第八十四話 胃が、痛い
小麦価格が急騰した原因は、新財務長官による穀物取引の自由化でした。
自由競争なら、無駄が減って値段も下がる。そう信じていた妙子でしたが、現実に起きたのは商人たちによる買い占めでした。
そして、その物価高は病院の経営にも容赦なく襲いかかります。
「でも、なんで。そんなに、上がっちゃったの?」
わたしが、首をかしげていると。
それまで、黙って書類を見ていた、ヴァロワが。おもむろに、口を開いた。
「……新財務長官の、政策によるものです」
「新財務長官?」
そういえば。テレーが、解任されてから。後釜に、新しい長官が、座ったんだっけ。会ったことは、ないけど。なんでも、ものすごく、合理的な人だとか。
「あの人が、何か、やったの?」
「はい。穀物の、自由化です」
「自由化?」
なんだ。
そんなことか。
わたしは、ほっと、胸をなでおろした。
「なぁんだ。自由化なら、いいことじゃない。だって、自由に競争させれば。みんなが、競って、頑張るでしょ。無駄も、なくなるし。値段だって、下がるはずよ」
これは、現代知識である。
自由競争は、善。規制は、悪。市場に、任せておけば、見えざる手が、うまいこと、調整してくれる。前世で、たしか、そんなようなことを、習った気がする。
「うちだって、見なさいよ。ドブレが、記事を書いて。商人たちが、競って、寄付してくれて。おかげで、寄付金が、倍々で、増えてるんだから。競争って、いいものよ。ウハウハだわ」
「はぁ……。まあ、たしかに。王妃様の、おっしゃる通り、なのですが」
ヴァロワが。なんとも言えない、渋い顔を、した。
この、顔。
嫌な、予感がする。
「何よ。その、渋い顔。言いたいことがあるなら、さっさと、言いなさいよ」
「……基本的には。王妃様の、おっしゃる通り、なのです。自由化すれば、競争が生まれ、合理化が進み、たいていは、良くなる」
「でしょ?」
「ですが。経済というのは。ときどき、予想外のことが、起きるのです」
「予想外?」
ヴァロワは、眼鏡を、押し上げた。
「今回の場合は。自由化したことで——商人たちが、買い占めを、始めたのです」
「……買い占め?」
「ええ。規制が、外れた。ならば、今のうちに、小麦を、買えるだけ買い占めて。値段が、上がったところで、売りさばけば。大儲けできる。——そう、考える商人が、続出したのです」
「な……」
「結果。市場から、小麦が、消えました。そして、残ったわずかな小麦に、客が殺到し。値段が、跳ね上がった。これが、今の、物価高の正体です」
「な、なによ、それ!」
わたしは、思わず、机を、叩いた。
「そんな、ずるいこと、するやつは! さっさと、ひっ捕まえなさいよ!」
「はぁ……。まあ、政府も。そうしたいのは、山々なのですが」
ヴァロワは、ため息を、ついた。
「一人や、二人なら。取り締まりも、できます。ですが——商人たちが、我先にと、買い占めに走ったので。数が、多すぎて。とても、手が回らない。今は、政府も、お手上げ状態です」
「……」
自由競争は、善。
そう、思っていた。
でも、現実は。教科書通りには、いかないらしい。規制を外したら、みんなが頑張るどころか。みんなが、我先にと、ずるをして。結果、庶民が、割を食う。
ぐぬぬ。
現代知識、また、空振り。
「……まあ。それは、財務局の話で。うちには、直接、関係ないでしょ?」
せめてもの、強がりで。わたしは、そう、言ってみた。
すると、ヴァロワは。容赦なく、首を、横に振った。
「いいえ。大ありです」
「え」
「物価が、上がるということは。我々が、病院で使う、食費も、薬代も、消耗品も。何もかもが、値上がりする、ということです」
「……あ」
「せっかく、集めた、寄付金。本来であれば、借金の返済に、充てるはずでした。ですが——その多くが、日々の、値上がりした運営費に。消えていきそうです」
「……えっ」
「当初、予定していた。黒字化の目標は——大幅に、遅れる見込みです」
しーん。
理事長室が、静まり返った。
わたしは。
ぷるぷると、震えながら。
机に、突っ伏した。
「う、嘘でしょ……」
せっかく。
せっかく、寄付が、倍々で集まって。あの、おそろしい借金の山が。やっと、やっと、崩せると思ったのに。
それが。
値上がりした、ニンジンや、包帯や、よくわからん薬に。溶けて、消えていく。
「こっちは! 借金が! 夢の中にまで、出てきて! 取り立てに、来てるってのに!」
わたしは、机に、突っ伏したまま、叫んだ。
「それが、さらに、伸びるなんて! そんなの、耐えられないわよぉぉ!」
「そう、言われましても。困りましたねぇ」
ヴァロワと、シャルティエは。そろって、ため息を、ついた。
困った、ねぇ。じゃ、ないわよ。
なんで、わたしばっかり。
テレーには、弾除けに、されて。借金は、なすりつけられて。やっと、上向いたと思ったら。今度は、会ったこともない、新しい長官の政策で。胃が、痛い。
ぎゅるるる。
ほら。本当に、痛くなってきた。
転生してから、ずっと。胃薬が、手放せない。前世の、あの、ドラッグストアで、安売りしてた胃薬が。今なら、どれだけ、ありがたいか。
「……はぁ。とほほ」
わたしは、机に、顔を埋めたまま。
世界一、情けない、ため息を、ついた。
現代知識無双で、異世界を、ひっくり返すはずだったのに。
なんで、わたしの胃ばっかり、ひっくり返ってるのよ。
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