の気持ちは、お父様やお母様にだって分からない…!」
父の答えに憤り、遂には胸の内を吐露するファティル。十歳の少女が抱えてきた絶望と苦悩は今、明るさを振り撒いている事が奇跡とも言える程、想像を絶するものだった。
耐えに耐えるだけの日々。そんな苦痛とも言える時間を紛らわせてくれたのは空想だけ。
言葉通り、何も知らないファティルのやりたい事は想像の中にだけ在った。実際にあるかどうかなど分かりはしない。出来るかどうかなど知りもしない。それでも。今、夢想は現実になろうとしている。
父の言葉が分からない訳じゃない。苦しみが分からないほど幼くはない。しかし、欲求を抑える事が出来るほど大人でもなかった。
もうこれ以上、数えた夢を遠ざけないでほしいと叫びを上げる娘に対し、ハールィンは男の言葉が事実なのか、その核心を問うた。
「…そうだな。そう言われたよ。…きっと、お前にしか分からない苦悩や葛藤があったのだろう。私はそれを分かったつもりでいただけだった。…なら、好きにすると良い。…一人で、思う存分これまでの時間を取り戻しなさい」
「一人……一人?違うわ…もう一人は嫌よ!…私のやりたい事は、病気を治してくれたヨルと一緒に…!ヨルと色んな場所へ行って、色んな事をしたい!ちょっと無愛想だけど…何だかんだ言ってヨルは優しいもの。それに、とっても強いわ!ヨルと一緒なら何処へだって行ける!」
そうして、態とらしくも強調をして娘の心を推し量る。ハールィンは何度も男の名を声に出し、想いを馳せる娘の姿に確信を得る。
もう疑いようもない。たった数日でこんなにも。それ程に孤独とは、耐え難いものなのか。
言葉少なに貴族だろう、部屋が余っているなら暫くの間住まわせろ。代わりにこいつを助けてやる。男がそう言うと、次の瞬間には娘の痣は消えていた。勿論、胸の腫瘍さえ跡形もなく。
一体何者なのか。目的は何なのか。何を聞いてもそれ以上を語る事はなく。分かった事と言えば、首に掛かるCランクの証から多少は腕の立つ冒険者であるという事くらい。
最上級の回復薬でさえ治す事が出来なかった娘の病を癒やし、救われた事実を噛み締め恩人と扱う事は出来ても、そんな男の言葉など半信半疑で当然だった。しかし。結果は期待に反して男の言う通り。これ以上は誰でもない、愛する娘が傷付くだけ。そうなる前に。ハールィンは優しく宥め、諭そうとした。
「…なるほど…しかしファティル、残念だが…彼はそう長くこの屋敷には居られない。彼には彼の、やるべき事があるんだ」
「…え……嘘よ…!だって…ヨルはお父様が雇った凄い魔法士で…」
「私は一度だってそんな事を言った覚えはない。彼はただの…冒険者だ。お前を助けてくれたのもたんなる気紛れだと、そう言っていた」
「…そんな…でも…なら…!私がヨルを雇うわ!必要な事はヨルに教えてもらう!そうすれば!まだ学院に通わなくてもいいでしょ!?」
「…私も彼が強く、人智の及ばない力を持っている事は認めよう。しかし、それだけだ。お前の未来をより良くする為の術を教えてくれる訳ではない。学院に通いなさい」
「何で…何でそんな急に…通わないなんて言ってない…ただ少し…今は時間が欲しいって言ってるだけよ…なのに…何で分かってくれないのっ!」
ばっ!…たったったったっ…!
