第八十三話 パンが、なければ
病院経営は順調。寄付も集まり、借金返済にも明るい兆しが見え始めました。
ところが、そんな妙子のもとへ、小麦価格が二倍近くまで急騰したという知らせが届きます。
そして彼女は、歴史上もっとも危険な一言を、危うく口にしかけるのでした。
マリー・アントワネット記念病院が、正式にオープンして。
しばらくは、それはもう、絶好調だった。
ドブレの提灯記事は、相変わらず、絶好調。商人たちの寄付マウント合戦も、絶好調。新聞の一面には、毎日のように、どこそこの商会がいくら寄付した、という記事が躍り。そのたびに、うちの金庫が、ほくほくと、太っていく。
借金まみれの、お飾り王妃。
そんなわたしにも。ようやく、明るい兆しが、見えてきた。
このまま、寄付が集まり続ければ。あの、夢にまで出てくる、おそろしい借金の山も。少しずつ、切り崩していける。黒字化の目標だって、そう遠くない。
「ふふふ……」
理事長室で、わたしは、ひとり、笑みを浮かべていた。
最新式の、流水トイレ(何度でも流せる)。あたたかい、仲間たち。そして、向こうから勝手に集まってくる、お金。
……うん。
人生、悪くない。
転生してきた当初は、あの公開おまるの地獄で、毎日泣きべそをかいていたのが、嘘のようだ。
ようやく、わたしの、現代知識無双の時代が。本格的に、始まったのかもしれない。
——なんて。
調子に乗っていた、ちょうど、そのとき。
ばたん!
理事長室の扉が、勢いよく、開いた。
「だ、大変です、王妃様ーっ!!」
飛び込んできたのは、シャルティエだった。
顔は、真っ赤。額からは、滝のような、汗。息は、ぜえぜえと、上がっている。どう見ても、全力で、走ってきた、という有様だ。
「……ちょっと、シャルティエ。そんなに、汗だくで。部屋に入る前に、汗くらい、拭いてから入ってきなさいよ。むさくるしい」
「そ、そんなこと、言ってる場合じゃ、ないんです!」
ひどいことを言うわたしに、シャルティエは、食い気味に、叫んだ。
普段、温厚な、舎弟一号が。ここまで、取り乱すとは。
「どうしたのよ、いったい」
「こ、小麦の値段が! 今までの、二倍近くに、跳ね上がってるんです!」
「……は? 小麦?」
「はい! それに、つられて。いろんな物の値段も、じわじわと、上がり始めていまして……!」
小麦が、二倍。
ええっと。
それは。
つまり。
「……パンの値段が、上がってる、ってこと?」
「そうです! もう、町じゃ。パンの値段が、一気に跳ね上がって。大騒ぎですよ!」
「えぇ……。なんで、急に? 今年って、そんなに、不作だったかしら」
たしかに、豊作という話も、聞かなかった。けど、別に、飢饉というほどでも、なかったはずだ。それなのに、いきなり、二倍?
「パンの値上げは、困るわねぇ……」
わたしは、腕を組んで、唸った。
パンが、高い。それは、まずい。庶民の主食だもの。みんな、困るだろう。
困った民は、不満を募らせ。不満は、やがて、暴動に変わり。そして——。
……あ。
「パンが、なければ。ケーキを——」
「え? 王妃様? ケーキが、何か?」
「!!」
あ、危ない。
い、今。わたし。とんでもないこと、口走ろうと、してたわよね。
歴史上、最強の、自爆ワード。それを、よりにもよって、本人が。本人の口から。フランスのど真ん中で。
危なく、即・ギロチン。自爆するところ、だったわ。
「な、なんでもないわ! 今のは、忘れて! 完全に、忘れて!」
「は、はぁ……」
シャルティエが、きょとんと、している。
ふう。
危なかった。冷や汗、だらだらである。
……でも。
それにしても。
なんで、急に、小麦が、こんなに、上がったんだろう。
不作でも、ないのに。戦争が、あったわけでも、ないのに。
なんだか、嫌な、予感がする。
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