第十五夜 新入り・中村の視点 ~初めてのやまびこ~
俺は中村啓太、三十七歳。
先月、大手IT企業からこの下町の小さなベンチャーに転職してきた。
新しい部屋は狭くて、夜になると妙に静かで、酒を飲む相手もいない。
ネットで「下町 静かな居酒屋」と検索して見つけたのが、この「やまびこ」だった。
午後九時十二分。
細い路地を迷いながら辿り着き、煤けた看板を見て少し迷った。
入る勇気が出ず、十秒ほど立ち止まる。
……まあ、今日は一人で飲んで、早めに帰ろう。
ガラリ。
扉を開けると、カウンターの柔らかい灯りと、出汁の優しい香りがふわりと迎えてくれた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥にいた店主——佐藤浩一さん(後で名前を知った)が、静かに微笑んだ。
客は二人だけ。左端に座っている白髪のおじさん(島田さんらしい)が、こちらをチラリと見た。
「……日本酒の熱燗を。一人でいいです」
声が少し上ずった。
俺はカウンターの端っこの席に座り、コートを畳む手が緊張で固い。
店主はすぐに動き始めた。
まず熱燗を付けながら、小鉢を二つ出してくれた。
一つは里芋の煮っ転がし。
表面がトロリと照って、箸で切ると中から甘辛い汁がじんわり溢れる。
もう一つは、シンプルなひじきの煮物。にんじんと油揚げが小さく入っていて、優しい甘さ。
一口食べた瞬間——肩の力が、するっと落ちた。
「……うまい」
思わず声が出た。
店主が熱燗を差し出しながら、穏やかに言った。
「初めてかい? ゆっくり飲んでいってくれ」
左端の島田さんが、こちらを見て小さく会釈した。
「新入りか。ここの里芋は染み方が優しいぞ」
俺は熱燗を一口飲みながら、ぽつぽつと話し始めた。
転職のプレッシャー、知らない街の寂しさ、夜中に一人でコードを書いていること。
店主はただ頷き、島田さんは時々「まあ、焦るな」とだけ言ってくれた。
二杯目の熱燗の頃、店主が新しく出してくれたのは——
鶏の唐揚げ(二度揚げで外カリ中ジューシー)と、
イカの塩辛(肝が濃厚なのに後味すっきり)。
唐揚げを頰張った瞬間、口の中に肉汁が広がって、なぜか胸が熱くなった。
島田さんが笑いながら言った。
「中村くん、毎日来いよ。ここはそういう店だ。俺も十三年通ってる」
九時五十分。
俺は会計を済ませながら、店主に小さく頭を下げた。
「……また来ます。
この味、忘れられそうにないです」
路地に出ると、冷たい夜風が頰を撫でた。
でもさっきまでより、少しだけ体が軽かった。
振り返ると、「やまびこ」の灯りが、煤けた看板を優しく照らしていた。
俺はポケットに手を入れ、独り言を呟いた。
「……明日も、来ようかな」
――続く