「貴方…」
「…彼が言っていたのはこういう事か。宛ら、神の啓示だな…」
都合の良い解釈。現実さえ捻じ曲げる執着。もう既に手遅れだったのだろうか。
想像の域を出ない結末と、部屋を出ていく娘の言動に、聞き及んでいたのなら慌てふためく事もない。
孤独など、寂しさなど。言葉以上の意味を知らない二人にファティルの気持ちを理解する事は難しく。椅子に背を凭れ項垂れるハールィンは額に手を、リースは夫の肩に手を添える事しか出来なかった。
そんな、朝の一幕を遡る事一時間前。
『……自分で蒔いた種とは言え、今となっては娘の成長をこの目で見たい。あの男に縋るか…いや、此方の要求に対し何を求められるか…傲慢不遜、傍若無人。…それが、許されるだけの力を持っている。人とは思わない方がいいだろう』
全てを置き去り、女を駆り出すヨルを見送り。ハールィンは自身の暗殺に関与した者達について、これをどうするべきかと頭を悩ませている最中だった。
運良く拾った命。自身の行動を顧みれば致し方ないとは言え、今は失う事も惜しい。
今後も命を狙われるなら策は講じて然るべき。と、誰も居ない庭を見下ろし、考えを巡らせる彼の元へ、不意に訪れる。
こんこん…がちゃ…
『…少し話がある』
『ヨルか。…話とは…稽古の方はもういいのかい?』
『あぁ、悪くなかった。それよりも、さっさとしろ。もたもたしているとあいつが起きてくる。…お前達親娘に関わる事だ。出来れば婦人も呼んでくれ』
男は重苦しい雰囲気を漂わせ、前置きも無くそう切り出すと、妻であるリースの同席を求め。そして間も無く。用件を尋ねるハールィンの問いにこう答えた。
『それで、話と言うのはなんだね』
『お前達の娘の事だ。あれをさっさと学校へ通わせろ』
『学校…と言うのは…』
『…この世界じゃこれで伝わらないのか…学舎と言えば意味は分かるか?』
『それなら学院がありますけど…それに、娘を通わせろという事でしたら…追い追い、落ち着いてからと考えてはいます』
『それじゃ駄目だ。今すぐに通わせろ。あれには友が必要だ』
『友達?何故それが今、娘に必要なんだね』
それまでの穏やかな口調から一変して告げられる。学院とは。貴族の家に生まれた者なら誰もが通う事になる学舎を指す言葉。
歴史を学び、常識を学び。政治を、経済を、商いを。また剣術や精霊魔法など、多岐に渡る授業を受ける事ができ、家柄や目指すべき将来を見据え、自身に合ったものを選択する事が出来る。
無論、男に言われるまでもなく。これに通わせるつもりではいたが。娘の事を思えば幾許かの猶予くらいあってもいいと、そうも思っていた。
しかし、同年代の子らに比べれば遅れを取っているのも事実。そんな、娘の将来を案じてくれているのかと思った矢先。
唐突に、加えて真剣な表情で友を与えてやれと言う。もはや学院の存在意義さえ捨て置く言葉に、ハールィンはすぐさま疑問を呈した。
『…やれやれ…何年も一人で部屋にいたんだぞ。望んだ訳でもないのにな。お前達に、その孤独は分からないだろう。…どれだけ寂しかったと思う。どれだけ色んな事を我慢してきたと思う。きっと、お前達を前に…気強く振る舞ってみせた筈だ。あれは分かりやすい…明るく、活発で能動的。病が治ったとなればあらゆる事に興味を示すだろう。そんな奴の側に恩人とも言うべき人間が居たらどうなると思う』
『…懐いているように見えるが…』
『はい、私にもそう見えます。良い傾向なのではありませんか?ファティルも楽しそうにしていますし…』
『…その程度ならとっくに俺を怖がっているか、毛嫌いしてる筈だ。あれは懐いてるんじゃない。俺に依存しようとしてるんだ。身近にいた俺を、これからを歩む支えにしようとしている。それも、俺が去る事に薄々と勘付いていながらな。どこか急いているように見えるのはそのせいだ。子供の感受性と言うのは侮れない。ファティルの場合は特に。…これ以上俺に依存し、そして失った時…あいつはきっと立ち直れない』
『それはどういう…』
僅かに険を含む男の言葉に、顔を見合わせるハールィンとリース。二人には、男の言わんとしている事が分からなかった。
いや、彼等に限らず、人は本当の意味で当人の気持ちなど理解し得ないだろう。
逃れようのない死への恐怖。
悪魔に魂を売ってでも娘を救いたかった男の苦悩。
理不尽に愛する者と引き裂かれた怒りと絶望。
そして、病に伏せる少女の孤独。
そのどれもが、当人以外の誰かにとって字面以上の意味を持たない。しかし。孤独と言うならいつかも分からない時から一人で生きてきた。
望んでもいない異世界に召喚され、何もかもが奪われた。
今この場に於いて、ヨルだけがファティルの気持ちを正しく理解する事が出来た。
