第六十四話 王として、命じる
執務室に戻ると、義叔母様たちが、顔を上げた。
ルイは、しばらく、黙っていた。
喉が、からからに乾いている。指先が、まだ震えている。
それでも、なんとか、声を絞り出した。
「……テレーを、解任する」
部屋の空気が、重く、沈んだ。
誰も、勝った顔をしなかった。
義叔母様たちも、安堵などしていなかった。ただ、わかっていた。今、それをしなければ、この国は、今夜にも、真っ二つに裂ける。
その事実だけが、そこにあった。
「よく、決めました。陛下」
暗く、悲痛な面持ちで。
義叔母様の言葉だけが、しんとした執務室に、響き渡った。
* * *
翌日。
テレーは、国王執務室に呼び出された。
「お呼びでしょうか、陛下」
いつもどおりの、にこやかな営業笑顔だった。
だが、その目だけは、どこか、静かだった。すでに、何もかもを、見透かしているような目だった。
ルイは、机の向こうで、深く息を吸った。
「呼び出した理由は……わかりますか」
「なんとなくは」
テレーは、表情を変えなかった。
「いずれ、こうなるだろうとは、思っておりました」
少しも、驚いた様子はなかった。
その、あまりにも静かな態度が、かえって、ルイの胸を締めつけた。
怒鳴ってくれたほうが、まだ、よかった。罵ってくれたほうが、まだ、楽だった。
なのに、この男は。
これから自分を切り捨てる相手の前で、ただ、淡々と立っている。
「……すまない」
言ってから、ルイは、自分の声が、また震えていることに気づいた。
ぐっと、奥歯を噛む。
「僕は、おじいさまではない。僕の力では、もう、この国を押さえきれない。だから、誰かが、責任を取らなければならない」
拳を握る。爪が、手のひらに、食い込んだ。
「たとえ、それが――間違った選択だとしても。今の僕には、それしか、選べない」
うつむいた。
顔を、上げられなかった。
これが、正しいのかどうか、わからない。この男は、確かに憎まれていた。国じゅうから、嫌われていた。
でも、ルイは、知っている。
この男が、誰よりも先に、傾きかけた国の財布を見つめていたことを。誰もやりたがらない、汚れ役を、自分から買って出たことを。憎まれることを承知の上で、それでも、国を救おうとしていたことを。
その男を、今、自分は、切ろうとしている。
——僕は、最低だ。
そのときだった。
「陛下」
テレーが、静かに、口を開いた。
ルイは、顔を上げられないままだった。
「顔を、お上げください」
テレーの声は、いつものような、媚びたものではなかった。
冷たくもなく。怒ってもいない。ただ、淡々と。けれど、芯の通った声だった。
「王は、いついかなる時も、胸を張って、家臣に命じなければなりません」
ルイは、息を呑んだ。
「たとえ、それが、愚かな命令であったとしても、です。王が迷えば、国が迷います。王がうつむけば、家臣は、崩れます」
テレーは、まっすぐに、ルイを見ていた。
その目に、もはや、あの胡散臭い笑みはなかった。あるのは、一人の老臣の、最後の、忠義だけだった。
「ですから、陛下。私を解任なさるのであれば――どうか、堂々と。王として、ご命令ください」
ルイは、ゆっくりと、顔を上げた。
目の前にいるのは、自分がこれから、切り捨てる男だった。
憎まれて、当然の男だった。
だが、その男は今、自分に向かって、「王であれ」と、教えている。
切られる側の人間が。切る側の人間に。
ルイは、震える息を、押し殺した。そして、テレーを、見据えた。
「財務長官、テレー」
声は、まだ、少し震えていた。
それでも、もう、逃げなかった。
「本日をもって、貴殿を、財務長官の任から解く」
テレーは、深く、一礼した。
「――陛下の御代に、幸あらんことを」
それだけを残して。
静かに、執務室を、去っていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく、響いた。
ルイは、しばらく、動けなかった。
ひとりの男を、切った。
それで、国が救われるわけではない。財政が、立て直されるわけでもない。貴族と教会の怒りが、消えるわけでもない。
ただ、今夜にも裂けかけていた王国を、ほんの少しだけ、先へ押し留めた。
それだけ、だった。
王冠は、重かった。
昨日まで、王太子だった青年の肩に、それは、あまりにも重すぎた。
けれど、もう、降ろすことはできない。
ルイは、机の上に積まれた書類へ、目を落とした。
そこには、これから彼が向き合わなければならない、国の痛みが。数字となって、冷たく、並んでいた。
——こうして、新王ルイ十六世の治世は、始まった。
祝福でもなく。歓声でもなく。
ひとりの財務長官の更迭と、誰も勝者のいない、沈黙の中で。
そしてフランス王国は、もう戻れない時代へと、静かに、足を踏み入れていくのだった。
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