第六十七話 手のひらで、掴めるもの
慈善病院を憎み、王妃を憎んできたドブレ。
けれど、目の前の病院が少しずつ人を救う場所へ変わっていくほど、その憎しみは行き場を失っていきます。
墓標の前で崩れ落ちた彼に、シャルティエは王妃がこれまで救ってきたものを静かに語ります。
「病院は、拡張され。壊れたところは、直され。薬も、少しは、回るようになった」
ドブレの声が、震えた。
「あの女は、自分で、現場に来てな。手を振って。患者の手なんか、握ってやがる。掃除まで、しやがる」
彼の顔が、歪んだ。
「そしたら、どうだ」
ドブレは、墓石の前に立ち尽くしたまま、こぶしを握りしめた。
「今の病院は――みんな、笑ってやがる。死を待つだけだった場所が。生きる希望みたいに、なってやがる」
その声は、もう。
怒りなのか、泣き声なのか、わからなかった。
「なんでだ」
ドブレは、ついに、膝を、折った。
崩れ落ちるように、墓石の前に、うずくまる。
「なんで、あいつらは、生きる希望を持てて。俺の妻と、息子は……この、冷たい墓の下で、眠ってるんだよ……!」
慟哭だった。
三年分の、どこにも、ぶつけようのなかった慟哭が。乾いた墓地に、響いた。
シャルティエは、何も、言えなかった。
「王妃様なら救えた」などとは、言えない。
「もっと早ければ」などとも、言えない。
そんな言葉は、この墓の前では、何の慰めにもならない。むしろ、この男の傷口に、塩を塗り込むだけだ。
しばらく、二人の間に、沈黙が、落ちた。
風だけが、二人の間を、通り過ぎていく。
やがて。
シャルティエが、静かに、口を開いた。
「王妃様は、以前。こう、仰いました」
ドブレは、顔を上げなかった。うずくまったまま、肩で、息をしている。
「自分の手のひらで、掴める偽善しか、しない――と」
「……それが、どうした」
「確かに、王妃様は。あなたの奥様と、息子さんを、救えませんでした」
ドブレの肩が、ぴくりと、震えた。
「ですが――代わりに。あなた自身は、二度、救われています」
「……なんだと」
ドブレが、ゆっくりと、顔を上げた。
涙で、ぐしゃぐしゃになった顔で。信じられない、という目で、シャルティエを見た。
「俺が……あの女に、救われた、だと?」
「ええ」
シャルティエは、まっすぐに、ドブレを見て、頷いた。
「一度目は――あなたが、王妃様に暴言を吐いた、あのときです」
ドブレの記憶が、巻き戻る。
初めて、あの理事長室で。「偽善か、自己満か」と、王妃に噛みついた、あの日。
「あのとき、衛兵は。あなたを、斬ろうとしていました。サーベルの柄に、手をかけていた。……王妃様が、止めなければ。あなたは、あの場で、死んでいた」
「……」
「二度目は。あなたが、現国王陛下に――当時はまだ、王太子殿下でしたが。暴言を吐いた、あのときです」
ドブレは、何も、言わなかった。
「近衛が、剣に、手をかけました。あのときも、王妃様は――止めた」
シャルティエは、あのときの言葉を思い出すように、少しだけ、目を伏せた。
「ここは、人の命を、救うところ。奪うところじゃない。やり合いたいなら、外でやれ。……そう、仰って」
ドブレは、何も、言えなかった。
ただ、唇を、噛んでいた。
「王妃様は、自分の手で掴めないものは、救えないと、仰いました。けれど――掴めるものなら。あなたのような、ドブネズミでも、救う」
「……ずいぶんな、言い方だな」
「あなたが、そう名乗るに、相応しい振る舞いをしているからです」
「はっ」
ドブレは、笑おうとした。
だが、笑えなかった。
シャルティエは、続けた。
「あなたは、知らないでしょう。……あなたが初めて、王妃様と話したあと。王妃様は、両手を組んで、天を、仰いでおられた」
「……何を、して」
「わかりません。ですが、私は――こう、思いました。王妃様はきっと、自分の無力を。悔やんで、おられたのだと」
もちろん、それは、シャルティエの、勝手な解釈だった。
実際の妙子は、なろう系主人公みたいな決め台詞が、見事に決まった余韻に、うっとりと浸り。「次は、どの台詞を使おうかしら」などと、考えていただけである。
けれど。
今、この場で。それを知る者は、誰も、いない。
「手のひらで、掴めるものしか、救えない。……あれは、王妃様の、強がりです」
シャルティエの声は、静かだった。
「その手から、こぼれ落ちていく命が、あると。知っているからこその――強がり、です」
ドブレは、墓石を見つめたまま、歯を、食いしばった。
「王妃様は、外国から、嫁いでこられた方です。この国に、味方など、ほとんどいない。それでも、あの方は――自分にできることを、しようとしておられる」
「……」
「だから、私は。少しでも、王妃様の負担を、軽くしたい。そのためなら、何でもする覚悟です」
シャルティエは、そこで、言葉を切った。
そして、もう一度、ドブレを見た。
「今後、あなたが、どうするか。それは、私には、わかりません」
「……」
「ですが――あなたが、一番、わかっているはずです」
「……うるさい」
ドブレの声は、震えていた。
「お前なんかに、言われる、筋合いは……ない」
「ええ」
「くそ……」
ドブレは、墓石に、額を、押しつけるようにして。
ふたたび、うずくまった。
「どうして、だよ……」
絞り出すような、声だった。
「どうして、あいつは。他の連中を、救って……俺の妻と、息子は、助けて、くれなかったんだ……」
答えなど。
どこにも、なかった。
「どうして……どうして……」
ドブレは、叫び、泣き続けた。
子どものように。声を、上げて。
三年間、誰にも見せられなかった涙を。誰もいない墓地で、ただ、流し続けた。
シャルティエは、何も言わず。
ただ、その背中を、いつまでも、見つめていた。
傾いた陽が、二人を。そして、小さな墓石を。静かに、赤く、染めていた。
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