『あいつが何を求めているかを考えてみろ。抑圧された欲求。募る寂寥感。もう何を我慢する事もないんだ。やりたい事は多いだろう。そして、これまでの寂しさを埋めるように、楽しさと喜びを共有してくれる誰かを求める。…恩人と言うのはものの例えだ。今、あいつにとってこれらを満たしてくれる存在は俺なんだ。いや、俺しかいないと言うべきか。そんな人間が忽然と消えた時、あいつはきっと…心を病む』
『…なるほど。言いたい事は分かった。私も少々、考えを改めるとしよう』
『今が重要なんだ。依存しきってしまったら俺の旅に付いて行くとまで言い出すぞ。孤独の先で得た何かを、再び失うという事はそれ程に…痛いんだ。今なら助けた責任の一端くらいは担ってやる。甘やかしてやりたい気持ちは分からないでもないが、今は突き放してでも、俺に代わる友を与えてやれ』
こうして、男は柄にもなく少女の未来を憂い、ハールィンとリースに助言を与えた。
理解出来るからこそ放ってはおけない。それがまだ、年端もいかない少女であれば尚の事。
目を輝かせて明日を語る声を、ぞんざいに遇らおうと追い掛けてくる。それ程に飢えていたのだろう。
ヨルを含め、誰にとっても想定外の状況。もはや関係無いとは言えない立場。そんな大人達の気も知らず、彼女は今日も男に付き纏う。
「…ヨル!起きて、もうお昼よ!」
「…んぅ…騒がしいな…何かあ…………」
(…おいおい…嘘だろ…ヨルは寝起きが悪いんだぞ…それに…オレは知らないからな…)
すっ…
「見て、ヨル!このお洋服!ずっと着たかったの!これを着て街へ行きたいわ!」
「…………………お前なぁ……」
深く惰眠を貪り始めた男の部屋へ入り込み、快活な声を上げる。少女の神をも恐れぬ所業に一足早く目を覚ます。
アリカはこれから起こるであろう厄災を前に我関せずと姿を消し。
その喧しい声と苛立ちを覚える重量感に薄らと瞼を持ち上げる。
ヨルは自身の上に乗り、無邪気な笑顔を向けるファティルに向け、最大級の嫌悪を込めて溜め息を吐いた。
「おはよう、ヨル!ちゃんとお昼ご飯の用意も出来てるわ!さぁ、ほら早く!起きて出掛けましょ!」
「………………」
ゆさゆさ…
「ねえってば!昨日言ったじゃない!今日は必ずって!」
「…それはお前が勝手に言い出した事だ。行きたきゃ一人で勝手に行け」
「もうっ!…けどいいわ。今日は遊んでくれるまで離れるつもりはないもの」
「………………」
「………………」
幼さを武器に言いたい放題のファティルに対し、心を落ち着かせ。己を律する。
相手はたかだか十歳の少女。怒鳴り散らそうものなら程度が知れる。また、殺意を向けるような真似をすれば器が知れると言い聞かせ、何も無い。誰も居ないと黙する事で大人の対応を貫いてみせる。
或いは、今と異なる環境だったなら。有無を言わさずにその口を黙らせていただろう。
自身の上で頬を膨らませる、小さな悪魔をどうしてやるべきか。
長々と時間を掛けている暇は無い。たった一言で地獄を見せる。
果たして。逡巡の末に男が選んだのは、急転直下の荒療治だった。
「……はぁ…分かった…出掛けてやる」
「…え……いいの?」
「ふっ…何を今更。出掛けたいんだろ?昨日の昼にごちゃごちゃと言っていたな。確か…王都にある時計塔を登りたい…だったか。寝たきりになる前に一度だけ、てっぺんから街の景色を見た事があるんだろ。お望みなら連れてってやる」
(絶対…何も聞いてないって思ってたのに…ヨルはちゃんと私の話を聞いていてくれてた…やっぱり!ヨルはなんだかんだ言ってとても優しいのよ!私が言えばきっと、この屋敷にだって居てくれる)
ばっ!
「行く…!行くわ!今すぐっ!」
取り付く島もなくあしらわれ、頑なに首を縦に振ろうとしなかった。
そんな男が一転して我儘を聞き入れると、その余りにも虚を衝いた言葉に目を見開き、呆けた顔で問い返す。
喧しさに辟易と。ただ相槌を打つだけと思っていた男の優しさを疑いもせず、笑みを湛えて身を乗り出すファティル。これに煩わしいと罵声を口走り。続けて、ヨルはこう言い付けた。
「おいっ…!人の上で暴れるなクソガキ。まったく…なら、準備をするからお前はあの女を起こしてこい」
「…え…あの女って…もしかして…」
「一人しか居ないだろ。あいつも一緒に連れていく。嫌なら別に、俺はお前と二人きりでも構わないが。あれを一人残していいのか?帰ってきたら両親共に殺されていた、なんて事にならなければいいがな」
「……う……分かったわ…」
一言目には嫌悪を抱き、続く言葉を遮る様に最悪を紡ぐ。男の言葉に、反論など幾らでもあっただろうファティルにとって、喪失は耐え難く。
これをして再び孤独になるなど想像しただけで怖気が走る程。
加えて、この機を逃せば次などあるかも分からない。
脳裏を過ぎる父の言葉と、幼くも浅はかな計略に時機を見計らう。
数日を掛けてようやく手に掛けた一つ目のやりたい事。それはたかだか暗殺者の同行くらいで揺らぐものではなかった。
不承不承と部屋を出て行く少女を見送り、僅かに数十分後。三人は小国ティフタールの都フィータへと出づる。




