第八夜 秋刀魚の塩焼き ~おとんの背中~
八日目の夜、俺はいつものように九時前に「やまびこ」の扉を押した。
秋の夜風が路地を吹き抜け、煤けた看板が小さく揺れている。店内に入ると、炭火の香ばしい煙が優しく鼻をくすぐった。
「親父、こんばんは。今日は秋の匂いがするな」
「おかえり、島田さん。今日は秋刀魚が脂の乗り切った良いのが入った。塩焼きにしようと思う」
浩一親父の声は静かだが、指先はすでに包丁を握っていた。カウンターの奥で、小さな炭火コンロの炎がゆらゆらと揺れている。
秋刀魚の塩焼きは、親父が最も「素材を信じる」料理だ。
新鮮な秋刀魚を一尾ずつ丁寧に水洗いし、腹を裂いて内臓を取り除く。身の表面に薄く塩を振り、十数分置いて余分な水分を出す。
強めの炭火でまず皮目をパリッと焼き固め、裏返して中火でじっくり焼く。脂が滴り落ちて炎がパチパチと音を立て、銀色の身が黄金色に染まっていく。焼き上がりの直前に大根おろしを添え、すだちを軽く絞る。
皿に盛られた瞬間、皮の香ばしさと脂の甘い匂いが一気に広がり、身の表面はカリッ、中はふんわりと脂が閉じ込められていた。
一口。
皮のパリパリとした食感の後に、濃厚な脂が舌に溶け出す。秋刀魚特有の野趣のある旨味が、塩とすだちの酸味で引き締まり、喉の奥まで染み渡る。熱燗を一口含むと、脂の甘みがふわりと花開き、胸の奥に秋の寂しさと温かさが混じり合った。
「……今年の秋刀魚は、例年より脂が乗ってるな。親父の焼き加減、完璧だ」
俺が静かに箸を動かしていると、十時を少し回った頃、扉の鈴が控えめに鳴った。
高橋さんだった。もうすっかりこのカウンターに馴染んだ瘦せたシルエットが、今日も隣の席に滑り込む。
「こんばんは……今日は、すごくいい香りですね」
「高橋さん、秋刀魚の塩焼きだ。どうぞ」
親父が新しく焼いた一尾を出す。高橋さんは箸を手に取り、皮目から一口。
パリッ、という音が小さく響き、彼の目がわずかに見開かれた。
「……うまい。脂がこんなに甘いのに、身は締まってる。この焼き目……」
高橋さんはしばらく無言で味わっていた。そして、ぽつりと零した。
「大阪にいる息子が、『おとんの秋刀魚の塩焼き、食べたいわ』って、去年の秋に何度も言ってたんです。俺は休みの夜に、こうやって炭火で焼いて、息子と二人で食べながら話すのが好きだった……」
その「おとん」という言葉が、店内の静かな空気に柔らかく、しかし重く落ちた。
「『おとん、今年も焼いて待ってるのに、全然帰ってこないやん』って……電話越しに少し声が震えてた。俺は今、ここでこんなに美味しい秋刀魚を食べているのに、あいつは……」
高橋さんの指が箸を握る手に、わずかに力が入った。
後悔と、愛情と、遠く離れた家族への渇望が、瘦せた肩に静かにのしかかっているのがわかった。俺は自分の秋刀魚を味わいながら、横から静かに声をかけた。
「高橋さん」
「……はい」
「焦るな。家族は待ってる。お前がここでちゃんと『味』を覚えて帰れば、それで十分だ。親父の秋刀魚は、ただの焼き魚じゃねえ。『帰りたくなる味』だ」
高橋さんはゆっくりと頷き、最後の一欠片まで丁寧に食べ終えた。
大根おろしに染みた脂まで残さず平らげ、熱燗を静かに傾ける姿に、初めて来た夜の疲れた影は、もうほとんど残っていなかった。
帰る時、彼は親父に深く頭を下げた。
「明日も……来ます。この味を、ちゃんと覚えておきたいんです」
店内に残ったのは、秋刀魚の香ばしい余韻と、炭火の煙、そして誰かの「家族の元へ帰る日」を静かに待つ、温かい灯りだった。
――続く




