第十一夜 最後の牛すじ ~おとんの灯り~(高橋さん編 完)
十一日目の夜、俺は九時前に「やまびこ」の扉をくぐった。
秋の夜は冷え込みが強くなり、路地の落ち葉が足元で小さく音を立てる。店内に入ると、昨日と同じ牛すじ煮込みの、深く甘い香りが優しく包み込んだ。
「親父、こんばんは。今日は高橋さん一家がまた来るんか?」
「おかえり、島田さん。来るよ。今日は……最後の夜にしようと思う」
浩一親父の声はいつもより静かで、どこか感慨深かった。
牛すじ煮込みは、昨日よりもさらに時間をかけて仕上げられていた。
トロトロに煮崩れた牛すじ、大根は出汁を吸い尽くして黄金色に輝き、八丁味噌のコクが煮汁全体を包み込んでいる。盛り付けた瞬間、漆黒に近い汁が器の縁を艶やかに濡らし、七味とねぎの香りが立ち上った。
一口。
すじのゼラチン質が舌に絡み、ほろりと崩れる食感と共に、深い旨味が全身に染み渡る。脂の甘みと味噌の渋みが絶妙にバランスし、熱燗を合わせると胸の奥が熱くなった。
「……親父、これが最後の味か。胸に染みるな」
俺が静かに味わっていると、十時少し前に扉の鈴が鳴った。
高橋さん一家だった。
三人とも昨日より肩の力が抜け、家族らしい柔らかい空気をまとっている。
「おとん、今日も牛すじやな! 昨日より美味そうやん!」
息子がカウンターに座りながら明るく言った。奥さんは微笑みながら頭を下げ、高橋さんは少し照れくさそうに俺と親父に会釈した。
「島田さん、店長……今日で一旦、大阪に戻ります。来週、家族で東京に引っ越してきます」
高橋さんの声は穏やかで、初めてこの店に来た夜の疲れ果てた影は完全に消えていた。
親父は三人分の牛すじを、昨日より多めに盛り付けた。
息子は大根を頰張りながら目を輝かせ、
「うわ……やっぱりうまいわ。おとんの作るより、ずっと染みてる。……おとん、ここの味、覚えといてな」
奥さんは高橋さんの肩にそっと手を置き、
「あなたがここで毎日頑張ってたんやね。ありがとう、店長さん。島田さんも」
高橋さんは牛すじを一口食べ、ゆっくりと目を閉じた。
そして、静かに言った。
「俺……この店に来て、ただ飯を食うだけじゃなかった。親父の料理が、俺に『おとんとして帰る』勇気をくれた。島田さんの静かな背中が、俺に『焦らなくていい』って教えてくれた」
店内は静かだった。
ただ、牛すじの甘い香りと、家族の小さな笑い声だけが響いていた。
高橋さんは最後に、親父に向かって深く頭を下げた。
「店長……本当に、ありがとうございました。この味、家族三人で忘れません」
息子が最後に俺を見て、照れながら言った。
「じいちゃん(島田さんのこと)、また来たら、焼き鳥奢ってな」
俺は笑って頷いた。
「いつでも来いよ。カウンターの左端は、俺の定位置だ」
高橋さん一家が店を出る時、路地の夜風が三人を優しく包んだ。
高橋さんは振り返り、煤けた看板を一度だけ見上げてから、家族と一緒に闇に溶けていった。
店内に残ったのは、牛すじ煮込みの余韻と、親父の静かな微笑み。
俺は最後に熱燗を飲み干し、呟いた。
「……高橋さん、よく頑張ったな。
やまびこは、まだまだ続く」
――高橋さん編 完




