第十二夜 島田さんの味噌汁 ~十年目の灯り~
十二日目の夜、俺は九時前に「やまびこ」の扉をくぐった。
高橋さん一家が去った翌日。店内はいつもより少し静かで、カウンターの左端の席が、まるで俺だけを待っているように見えた。
「親父、こんばんは。今日は……少し、静かだな」
「おかえり、島田さん。今日は特別に、俺が作る『島田さんの味噌汁』を出すよ」
浩一親父は静かに微笑みながら、すでに味噌汁の準備を始めていた。
親父が言う「島田さんの味噌汁」は、十年前から俺だけのために作ってくれる特別な一品だ。
まず、昆布と煮干し、かつお節で丁寧に取った出汁を静かに温める。具は、俺が昔、亡くなった妻がよく作っていた組み合わせ——厚揚げ、油揚げ、わかめ、豆腐、そして少しだけ大根の葉。
味噌は赤味噌と白味噌を半々で溶き、火を止めてから加える。沸騰させないのがコツだ。最後に刻みねぎと七味をふわりと散らす。
椀に注いだ瞬間、湯気が立ち上り、懐かしい味噌の香りが店内に柔らかく広がった。
一口。
出汁の澄んだ旨味が舌に染み、味噌のまろやかなコクが優しく包み込む。厚揚げはふっくら、油揚げは染み染み、わかめの磯の香りがふっと鼻を抜ける。
……この味。妻が毎朝作ってくれていた朝味噌汁と、ほとんど同じだった。
「……親父、今日も、よく覚えててくれるな」
俺は椀を両手で包み込み、目を閉じた。
十年前、妻が病で亡くなった夜。家に帰っても誰もいない部屋が、ただ寒くて仕方なかった。
それから毎日、この店に通うようになった。最初はただ酒を飲みに来ていただけ。
でも親父の料理を食べているうちに、気づいた。
ここに来れば、妻の作った味を、ほんの少しだけ思い出せる。
そして、誰かと静かに言葉を交わせる。
それが、俺の「生きる理由」になっていた。
親父はカウンター越しに、静かに言った。
「島田さん。高橋さんが家族を連れて帰ったのを見て、俺も思ったよ。
あんたが毎日来てくれるから、この店はまだ灯りを落とさないでいられるんだ」
俺は熱い味噌汁をもう一口飲み、ふっと息を吐いた。
「親父……俺は、妻がいなくなってから、ずっと『一人でいい』と思ってた。
でもこのカウンターで、島田さんの味噌汁を飲むたび、思い出すんだ。
『一人じゃない』ってことを。
高橋さんみたいに、誰かを待ってる人がいるってことを」
その夜、俺はいつもより長く店にいた。
味噌汁を二杯おかわりし、親父と昔話に花を咲かせた。
妻が生きていた頃の話、印刷屋で苦労した話、くだらない笑い話。
閉店間際、俺はカウンターを立ちながら、親父に言った。
「明日も、来るからな。
この味噌汁、俺の十年分の灯りだ」
店を出ると、秋の夜風が冷たかった。
でも胸の奥は、温かかった。
やまびこは、まだまだ続く。
俺の日常も、きっと続く。
――続く




