第六十五話 悪は滅びる、はずだった
テレー財務長官、解任。
新聞でその報せを知った妙子は、ついに悪が滅びたと大喜びします。
しかし、これまで敵だと思っていた男が、慈善病院にとって思わぬ防波堤にもなっていたことを、彼女はまだ理解していませんでした。
わたしは今、理事長室で、新聞を片手に、力いっぱいガッツポーズをしていた。
「悪の栄えたためしなし。悪は滅びるのよ。あのくそ営業スマイル男にも、ようやく天誅が下ったってわけね!」
新聞の一面には、でかでかと、こう書かれている。
【テレー財務長官、解任】
ついに。ついに、である。
あの胡散臭い笑顔で、わたしを持ち上げ。病院の名前を、勝手に変え。あげく、貴族と教会への増税の、弾除けにした。
あの男が。失脚したのだ。
これはもう、祝勝会である。赤飯でも炊きたい。米ないけど。
「ねぇ、聞いてる? あいつ、クビになったのよ、クビ。ざまぁみろってんだわ。これで枕を高くして眠れるってもんよ」
……などと、一人で浮かれているのは。
どうやら、わたしだけ、らしかった。
ふと見ると、シャルティエは不安そうに新聞を見つめ、ヴァロワにいたっては、眉間に深い皺を刻んで、なにやら、ものすごく深刻そうな顔をしている。
「ちょっと、二人とも。何そんな、お通夜みたいな顔してるのよ。今日は祝勝会よ? ぱーっといきましょうよ、ぱーっと」
「王妃様」
ヴァロワが、すっと、眼鏡を押し上げた。
この仕草が出たときのヴァロワは、だいたい、ろくなことを言わない。長年の付き合いで、わたしはそれを学習していた。
「お気持ちは、わからなくもありません。ですが」
ほら、出た。「ですが」。
「テレー前長官は、少なくとも、当面の病院予算については、維持を約束していました」
「……え?」
「長官が代われば、その約束も、白紙になる可能性があります。そのようなことにでもなれば――運営は、一気に、苦しくなります」
スッ……と。
さっきまでの祝勝ムードが、音を立てて引いていくのがわかった。
「え、ちょっと待って。新しい長官って、そんなに予算を削りそうなの?」
「まだ、決まったわけではありません。ただ――新長官は、非常に、合理的な方です」
「ご、合理的」
「はい。この施設を、非合理だと判断すれば。真っ先に切り捨てることも、厭わないでしょう」
「……まじ?」
「はい」
ヴァロワは、容赦なく、頷いた。
この男、人が浮かれているときに冷や水をぶっかける才能だけは、天才的である。
「もちろん、有用性を示せれば、問題ありません。ですが――うまくいきかけていた募金活動は、現在、停滞しています。貴族と教会からの信頼も、失いました。早急に、別の収支構造を、示す必要があります」
「はぁ……」
わたしは、がっくりと、机に突っ伏した。
「やっと、あいつがいなくなって。わたしの時代、来たーって、思ってたのに。一難去って、また一難じゃないの。とほほ」
悪は滅びた。
滅びたのに、ちっとも、楽にならない。
むしろ、これまで「敵」だと思っていた男が、地味に、防波堤の役割を果たしていたらしいことが、今になって発覚する始末。
なんなのよ、もう。
そのときだった。
「いやぁ、景気のいい話を、してますねぇ」
聞きたくもない声が、理事長室の扉の向こうから、聞こえてきた。
振り向くと。
また、性懲りもなく。あのクソリプ髭男――ドブレが、にやにやしながら、勝手に部屋へ入ってくるところだった。
しかも、当然のように、わたしの紅茶へ、手を伸ばしている。
ここは、無料のカフェじゃねぇんだよ。勝手に人の紅茶を飲むな。
「聞きましたよ。テレー長官、解任だとか」
ドブレは、どっかと椅子に腰を下ろし、にやにやと笑った。
「テレー長官、肝いりのこの病院も。後ろ盾を失って、さーて、どうなるんでしょうねぇ」
「肝いりじゃなくて、弾除けの盾にされてただけだけどね」
「ははは。そりゃいい。肝いりなんだか、肝を冷やしてるんだか、分かったもんじゃありませんな」
ドブレは、何がそんなに面白いのか、一人で肩を揺らして、笑っていた。
けれど。
ひとしきり笑ったあと。
ふいに、その笑みが、すっと、消えた。
「……ま、今日は用事があるんで。これで、失礼しますよ」
そう言って、ドブレは、立ち上がった。
……あれ?
いつものように、病院内をうろついて、あちこち物色するでもない。嫌味を、追加で投げつけるでもない。
ただ、それだけ言って、あっさりと、理事長室を出て行った。
別に、ここはドブレの職場じゃない。いなくなって、困ることなんて、一つもない。むしろ、せいせいする。
……はずなのだけれど。
いつもなら、頼んでもいないのに、長々と居座る男が。今日に限って、妙にしおらしく帰っていくのは。
逆に、なんだか、気持ち悪かった。
まるで、何か――よくないことの、前触れみたいで。
「まあ、わたしには、関係ない話だけどね」
わたしは、そう、つぶやいた。
このとき、わたしは、まだ知らなかった。
あの男が、この病院に。そして、わたしに。いったい、どんな因縁を抱えていたのかを。
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