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やまびこカウンター  作者: オオムラサキ


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15/20

第十五夜 新入り・中村の視点 ~初めてのやまびこ~

俺は中村啓太、三十七歳。

 先月、大手IT企業からこの下町の小さなベンチャーに転職してきた。

 新しい部屋は狭くて、夜になると妙に静かで、酒を飲む相手もいない。

 ネットで「下町 静かな居酒屋」と検索して見つけたのが、この「やまびこ」だった。

 午後九時十二分。

 細い路地を迷いながら辿り着き、煤けた看板を見て少し迷った。

 入る勇気が出ず、十秒ほど立ち止まる。

 ……まあ、今日は一人で飲んで、早めに帰ろう。

 ガラリ。

 扉を開けると、カウンターの柔らかい灯りと、出汁の優しい香りがふわりと迎えてくれた。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥にいた店主——佐藤浩一さん(後で名前を知った)が、静かに微笑んだ。

 客は二人だけ。左端に座っている白髪のおじさん(島田さんらしい)が、こちらをチラリと見た。

「……日本酒の熱燗を。一人でいいです」

 声が少し上ずった。

 俺はカウンターの端っこの席に座り、コートを畳む手が緊張で固い。

 店主はすぐに動き始めた。

 まず熱燗を付けながら、小鉢を二つ出してくれた。

 一つは里芋の煮っ転がし。

 表面がトロリと照って、箸で切ると中から甘辛い汁がじんわり溢れる。

 もう一つは、シンプルなひじきの煮物。にんじんと油揚げが小さく入っていて、優しい甘さ。

 一口食べた瞬間——肩の力が、するっと落ちた。

「……うまい」

 思わず声が出た。

 店主が熱燗を差し出しながら、穏やかに言った。

「初めてかい? ゆっくり飲んでいってくれ」

 左端の島田さんが、こちらを見て小さく会釈した。

「新入りか。ここの里芋は染み方が優しいぞ」

 俺は熱燗を一口飲みながら、ぽつぽつと話し始めた。

 転職のプレッシャー、知らない街の寂しさ、夜中に一人でコードを書いていること。

 店主はただ頷き、島田さんは時々「まあ、焦るな」とだけ言ってくれた。

 二杯目の熱燗の頃、店主が新しく出してくれたのは——

 鶏の唐揚げ(二度揚げで外カリ中ジューシー)と、

 イカの塩辛(肝が濃厚なのに後味すっきり)。

 唐揚げを頰張った瞬間、口の中に肉汁が広がって、なぜか胸が熱くなった。

 島田さんが笑いながら言った。

「中村くん、毎日来いよ。ここはそういう店だ。俺も十三年通ってる」

 九時五十分。

 俺は会計を済ませながら、店主に小さく頭を下げた。

「……また来ます。

 この味、忘れられそうにないです」

 路地に出ると、冷たい夜風が頰を撫でた。

 でもさっきまでより、少しだけ体が軽かった。

 振り返ると、「やまびこ」の灯りが、煤けた看板を優しく照らしていた。

 俺はポケットに手を入れ、独り言を呟いた。

「……明日も、来ようかな」

――続く

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