第七夜 カレイの煮付け ~おとんの記憶~
七日目の夜、俺はいつものように九時前に「やまびこ」の扉をくぐった。
秋の気配が路地に忍び寄り、店内のオレンジ色の灯りが、湿った夜気を優しく溶かしている。
「親父、こんばんは」
「おかえり、島田さん。今日はカレイがいい脂に乗ってる。煮付けにしようと思う」
浩一親父の声は静かだが、どこか嬉しげだった。厨房の小さな灯りの下で、彼の包丁がリズミカルに鳴る。
カレイの煮付けは、親父が最も丁寧に作る料理の一つだ。
まず活きの良いカレイを三枚におろし、熱湯でさっと霜降りして余分な脂と臭みを落とす。鍋には昆布と煮干しで取った澄んだ出汁を張り、醤油・上質なみりん・少量の砂糖・酒・生姜の薄切りを静かに合わせる。
煮立ったところへカレイをそっと滑り込ませ、落とし蓋をして極弱火で十五分。身が震えるように柔らかくなり、黄金色の煮汁が白身に染み渡る。火を止めてから三分、余熱でじっくりと味を閉じ込める。
盛り付けた瞬間、ねぎの青と生姜の淡い黄色がアクセントになり、湯気が立ち上る。箸を入れると、身がほろりと崩れ、脂の甘みと醤油の円やかな旨味が一気に舌を包んだ。
熱燗を一口。
カレイの煮汁が絡んだ身を頰張ると、甘辛い味わいが喉の奥まで染み、胸の奥にじんわりとした温かさが広がる。
「……この染み方。親父の煮物は、いつも俺の胃袋だけじゃなく、心まで満たすな」
俺が静かに箸を動かしていると、十時少し前に扉の鈴が鳴った。
高橋さんだった。もうすっかり顔なじみになった瘦せた背中が、今日もカウンターに滑り込む。
「こんばんは……今日も、いい香りですね」
「高橋さん、カレイの煮付けだ。どうぞ」
親父が新しく盛った一皿を置く。高橋さんは箸を手に取り、一口食べて、目を伏せた。
「……ふんわりしてる。身が崩れる寸前で、でも形を保ってる。この煮汁の染み方……」
彼はしばらく言葉を失っていた。そして、ぽつりと言った。
「大阪にいる息子が、『おとんのカレイの煮付け、食べたいわ』って、電話のたびに言うんです」
その「おとん」という響きが、店内の静かな空気に柔らかく溶けた。
「『おとん、最近全然帰ってこないやん。煮付け作って待ってるのに』って……少し拗ねた声で。俺は昔、休みの日に息子と一緒に台所に立って、こんな煮物を作ってたんです。でも今は、ただ電話で聞くだけ」
高橋さんの指が、箸を握る手にわずかに力が入った。
寂しさと、懐かしさと、罪悪感が混じった複雑な表情。俺は横で自分のカレイを味わいながら、静かにその横顔を見ていた。
「高橋さん」
俺は熱燗を一口飲んでから、言った。
「家族が東京に来る日が来たら、必ず連れてこい。ここなら『おとんの味』より、もう少し優しい味が出せる。親父のカレイは、ただの煮付けじゃねえ。帰りたくなる味だ」
高橋さんはゆっくりと頷き、最後の一欠片まで丁寧に食べ終えた。
その瞳に、ほんの少しだけ、光が宿った気がした。
帰る時、彼は親父に深く頭を下げた。
「明日も……来ます。この味、忘れたくないんです」
店内に残ったのは、甘辛い煮汁の香りと、生姜の爽やかな余韻、そして誰かの「帰りたい場所」を求める静かな想いだった。




