第六夜 イカの塩辛
六日目の夜も、俺は九時前に「やまびこ」のカウンター左端に座った。
空は晴れて、路地の夜風が少し涼しく感じる。
「親父、こんばんは。今日はなんか新鮮な匂いがするな」
「おかえり、島田さん。今日はイカの塩辛を新しく仕込んでみた。初お披露目だぞ」
浩一親父はガラス瓶から丁寧に取り出していた。今日が初めての提供らしい。
イカの塩辛は親父の隠し味が光る一品だった。
新鮮なスルメイカを三枚におろし、肝を裏ごしして滑らかにする。切った身と足に塩を全体の約8%加えて軽く揉み、裏ごし肝をたっぷり絡める。みりん・酒・柚子皮のすりおろしを隠し味で加え、冷蔵庫で一晩以上漬け込んだものだ。
器に盛ると、イカの身が肝の濃い褐色に染まり、ツヤツヤと光っていた。刻みねぎと刻み唐辛子を散らし、ゴマ油を一滴落とすと、濃厚なのに爽やかな香りがふわりと広がった。
一口。
肝のトロッとした濃厚なコクが舌を包み、次にイカのコリコリとした歯応えが来る。塩気と甘みのバランスが絶妙で、後味に柚子の香りがふっと抜ける。熱燗を一口含むと、塩辛の濃さがちょうど溶けて喉の奥まで染み渡った。
「うおっ……これは初登場とは思えねえ。肝が効いててクセになる味だ」
俺が夢中で二杯目を食べていると、十時少し前に高橋さんが入ってきた。
「……こんばんは。今日はすごくいい匂いがしますね」
「高橋さん、今日は新作のイカの塩辛だ。どうぞ」
親父が新しく盛った塩辛を出す。高橋さんは箸でイカの身を一欠片取り、肝をたっぷり絡めて口に運んだ。
「……すごい。これ、濃いのに後味がすっきりしてる。肝の旨味がすごい……」
高橋さんは目を細めて、ゆっくり味わった。そして、珍しく自分から話してくれた。
「大阪にいる息子が、『おとんの塩辛、食べたいわ』ってよく言うんです。……俺、昔はたまに作ってたんですけど、最近は全然作れてなくて」
高橋さんは照れくさそうに笑った。
大阪弁の「おとん」という呼び方が、彼の口から出ると妙に温かかった。
「『おとん、最近全然帰ってこないやん』って拗ねてくるんですよ。ここの塩辛みたいに、手間かけた味を、いつかまた家族に出してやりたいな……」
俺は横で自分の塩辛を頬張りながら、軽く頷いた。
「高橋さん、家族が東京に来たら連れてこいよ。親父のイカの塩辛なら、息子さんも『おとんのよりうまい!』って言うかもしれんぞ」
高橋さんは少し寂しそうに、でも優しく笑った。
その夜、彼は塩辛を丁寧に平らげ、三杯目の熱燗でほっと息を吐いた。
帰る時、高橋さんは親父に小さく頭を下げた。
「明日も来ます。この塩辛、また食べたいです」
店を出る頃、カウンターには肝の濃厚な香りと、柚子の爽やかな余韻が静かに残っていた。
俺は最後に親父に言った。
「今日の新作、当たりだったな。高橋さんもだいぶ顔が明るくなってきた」




