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やまびこカウンター  作者: オオムラサキ


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13/20

第十三夜 美咲の明太子チーズ焼き ~ひとりで泣かないで~

十三日目の夜、俺は九時前に「やまびこ」の扉をくぐった。

 高橋さん一家が去ってから数日。店内はまたいつもの静けさに戻っていたが、どこか少し寂しい。

「親父、こんばんは。今日は……美咲が来そうか?」

「おかえり、島田さん。来るよ。今日は明太子チーズ焼きを多めに作っておいた」

 浩一親父は少し心配げに微笑みながら、フライパンを火にかけた。

 明太子チーズ焼きは、美咲が一番好きだという一品。

 明太子のブロックを粗くほぐし、バターを溶かしたフライパンでゆっくり炒める。ピリッとした辛さと磯の濃い香りが一気に立ち上る。そこへピザ用チーズをたっぷり散らし、予熱したオーブンで焼く。表面が黄金色に泡立ち、チーズがとろとろと糸を引くまで丁寧に火を通す。

 もう一品はキムチ納豆冷奴。木綿豆腐を厚く切り、キムチと納豆をごま油で和え、刻みねぎと海苔を山盛りに。熱さと冷たさのコントラストが美しい。

 俺が熱燗を一口飲んでいると、九時四十分過ぎに扉が静かに開いた。

 美咲だった。

 いつもより肩が落ち、目が少し赤い。化粧が少し崩れているのが、カウンターの灯りでわかった。

「……こんばんは、店長。島田さんも……」

 声が少し掠れていた。親父が無言で明太子チーズ焼きを出す。

 熱々の皿が置かれた瞬間、チーズの香ばしい煙が美咲の顔を包んだ。

 美咲はスプーンで大きく掬い、熱々を口に運んだ。

 チーズが伸び、明太子の辛さが溶け出す。すぐに冷たい冷奴を交互に食べる。

 でも今日は、いつもの「美味しい」の言葉がなかった。

 俺は横の席で静かに声をかけた。

「美咲……どうした?」

 美咲はチーズをもう一口食べたあと、ぽつりと零した。

「今日……会社で、部署異動が決まって。

 上司に『君はまだ若いから頑張れ』って言われたんですけど……

 私、今年で二十九歳になるのに、何も残せてない気がして……

 家に帰っても誰もいない部屋で、ひとりで泣くの、嫌になって……」

 声が震えていた。

 明太子チーズの熱気が、彼女の頰を赤く染めている。

 俺は熱燗を一口飲み、ゆっくり言った。

「美咲。俺は六十三だぞ。

 十年前、妻が死んだ夜、俺も同じだった。

 家に帰っても誰もいない。味噌汁すら作る気力がない。

 だからここに来た。親父の料理を食べて、誰かと少しだけ話して……

 それで、なんとか明日を迎えてきた」

 美咲は冷奴を一口食べ、目を伏せた。

「島田さん……私、ずっとここに来てるのに、まだ弱いままだ……」

 親父が静かに新しい明太子チーズ焼きを追加しながら、言った。

「美咲さん。弱いままでいいんだ。

 この店は、弱いまま来ていい場所だ。

 島田さんも、高橋さんも、みんなそうだった」

 美咲は熱々のチーズをもう一口食べ、ふっと息を吐いた。

 目尻に浮かんだ涙が、チーズの湯気で少し溶けたように見えた。

「……この明太子チーズ、辛いのに温かい。

 私、明日も頑張ってみます。

 またここに来て、島田さんと店長に会うために」

 俺は笑って、彼女のグラスに熱燗を注いだ。

「いつでも来いよ。

 カウンターの左端は俺の席だけど、隣はいつでも空けておく」

 その夜、美咲は明太子チーズを完食し、冷奴もきれいに平らげた。

 帰る時、彼女は少しだけ背筋を伸ばしていた。

 店内に残ったのは、チーズの香ばしい余韻と、ねぎの爽やかな匂い。

 そして、ひとりじゃないことを思い出させた、静かな灯り。

 俺は親父に呟いた。

「……美咲も、きっと大丈夫だな」

――続く

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