第六十一話 我が亡き後に、洪水よ来たれ
国王陛下、危篤。
その報せを受けた妙子は、取るものもとりあえず陛下のもとへ駆けつけます。
いつも豪快に笑っていた王は、もはや絶対君主ではなく、ひとりの弱った老人として彼女を迎えるのでした。
わたしは、取るものもとりあえず、国王陛下のもとへ、駆けつけた。
寝室には、すでに、王族や重臣たちが、集まっていた。皆、無言で、ベッドのほうを見つめている。
そして、その中心、天蓋付きの大きなベッドに。
陛下は、横たわっていた。
……あぁ。
いつも、自信満々に、にっこり笑って、孫娘に向かってセクハラを飛ばしていた、あの、絶対王の姿は。
そこには、なかった。
代わりに、いるのは。
頬がこけ、目の周りがくぼみ、痩せた腕をシーツの上に投げ出した――今にも、命の炎が、ふっと吹き消されそうな、一人の。
弱々しい、お爺さんだった。
それだけ。
「……おう、マリーか」
陛下が、わたしに気づいて、かすれた声で、こちらに目を向けた。
「見舞いに、来てくれたか」
「陛下……!」
わたしは、ベッドのそばに駆け寄った。気づけば、目から、涙がぼろぼろ、こぼれていた。
「陛下、早く元気になってください! 陛下が亡くなったら、わたし、どうしていいか、わかりません!!」
それは、本心だった。
確かに、嫌なじいさんだった。セクハラもひどかった。でも、敵だらけのこの宮廷で、温かい目でわたしを見てくれた、数少ない人の、一人だった。
すると。
陛下は。
弱々しく、しかし、にやり、と笑った。
「……わしを、元気に立たせたいなら」
「は、はい!」
なんでもします。なんでもお願いします、だから――。
「早く、ルイから子種をもらうのだ」
「…………は?」
「最前列で、それを、見届けさせてくれれば。こんな病、一発で治せるわ。はっはっは……うぐっ」
…………。
…………あぁ。
このじいさん。
最後まで。
最後の、最後まで、ぶれない。
いやちょっと待って、今、咳き込んでる場合じゃない、笑わせないでください、わたし、笑っていいのか泣いていいのか、わからないんですけど。
こんなときまで、セクハラを貫く国王陛下に、わたしは、半分呆れながら、半分、安心しながら。
涙を拭って、こう答えた。
「……わかりました。では。国王陛下が、お元気になられたあかつきには――お見せします。だから、早く、お体を、お治しください」
我ながら、ものすごい、譲歩である。
ものすごい譲歩を、口にした。
でも、今だけは。今だけは、いい。陛下が、元気になってくれるなら、なんでもいい。
すると、陛下は。
ふふっ、と、小さく笑った。
「……見せてくれなければ、治らないと、言うておるのに。わがままな娘、だな」
そして。
天井を、ぼんやり、見上げて。
「……まぁ、確かに、それを見届けるまでは。わしは――死ねんな」
…………。
「……うぐっ」
「陛下!? 陛下、陛下!!」
それが。
その言葉が。
国王陛下、ルイ十五世の。
今生で、最後の、言葉となった。
* * *
一七七四年、五月十日。
「我が亡き後に、洪水よ来たれ」
――この、後の世にまで残る、有名な言葉を生前に好んで口にしたとされる、ただ一人の、人好きの王が。
その生涯を、閉じた。
歴史の教科書では、フランス王国を傾けた「暗愚」と呼ばれることになる、王。
けれど、わたしにとっては。
セクハラまみれの、けれど、最後までわたしを孫娘として可愛がってくれた、一人の、不器用なお爺さんだった。
寝室を出ると、廊下は、しんと静まり返っていた。
王族も、重臣も、侍女たちも、皆、立ち尽くしている。誰一人、口を開かない。
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