第十七夜 谷口鉄平の視点 ~顔見知りの灯り~
俺は谷口鉄平、五十八歳。
この路地から徒歩五分の鉄工所を三十五年やってきた。
最近は受注が減り、夜九時を回ると工具を片付けて、煙草をくわえて帰るだけの毎日。
家に帰れば嫁とはろくに口をきかず、テレビの音だけが虚しく響く。
近所の飲み屋の常連から「静かで旨い店がある」と聞いて、半信半疑で来てみた。
九時二十三分。
煤けた看板を見て少し迷ったが、結局扉を引いた。
ガラリ。
焼き鳥の煙と出汁の優しい香りが、俺の胸をふわりと包んだ。
「いらっしゃい」
カウンター奥の店主が、穏やかに声をかけてくれた。
左端の席に座っていた白髪のおじさんが、こちらを見て目を細めた。
「……谷口か。珍しいな、ここで会うとは」
印刷屋の島田忠夫だった。
近所じゃ顔見知りだ。町内会や昔の飲み屋で何度か挨拶した程度。
お互い無口で、ろくに話したことはなかった。
「島田……お前、こんなところで飲んでたのかよ」
「ああ、十三年になる。まあ、座れよ。端っこが空いてる」
俺は島田さんの二つ隣に腰を下ろした。なんだか妙に照れくさかった。
店主がすぐに熱燗を付けながら、小鉢を二つ出してくれた。
一つは里芋の煮っ転がし。
表面がトロリと照り輝き、箸で切ると中から甘辛い汁がじんわり溢れる。噛むとほくほくして、染み方が優しい。
もう一つは牛すじの煮込みの小鉢。八丁味噌のコクが深く染み、トロトロに崩れるすじが舌に絡みつく。
「……ほう。これは、旨い」
思わず声が出た。
島田さんが熱燗を一口飲みながら、静かに言った。
「ここはな、余計な詮索をしない。
ただ、旨いもんを出して、黙って聞いてくれる。
俺も最初はそうだった」
俺は里芋をもう一口食べ、ぼそりと返した。
「鉄工所も最近、きついんだ。若いのが辞めて、仕事も減って……
嫁とも、最近ろくに話さねえ」
店主は黙って頷き、新しくイカの塩辛と鶏皮の焼き鳥を出してくれた。
塩辛の肝が濃厚なのに後味はすっきり、焼き鳥の皮はパリッと香ばしく脂がジュワッとする。
中村という眼鏡の若い男も、少し離れた席から静かに会釈してきた。
俺は三杯目の熱燗を飲みながら、島田さんに言った。
「……お前、十三年も通ってるのか。
俺みたいな頑固親父でも、来てもいいのか?」
島田さんは小さく笑った。
「俺も頑固親父だぞ。
ここは、そういう奴が集まる店だ」
十時四十分。
俺は会計を済ませて店を出た。
路地の冷たい風が顔を刺すが、胸の奥は不思議と温かい。
振り返ると、「やまびこ」の灯りが、煤けた看板を静かに照らしていた。
俺は煙草に火をつけ、独り言を呟いた。
「……明日も、寄ってみるか」
――続く




