第六十三話 なにもしてないけどね
王冠の重さに押し潰されそうになったルイ。
あてもなく歩いた彼がたどり着いたのは、なぜか妙子の部屋の前でした。
何か特別な助言をしたわけではありません。それでも、いつも通りの妙子の言葉は、彼の背中を少しだけ押すことになります。
廊下を、あてもなく歩いた。
足が、勝手に動いていた。どこへ行こうという当てもない。ただ、あの執務室から、少しでも離れたかった。
王冠の重圧から。義叔母様の、まっすぐな視線から。そして何より――決断を迫られている、自分自身から。
気がつくと、ルイは、見覚えのある扉の前に立っていた。
マリーの部屋の前だった。
なぜ、ここに来たのか。自分でも、よくわからなかった。
ただ、足が、ここへ向かったのだ。
立ち尽くしていると、ちょうど、中から扉が開いた。
「あら?」
出てきたマリーが、目を丸くした。
「ルイ君、どうしたの? 何か用?」
その、いつもと変わらない、気の抜けた声に。
ルイは、なぜだか、ほんの少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「あ、いや、その。……どうしてるかな、と思ってね」
我ながら、間の抜けた答えだと思った。一国の王が、こんな時に、妻の部屋を訪ねて「どうしてるかな」もないだろう。
けれど、マリーは、特に気にした風もなかった。それどころか、はぁ、と大きなため息をついて、肩をすくめてみせた。
「いやぁ、もう、散々よ」
「散々?」
「そうよ。あのテレーのくそったれのせいで、せっかくうまくいきかけてた募金も、ぜんぶとん挫しちゃうし。国王陛下は……お亡くなりになっちゃうし。正直、もう、どうにでもなれーって感じ。あはははは」
からからと、マリーは笑った。
こんな状況で、よく笑えるものだ、とルイは思った。
いや、違う。
これは、無理をして笑っているのだ。たぶん、この人も、本当は泣きたいくらいなのだ。それでも、笑っている。
「それより」
マリーは、ふと、笑いを引っ込めて、ルイの顔を覗き込んだ。
「ルイ君こそ、大丈夫? 新王に即位して、大変よね。何か相談ならいつでも聞くわよ。あ、でも、頭を使うことは苦手だから、難しい話はだめよ。体を使うことなら、どーんと来なさい!」
そう言って、マリーは、ぐっと力こぶを作るような仕草をしてみせた。
……ぷっ。
ルイは、思わず、噴き出してしまった。
国の存亡がかかった、この大変なときに。「体を使うことならどーんと来い」とは、いったい何をする気なのか。
けれど、その、あまりにもマリーらしい言い草が。
なぜだか、今のルイには、ひどく、ありがたかった。
「君は、強いね……」
ぽつりと、ルイは言った。
「え? そ、そうかな」
マリーは、きょとんとした顔をした。
「いつも、テレーにはめられて、おぼこられてんだけど」
「ふふ」
ルイは、もう一度、小さく笑った。
そうだ。この人は、いつもそうだった。
王宮じゅうから、よそ者扱いされて。侍女には無視されて、家臣には睨まれて、新聞には好き放題に書かれて。普通なら、とっくに心が折れてしまうような場所で。
それでも、この人は、逃げなかった。腐らなかった。あの汚い病院に、自分から足を運んで。患者の手を握って。掃除をして。クソリプ記者にだって、堂々と言い返して。
何度、はめられても。何度、笑われても。それでも、立ち上がってきた。
僕は、どうだ。
王冠の重さに、押しつぶされそうになって。決断ひとつ、できずに。妻の部屋に、逃げ込んで。
——情けない。
でも。
「ありがとう」
ルイは、言った。
「少し、元気が出たよ。じゃあ、またね」
「うん。どういたしまして……って、なにもしてないけどね?」
マリーが、不思議そうに首をかしげる。
その顔を背に、ルイは、踵を返した。
廊下を歩く足取りは、来たときよりも、ほんの少しだけ、しっかりしていた。
——もう、やるしかない。
そう、思った。
決断したからといって、急に自信が湧いてくるわけではない。王冠をかぶったからといって、自分が、王にふさわしい人間になるわけでもない。
ただ、逃げれば、もっとひどいことになる。
それだけは、はっきりと、わかった。
執務室の扉に手をかける。
その手は、まだ、少し震えていた。
それでも、ルイは、扉を開けた。
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