第十四夜 開店前の仕込み ~親父の独り時間~
午後五時半。
「やまびこ」の店内は、まだ誰もいない。
浩一親父は一人、厨房に立っていた。
カウンターの明かりを最小限に落とし、エプロンを腰に巻き、静かに今日の仕込みを始める。この時間が、親父にとって一番大切で、一番孤独な時間だった。
まず出汁。
大きな鍋に水を張り、昆布を静かに入れる。弱火でゆっくり温度を上げ、煮干しを軽く炙って加える。沸騰直前で火を止め、かつお節を入れて蓋をする。
香りが立ち上るまで、ただ黙って待つ。
次に里芋の下茹で。
皮を丁寧にむき、米のとぎ汁でアク抜きをする。鍋に並べて中火にかけ、静かに転がしながら茹でる。表面が少し透き通ってきたらザルに上げる。
豚バラは下茹で。
熱湯で臭みを取り、アクを丁寧にすくい上げる。牛すじは圧力鍋へ。
明太子はブロックのまま冷蔵庫から出し、キムチは刻んで水分を切る。
秋刀魚は一尾ずつ丁寧に水洗いし、塩を振って置く。
味噌汁の準備もする。
妻と二人で飲んでいたシンプルなもの——豆腐とわかめだけ。出汁を少し取り分け、赤味噌を溶く準備をする。
親父は椀を一つ手に取り、そっと指で縁を撫でた。
……妻が生きていた頃、この時間は台所で二人だった。
彼女は麦飯を炊き、俺は味噌汁を作っていた。
「浩一、今日は少し濃いめにね」——そんな他愛もない会話が、毎日あった。
今はただ一人。包丁の音と、鍋の小さな煮立つ音だけが響く。
親父はカウンターを拭き、グラスを一つずつ磨いた。
焼き鳥の串を並べ、冷蔵庫の温度を確認し、調味料の瓶を整える。
全て、ゆっくりと、丁寧に。
誰にも見せない、この店の「骨組み」を作る時間。
午後八時四十分。
最後に看板の灯りを点けた。
煤けた「やまびこ」の文字が、路地にぼんやりと浮かび上がる。
親父はカウンターに両手をつき、深く息を吐いた。
「……今日も、誰かが来てくれるといい。
島田さんでも、美咲さんでも、新しい誰かでも。
ちゃんと、温かいものを出してやるから」
九時まで、あと十分。
店内は静かで、ただ出汁の優しい香りと、親父の静かな息遣いだけがあった。
やまびこは、今日も一人で灯りをともす。
――続く




