第十夜 突然の大阪弁 ~家族、来る~
十日目の夜、俺は九時前に「やまびこ」の扉をくぐった。
秋の夜はますます深まり、路地に落ち葉が静かに積もっている。店内に入ると、いつもの温かい灯りと、今日も濃厚な煮物の香りが迎えてくれた。
「親父、こんばんは。今日は何だ?」
「おかえり、島田さん。今日は牛すじ煮込みだ。高橋さんも来る頃合いだと思う」
浩一親父は大きな鍋を静かにかき混ぜながら答えた。
牛すじ煮込みは、親父の「時間料理」の極みだ。
牛すじを丁寧に下茹でし、アクと余分な脂を抜く。昆布と煮干しの出汁に、醤油・みりん・砂糖・酒・八丁味噌を加え、極弱火で三時間以上。すじはトロトロに崩れ、ゼラチン質が煮汁を濃厚に包む。大根とこんにゃくを加えてさらに煮詰め、仕上げに七味と刻みねぎを散らす。
盛り付けた瞬間、漆黒に近い煮汁が艶やかに光り、甘辛く深い香りが店中に広がった。
一口。
牛すじのコラーゲンが舌に絡みつき、ほろほろと崩れる食感と、八丁味噌のコクが複雑に絡み合う。熱燗を一口含むと、脂の甘みと味噌の渋みが喉の奥で溶け合い、胸の奥まで熱くなった。
「……今日のは、親父の気合が入ってるな。腹の底から温まる」
俺が静かに味わっていると、十時を少し回った頃、扉の鈴がいつもの音より強く鳴った。
高橋さんだった。
しかし、今日の彼は一人ではなかった。
後ろに、小柄な女性と、中学生くらいの少年が立っている。
高橋さんの目が、初めてこの店に来た夜とは比べ物にならないほど、輝いていた。
「店長……島田さん。突然すみません。今日、妻と息子が新幹線で来てくれました」
高橋さんの声が少し震えていた。
奥さんが柔らかく頭を下げ、息子が照れくさそうに俺たちを見て言った。
「……おとん、ここの店、毎日電話で自慢してたやん。ほんまに美味いんか?」
その「おとん」という言葉が、店内に温かく響いた瞬間、親父が静かに微笑んだ。
「いらっしゃい。高橋さんの家族ですね。今日は牛すじ煮込みだ。熱々でどうぞ」
親父はすぐに三人分の器を用意し、牛すじをたっぷり盛り付けた。
息子は大根を一口食べて、目を丸くした。
「うわ……トロトロや。うちのおとんが作るより、味が染みてる……」
奥さんは牛すじを一口食べ、目を細めて高橋さんを見た。
「あなた……ここで、こんな味に出会ってたんやね」
高橋さんは照れながら、でも嬉しそうに頷いた。
その夜、カウンターは少しだけ賑やかだった。
俺は横で自分の煮込みを味わいながら、三人の会話を静かに聞いていた。
息子が「おとん、明日もここ連れてってな」と言い、奥さんが「ありがとう、店長さん」と親父に頭を下げる。
高橋さんは最後に、俺に向かって小さく言った。
「島田さん……ここに来てよかった。家族を、ちゃんと呼べました」
店内に残ったのは、牛すじ煮込みの濃厚な香りと、ようやく「帰ってきた」家族の、柔らかい笑い声だった。
俺は最後に親父に呟いた。
「……いい夜だったな、親父」




