第九十七話 お風呂だと、思ったのに
帰り道で見つけた、湯気の立つ小屋。
ついに、この世界にも銭湯があった――!
そう思って飛び込んだ王妃を待っていたのは、夢の大浴場ではなく、庶民の簡素な湯浴み場でした。
しかし、そこで王妃は気づきます。
もしかして、いちばん不潔なのは。
香水で全部をごまかしている、宮廷のほうなのでは?
こうして。悪徳教会を、めでたく。土下座させたわたしは。
数千人の村人に、地の底から見送られながら。王都への、帰路に、ついた。
……もっとも。心境は、まったく。晴れやかではない。
なぜなら。帰り道もまた、あの。ゲロ地獄の馬車道が、待っているから、である。
行きに三回吐いた道は。帰りも当然、三回吐かせてくる。
往復で、六回。
人体から。そんなに出るものがあるのかと。我ながら、感心する。
そんな、げっそりした顔で。馬車に揺られていた、そのとき。
「――あっ」
窓の外に。わたしは、それを、見つけた。
道からすこし外れた、村はずれ。木造の、そっけない、小屋。
その屋根の上から。もわもわと、白い湯気が。立ちのぼっている。
そして。ちょうど、その小屋から。
一人の村人が、出てきた。
手拭いを、肩にかけて。こざっぱりとした顔で。ふう、と、ひと息ついている。
いかにも。「あー、さっぱりした」という。あの顔で。
……お風呂だ。
湯気。手拭い。さっぱりした顔。
この三点が、そろって。それが、お風呂じゃないなんてこと。あるだろうか。
いや、ない。
まちがいない。あそこは、お風呂だ。この世界にも、ちゃんと、あったんだ。
銭湯が!
* * *
「止めてぇーっ! 馬車、止めてぇーっ!」
わたしは、絶叫した。
久しく忘れていた。魂の記憶が、一気に、爆発する。
あったかいお湯。肩まで、つかる。「はぁ〜」って、おっさんみたいな声が、勝手に出る、あれ。
番台。ケロリンの桶。壁には、富士山の絵。
……いや、富士山は、ないか。まあ、なんでもいい。とにかく、お風呂!
この十八世紀フランスの宮廷。なんと、風呂に入る習慣が、ほぼ、ない。
みんな、香水を、ばしゃばしゃ振りかけて。においを、ごまかしている。
わたしは、それが。ずっと、いやでいやで。たまらなかったのだ。
その、飢えが。今、目の前の湯気で。限界突破、した。
「ヴァロワ! わたし、あそこ入る! お風呂! ぜったい入る!」
馬車が止まるやいなや。わたしは、転がるように飛び降りて。湯気の小屋へ、一目散に、駆けていった。
そして。
戸口から、中を、のぞきこんで。
「…………あれ?」
固まった。
* * *
そこは。わたしの思い描いた、極楽とは。ちょっと、いや。だいぶ、ちがっていた。
タイル張りの、ぴかぴかの床は、ない。なみなみと湯をたたえた、広い湯船も、ない。
あるのは。板張りの、簡素な床と。湯を張った、大きめの桶が、いくつか。
すのこの上で。村人が、手拭いを絞って。体を、ごしごし、こすっている。
湯も。透きとおった、きれいなお湯、というわけじゃない。何人も使ったあとの、少し濁った、生活の湯。
すみっこでは、女の人が。洗濯物を、じゃぶじゃぶ、やっている。
……そっか。
これは。わたしが期待した、「くつろぐための、お風呂」じゃ、ないんだ。
一日、畑で泥まみれ、汗まみれになって働いた人が。その汚れを、落としにくる。ついでに、洗濯も、すませる。
そういう、実用の、湯浴み場。
毎日じゃない。数日に一度、汚れがたまったら、来る。そういう、場所。
ちょっと、いや。かなり、がっかり、した。
肩までつかって「はぁ〜」の夢は。また、おあずけ、である。
* * *
でも。
がっかりして、しょんぼり、しながら。
ふと、わたしは。気づいてしまった。
――あれ。これって。よく考えたら。すごいこと、なんじゃない?
だって。この村の人たちは。貧しくて、こんな簡素な小屋の、濁った桶の湯でも。
ちゃんと、体を、洗っているのだ。
一日の汚れを、水で、落としているのだ。
じゃあ、宮廷は?
あの、きらびやかな、ヴェルサイユは?
……洗って、ない。
だれも。体なんか、洗っちゃいない。
全身を湯につけるなんて、毛穴が開いて病が入る、とか言って。こわがって。
かわりに。香水を、ぶっかけて。においを、ごまかして。
汚れを、落とすんじゃなくて。上から、フタをして。
それで、平気な顔で。「田舎の連中は不潔で困る」なんて。言っているのだ。
あべこべ、じゃないか。
汚れを、落としている庶民と。汚れに、フタをしている貴族。
どっちが、清潔かなんて。少なくとも、鼻にくるのは。まちがいなく、香水まみれの。宮廷のほう、である。
わたしは、この一年。すっかり、そっち側の常識に、染まっていた。
「庶民=不潔」「宮廷=上等」。そう、思いこんでいた。
でも、ふたを開けてみれば。まるで、逆。
現代日本の、毎日お風呂に入る感覚からすれば。いちばん不潔だったのは、ほかでもない。
わたしのいる場所、だった。
……げんなり、である。
現代知識で、この世界を、無双する。そんな夢を見て、転生してきたはずが。気づけば、いちばん。においに無頓着な文明の、ど真ん中にいた。
無双どころか。鼻が、バカになっていたのは。わたしのほう、だったのだ。
* * *
「王妃様。そろそろ」
ヴァロワが、呼びにきた。
「……ねえ、ヴァロワ」
「はい」
「わたし。王都に帰ったら、ぜったい。自分の、ちゃんとしたお風呂を、作るわ。毎日、肩までつかれる。広くて、きれいな、湯船を」
「またそのような、ぜいたくを」
「ぜいたくじゃない! 衛生よ、衛生! これは、王妃としての、責務なの!」
責務、というのは。九割、方便、である。
本音は、ただ。風呂に、入りたい。それだけ。
でも。この「入りたい」という、しょうもない欲が。
のちのち。あの、第二病棟の話に。しっかり、つながっていくことに。
このときのわたしは。まだ、気づいて、いなかった。
とりあえず、今は。
ふたたび、ゲロ馬車の地獄に。しょんぼりと、舞い戻る。
それだけで、精いっぱい、だった。




